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花菖蒲殺人事件(左金吾花捕物控)時代小説  作者: 近江守満久
第一章 はじまりは日常から
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すれ違い(2)

 左金吾は事態を読み込めてなかったが、自分の名前を知らない男に呼ばれた。

 商人風の男は何者なのか。

 ただ、命の危機は脱した。

 足元が震える。

 再び間合いを取って、正眼に構えなおした。

 脇をあけている。

 

「お前の地摺りの剣はすでに見切った」

 黒装束の韮山笠の男は、にやりと笑った。

「お前はだれだ!」

 左金吾は誰何した。

「おぬしの名は、左金吾というのか・・・松平織部の倅か?」

「・・・」

 左金吾は答えない。

「むん!」

 黒装束の韮山笠の男は、左金吾に対して一閃。

 左金吾は、慌てて脇差で受けるも、キンと音がして、折れた。

 

 商人風の男は、しまった!という顔をした。

 左金吾は、あの男は、少なくとも敵ではないことを察知した。


 そして、商人風の男が、持っている鍋をカンカンと何かでたたき出した。

 甲高い鉄を打つ音があたりに響いた。

 

 渋谷川の対岸の天現寺の僧侶たちが、何か何か、と出てきた。


「潮時だ。左金吾、また会おう」

 そういって、恐ろしい速さで走って去った。


 商人風の男が近づいてきた。

 左金吾は警戒を解かなかったが、敵ではないと承知していた。


「間に合ってよかった!初めてお目にかかります。あっしは、花屋助六といいます。さるお方にあなた様を呼んでくるよう申し伝えられて、お捜ししておりました」

 左金吾は訝しんだ。

「花菖蒲の事件のことで・・・」

 左金吾は、花菖蒲のこと、といわれて少し引っかかった。

「その方、何か知っておるのか?」

 助六は左金吾の着物を見た。

 左金吾も自分の着物を見た。

 血飛沫を受けて、血の匂いもひどい。

 

 渋谷川の対岸で、僧侶たちが、右往左往している。

 先ほど、この助六が鳴らした鍋の音の騒動で、何事か、と確認している様子だった。

 二人は草むらで座り込んでいた。

「このままじゃ、市中はあるけません。あっしが、近くの農家か何かで、着替えを見繕ってきますから、左金吾さまはどうか、あの木陰の地蔵さまのところで身を潜めてくだせえ」

「おぬし、なぜ私の名前を・・・」

「それも含めて、道すがらお話しますん」。

 そういって、助六と名乗った男は、広尾原を渋谷川沿いにすすんだ。


 左金吾は、花菖蒲の事件のことも気になり、このままだと屋敷に戻れないため、いったん助六の言う通り、木陰の地蔵に隠れるようにして待った。

 

 対岸の天現寺のまえでは、僧侶たちが落ち着いたらしく、門前にはすでに人影はなかった。

 日が伸びてきたので、まだ辺りは明るかった。

 ぼんやりと天を仰いでいると、トンビがくるりと回った。

 辺りには血臭が漂っている。

 脇差を持った手が固まって、動かない。

 歯は綻んでいる。

 最後に受けた一閃で、途中で折れた。

 現実に戻ったような気がした。

 斃した相手は5人。

 1人目は農夫、2人目は、3人目は、4人目は…

 転がってる者たちをみても鮮明には覚えていない。

 白刃が迫ることだけが脳裏に焼きついていた。

 時間が過ぎていけば、己のしたことが恐ろしくなった。

 ピーヒョロロとトンビが鳴く以外、広尾原は静かだった。


 助六が戻ってきた。

「左金吾さま、農家から着替えは調達できなかったので、左金吾さまのお屋敷へ遣いを走らせました」

 助六は、残念そうに言った。

 「それで、大丈夫だったのか?私の屋敷から誰か来れば、そこもとに同行できなくなります」

 左金吾は、命を助けて貰ったので、すこし申し訳ない気持ちだった。

「いいや、今日でなくても構いません。こちらも急ぎではあるのですが、こんなことになってしまったので、致し方ありません」

「ところで、私に会いたいというそのお方は、どなたなのか?」

 左金吾は、今気になっていることを尋ねた。

「以前、四谷の例の茶屋でお会いしていると思いますが・・・」

 助六は、知っているはずです、という顔で答えた。

左金吾は、花菖蒲の件と聞いて、やはり、という顔をした。

「しかし、助六どの」

「あいや、あっしのことは助六と呼んで下せえ」

「では助六。あの着流しの侍はどなたか?」

 助六は、少し苦笑いをして、

「大変申し訳ございません。あっしの口からは、お伝えできねえんで。できましたら、直にお尋ねください」

 助六は、申し訳なさそうにはしていなかった。

 左金吾は、自邸の花菖蒲で命まで狙われたのだから、会わないわけにはいかないだろう、とぼんやりと考えていた。

 そうこしているうちに、天現寺の脇の道から、麻布桜田町の屋敷まで呼びに行った農夫と、数名の家人が走ってやってきた。

 天現寺の向かいにある橋の袂で、若さまー、若さまー、と呼びながら、探している風だ。


 助六は、身をかがめて、

「それでは、あっしはこれで。あの方とお会いになるのは、また四谷の茶屋で道場の帰り時分にお願いします」

 できましたら、明日か明後日にでも、といって、去っていった。


 左金吾を迎えに来た者たちは、渋谷川の橋を渡って小走りでやってきた。

「おーい、ここだ!」

 左金吾はすくっと立ち上がった。

 農夫とともに、父の配下が走ってくるのが見えた。


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