第5話 ルーン法務院の裏口
夜気は冷たく、肺の奥まで刺さった。
けれど広場の光よりは、ずっとマシだ。
ミラ・ヴェルが先に出る。
彼女の足取りは迷いがない。石畳の影を選び、灯りの輪を避け、音が出ない場所だけを踏む。
“慣れている”。この街の隙間で生きてきた人間の動きだ。
レイアは俺の半歩後ろ。
手首の紋は、ミラの薬で発光が鈍っている。
それでも、完全に消えない。脈のように、弱く、しつこく。
システムが視界の端で淡く揺れる。
状態:罪状“儀式妨害” 継続
認識補正:中(敵意上昇)
追跡リスク:高
推奨:最短経路ではなく低観測経路
最短じゃない道。
――それが、いちばん安い。
ミラが指で合図した。止まれ。
角の向こうに、衛兵が二人。
槍を持ち、ランプを揺らしながら、通りを見張っている。
彼らの会話が聞こえる。笑っている。
狩りだ。人を追うのが仕事の顔じゃない。遊びの顔だ。
レイアの肩が小さく震えた。
俺は声を出さず、ただ手の甲で合図する。――大丈夫。呼吸を合わせろ。
ミラが耳元で囁く。
「正面は無理。ルーン法務院は今、全面警戒」
「でも裏口なら行ける。ここから三つ目の路地、右、井戸の横」
井戸。
子どもの頃、腹を空かせて走った裏道に確かにあった。
記憶と一致するのは安心だ。嘘をつかれていない。
俺は石を一つ拾い、手の中で転がす。
音の出る硬さ。重さ。投げる角度。
――混乱は安い。
俺は角の向こうへ石を投げた。
わざと、少し遠くに。
石が壁に当たって乾いた音を立てる。
「なっ……?」
衛兵の片方が首を向け、もう片方も釣られる。
その半拍で、俺たちは逆側へ滑り込む。
システムが短く評価した。
評価:低コスト陽動
実利ポイント+2
走らない。
走れば目立つ。
歩幅を小さく、呼吸を深く。音を殺して進む。
路地は狭く、壁が近い。
湿った石の匂い。古い木の匂い。
遠くで猫が鳴き、どこかの家からパンを焼く甘い匂いが流れた。
――この街は、普通に生きてる。
なのにその同じ街が、レイアを“器”として燃やそうとしている。
井戸が見えた。
黒い縁石。水面は暗く、月を飲んでいる。
ミラが井戸の横の木箱をどかし、壁の隙間へ指を入れた。
カチリ、と小さな音。
石壁の一部が、押すと沈む。
「古い逃げ道。法務院の裏へ繋がってる」
ミラは平然と言う。
「表の門があるのに、裏に穴がある。権力ってのはそういうもん」
扉が、石の擦れる音も出さずに開いた。
中は真っ暗。冷たい空気が流れてくる。
レイアが小さく息を吸う。
怖い。でも進む。
彼女はもう、ただの“守られる人”じゃない。
俺は棒を握り直してから、先に入った。
通路は低い。頭が壁に当たりそうだ。
苔で滑る。足の置き場を選ぶ必要がある。
システムが薄く補助する。
《スキル:支点 Lv.1》
姿勢補正:微
滑りリスク:軽減
小さな補正。
だけど、こういう場所では命に直結する。
通路を抜けると、木の扉が現れた。
扉の向こうから、紙をめくる音がする。
夜なのに誰かがいる。
ミラが指を口元に当て、囁いた。
「法務院の夜番。たぶん一人。寝てるか、書類に追われてるか」
俺は耳を澄ます。
ペンの走る音。
焦っている。寝てない。
――なら、起こさずに通るのが一番安い。
俺は扉の隙間から覗いた。
小さな執務室。棚には帳簿。壁にルーンの規定板。
机に若い男。目の下が黒い。書類に埋もれている。
俺が一歩踏み出した瞬間、男が顔を上げた。
目が合った。
「……誰だ」
声が震えている。
彼も怖い。衛兵みたいな“狩りの顔”じゃない。
ただ、巻き込まれるのが怖い顔だ。
俺は棒を向けない。
棒を向けたら、彼は敵になる。
ここで敵を増やすのは高い。
俺は手のひらを見せて言った。
「叫ぶな。傷つけない」
