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二段仕込みの牙

「ひっ……! 冗談じゃないわよ、何なのよその爪は!」


熊蔵が背中をこちらに向けた瞬間、墨で描かれたはずの虎の脚が、実体を持って空を切り裂いた。


黒い霧のような質感を残しながらも、その先にある爪は本物の鋼よりも鋭く、畳を易々と引き裂いていく。


「ッ、せいっ!」


私は地面を転がるようにしてその一撃をかわし、すぐさま踏み込んで仕込み杖を振るった。


狙うは熊蔵の首筋。だが、あくまで相手は操られている人間だ。殺すわけにいかない。私は咄嗟に刃を返し、峰打ちでその肉を打った。


ゴンッ、という鈍い衝撃。普通の人間なら悶絶して倒れるはずの一撃が、今の熊蔵には全く通じない。


墨の虎が彼の痛覚を麻痺させているのか、彼は獣のような咆哮を上げ、さらに勢いを増して襲いかかってくる。


「ひ、ひぃぃぃっ! 出たぞ、化け物だ!」

「逃げろ! 巻き込まれるぞ!」


賭場の男たちは、蜘蛛の子を散らすように出口へと殺到した。


阿鼻叫喚の渦中、たった一人、榊だけが部屋の隅にどっしりと腰を下ろし、銀のキセルを揺らしながら悠々とその光景を眺めていた。


(……あの性格破綻者! 助けてくれてもいいじゃない!)


内心で毒づくが、今は目の前の猛虎をどうにかするのが先決だ。


再び襲い来る黒い爪。私は仕込み杖でそれを受け止めるが——。


パキンッ!


という、乾いた、そして絶望的な音が響いた。墨の虎の圧倒的な力に耐えきれず、私の愛刀——父上からいただいたなまくら仕込み杖の刀身が、真っ二つに折れたのだ。


「えっ……嘘……」


折れた先は回転しながら床に突き刺さる。手元に残ったのは、柄と半分以下になった刀身だけ。完全な窮地。墨の虎が、視界のないはずの顔をこちらに向け、大きく口を開いた。


「……チッ、そこまでか」


榊がようやく重い腰を上げ、懐に手を伸ばしたその時だった。


「——まだよっ!」


私は、床に刺さった折れた刀の破片を見逃さなかった。畳を強く蹴り、折れた刃を足先で正確に跳ね上げる。回転しながら飛んだ鋼の欠片は、唸りを上げて熊蔵の背中——瞳のない虎の入れ墨のど真ん中に突き刺さった。


「ガアアアッ!?」


虎が、そして熊蔵が、不意の衝撃に大きく怯む。墨といえど、物理的な痛みまでは無視できなかったらしい。


「西園寺家の剣術、侮らないで……!」


私は、手元に残った柄の末端——石突の部分を、親指で強く押し込んだ。


カチリ、という小さな金属音。仕込み杖の持ち手の中から、さらに小さな、だが極めて鋭利な別の短刀が飛び出した。


これこそが、父上が私に授けた『二段仕込み杖』の真骨頂。刀が折れた後こそが、この武器の真の始まりなのだ。


私は虎が怯んだ一瞬の隙を突き、熊蔵の懐へと滑り込んだ。狙うは急所ではない。私は流れるような動きで、熊蔵の両手両足の腱を、その隠し刃で正確に切り裂いた。


「……ッ、はぁ、はぁ……」


力が抜けたように、熊蔵がその場に崩れ落ちる。


宿主が意識を失いかけると同時に、背中の墨の虎も霧霧霧と溶けるようにして、元の動かない入れ墨へと戻っていった。


決着。


部屋を支配していた不気味な妖気が消え、再び湿った夜の空気が流れ込んでくる。


「……驚いたな。二段仕込みだったとは」


榊が、いつの間にか私のすぐ後ろに立っていた。彼は懐から出した札を熊蔵の背中に貼り付け、呪いの墨を封印すると、満足げに私の顔を覗き込んだ。


「刀を蹴り上げるとは、随分と野蛮な剣術だし、仕込みに仕込みを入れているのも驚いた……なにより判断は悪くなかった。……よくやったな、雛」

「…………っ、だから、最初から助けてくれれば、こんなボロボロにならなくて済んだんですよ!」


私は折れた刀の柄を握りしめたまま、精一杯の怒声を上げた。けれど、この毒舌男に素直に褒められたことが、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、誇らしかったのは秘密だ。


江戸の不夜城で起きた盲の虎の怪事件。


江戸に渦巻く黒い鵺の影は、今夜もまた一つ、その断片を露呈させたに過ぎなかった。

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