「ルーン法務院の書類を見たい。『器登録』の例外条項――第七码の確認だ」
男は目を丸くした。
「……あ、あんた……広場の……」
罪状が効いている。
認識補正が、彼の中の恐怖を増やしている。
システムが警告を出す。
注意:認識補正が交渉コストを上げています
推奨:第三者の信用を利用
ミラが一歩前へ出た。
彼女は男に向かって、軽く手を振る。
「久しぶり、トーリ」
彼女は友達みたいに言った。
「大丈夫。今日は血の匂いじゃない」
男――トーリが、ミラを見て固まった。
「ミラ……お前、また……!」
「また、じゃない。今は大事な用」
ミラは机の上に小さな革袋を置いた。中身が硬貨だと分かる音。
「夜番手当。――それと、あんたが嫌いな“上”を困らせる話」
トーリの喉が動いた。
金だけじゃない。
“上を困らせる”という言葉に、個人的な感情が混ざっている。
俺はここで初めて、ミラの選んだ“味方”の理由を理解した。
彼女は信頼じゃなく、利害と感情で人を動かす。
合理的だ。
レイアが静かに一歩出る。
彼女は震えている。でも目は逃げない。
「私……器にされるのが怖い」
レイアは、まっすぐ言った。
「同意したのは、自由じゃなかった。部屋に衛兵がいて……拒んだら街が壊れるって……」
トーリの顔色が変わった。
恐怖から、怒りへ。
「……あいつら、そこまで」
彼は小さく呟き、拳を握った。
「……第七码は、確かにある。けど見せたら、俺は終わる」
終わる。
彼の人生が壊れる。
それを避けて、レイアの人生を壊してきたんだ、この街は。
俺は言葉を選ぶ。
ここで正義を振り回したら高い。
彼を失う。証拠も失う。
俺は低い声で言った。
「終わらせない方法を考える」
「俺の目的は復讐じゃない。――彼女を“器”から人に戻すことだ」
トーリは俺を見た。
罪状の“悪役”フィルター越しに、それでも見ようとしている。
システムが小さく点滅する。
交渉:成功率上昇(誠実性)
実利ポイント+1(小)
トーリが息を吐き、引き出しから鍵束を取り出した。
「……五分だけだ」
「奥の保管庫。『器登録』の原本は、封印棚にある。印が必要だ」
彼は机の引き出しを開け、小さな赤い蝋印を出した。
「これがないと、棚が鳴る」
封印棚。
音が出る罠。
権力は監視が好きだ。
ミラが笑う。
「さすが、法務院の人間」
俺は頷き、棒を持ち替えた。
次は力じゃない。手際だ。
トーリが案内する通路を進む。
壁には規定板。ルーンの条文が並ぶ。
その一つに、俺の目が止まった。
器登録は“市の安寧”のために必要。異議は認めない。
綺麗な言葉だ。
でも、綺麗な言葉ほど人を殺す。
保管庫の前で、トーリが立ち止まる。
扉には薄い紋が走り、微かに脈打っている。
“触れるな”とでも言うように。
ミラが囁く。
「ここで油断すると終わるよ。音が鳴ったら、衛兵が来る」
レイアが手首を押さえる。
紋の発光が、さっきより少し強い。
――薬の効果が切れ始めてる。
時間がない。
俺は深く息を吸い、頭の中で手順を並べた。
鍵。蝋印。棚。原本。第七码。証拠。脱出。
順番を間違えたら、高くつく。
システムが静かに表示する。
推奨:最短手順の実行
追加報酬:証拠確保に成功した場合、解除条件情報の解放
解除条件。
器の解除条件。
俺は扉の前に立った。
「行く」
トーリが蝋印を押し、封印が一瞬だけ弱まる。
俺が手を伸ばした、その時――
廊下の奥で、甲冑の擦れる音がした。
衛兵だ。
近い。多い。
ミラが低く笑った。
「……早いね。反作用、第二段階ってやつ?」
システムが赤く点滅する。
《反作用:第二段階 発動》
追跡部隊:接近
推奨:証拠を優先、戦闘は回避
棒のほうが速い。
だが今は――速さよりも、証拠が強い。
俺は扉を押し開け、暗い保管庫へ踏み込んだ。
(つづく)




