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花菖蒲殺人事件(左金吾花捕物控)時代小説  作者: 近江守満久
第一章 はじまりは日常から
5/13

花菖蒲の行方

 左金吾(さきんご)は今日も朝から庭で花菖蒲の世話をしていた。

 今朝も役宅のほうから父の金切り声がキンキン響いていた。


 もちろん下男の繁三とともに。

 繁三はこう見えて、字の読み書きができる。

 今朝は、花菖蒲たちの成長の度合いや、花の咲き方について記録を書き留めていた。


「坊ちゃま、こちらの花菖蒲ですが、殿様がすでに採花(さいか)されていましたか?」


 繁三は、ちょうど花の下あたりで切り取られている株を見てそう言った。

 左金吾は、首を傾げた。

「これはまだ花が咲いていない株で、ちょうど今日明日くらいが見ごろだったはず・・・」


 父上が採花することはまずない。

 たいていは、花が咲き誇るころの地域の町人の女子供へ配るときか、端午の節句のときでしかない。

 しかもこれは珍しい品種であるから、切り取ることはまずない。

 いずれ種を取って、増やすおつもりだったか・・・


 そして、品名の書いてある木札が必ずつけてあるのだが、それも株についていない。


「繁三、ここに品名の株をつけた木札があったはずだが・・・」


 繁三もまじまじとその株を見る。


「あれ、本当でございますね。この株にはたしか・・・」

「初紅だったと思う」


 左金吾は覚えていた。


 白地にすっと薄い紅を引いたような可愛らしい花であった。

 最近交配した品種で父が女子供に喜んでもらいたいと、必死に育種したものだった。


 花菖蒲といえば、紫を地にした花が多く、たまに白や薄紫がでる。

 そして、本当にごくたまに紫から赤みがかった花が生まれる。

 さらに、赤い種類は少ない。

 それが、白地の花にほんのりと赤い紅を乗せたような色なのだ。

 それを父は目指して何年も交配をして、やっと生まれた花だった。

 間近で見ていた左金吾は、この花が登場した時、心躍る思いがしていた。


 その花がない。


 繁三がおろおろしているのを横目に、左金吾は、生け垣の影に落ちている木札を見つけた。

 父の字で「初紅」と記してある。


「この生け垣になぜ・・・」


 いずれにせよ花が消えていた。


         *              *


 左金吾は、いつものように稽古の道具と稽古着をもって、財部兵衛佐の道場へ向かった。

 四谷荒木町の道場には、今日は人が少しいる。


 いつもより左金吾は、早めについた。


 練習着に着替えて、見所にある神棚へ礼をして、木刀を持った。

 本日は、佐々木師範は別の弟子に指導しているため、誰か練習相手を見つけなくてはならない。


「左金吾、久しいな」


 にやりと背が高い左金吾よりやや年上の同胞が声をかけてきた。


「これは、佐久間どの、お久しゅうございます」

「私がこの道場に訪れるときは、左金吾どのはまだこちらにおられず、いつもすれ違いでしたな」


 そういって、たまには手合わせを願いたいと、近づいてきた。


 佐久間は、南町奉行所の同心だ。

 南町奉行所の同心なら、八丁堀にある同心の子息が通う道場へ稽古に行くのが大概だが、この佐久間は、どういうわけか財部先生の所へ通っている。

 左金吾は、是非にと、言って打ち合いをすることとなった。


 一応、佐久間は左金吾より年長であるし、受けの姿勢をとった。


 左金吾は、正眼に構え、切っ先をややずらした。


 お互いの呼吸があい、両者ともに瞬間に間合いを詰めた。


 左金吾は、悠然と木刀を振り下ろす。


 佐久間はそれを受けて左へ流す。


 そして、お互いすれ違いののち向き合い、佐久間は左金吾に打ち込む。


 左金吾は佐久間の木刀をふわっと受け、またゆっくりとした動きで、打ち返す。

 佐久間はふたたび、左金吾めがけて前足をしっかりと踏み込んで、重い一撃を打ち込む。


 そうやって何度か打ち込みを繰り返す。


 左金吾はそれを再びふわっと受け、刀同士がまじりあい、力で押しあう状況となる。それでも左金吾は、すっと右へかわし、佐久間が振り返ると、左金吾は悠然と正眼に構えていた。


「おい、左金吾!遊んでいるのではない!しっかり打ちこめ!」


 遠くで別の弟子に指導していた佐々木師範が怒鳴り声を浴びせた。


 そして佐久間も、


「左金吾、そろそろ本気を足していただかなくては、南町奉行所の同心として、情けない気持ちでおりますぞ」


 そういって、佐久間はいったん間合いを開けて、左金吾めがけて踏み込んできた。

 次から次へと重い一撃を繰り出す佐久間に動じず、左金吾はふわりとふわりと剣を受け流していた。

 佐久間の打ち込みはさすが、南町奉行所の同心なだけあって、激しさを増していた。


 この激しい打ち合いに他のものも、手を止めて眺めていた。


 そして気付けば道場の真ん中で、佐久間の真剣な顔もちと、涼しげな左金吾がお互い間合いを見計らって対峙していた。

 

「佐久間さんも、南町では相当の遣い手だというのに・・・」

「左金吾もなかなかやりおる」


 ほかの弟子たちがその打ち合いを見てひそひそと漏らす。


 左金吾がここまでの打ち合いで余裕があるのも、意外だったらしい。

 

 それはそのはず、今日の左金吾は、今朝の花菖蒲のお花がなくなっている件があったため、あまり手入れをせず、繁三に任せてしまった。


 そして、考え事をしながら、早めに道場へ来ていたのだった。


 左金吾が道場へ来るのは、いつも花菖蒲の世話をしてからで、たいていの場合は、ほとんどの弟子は去った後だった。

 実は財部道場は、この近辺に勤める勤番藩士や旗本など通う風で、数は少ないものの、そのほとんどが勤め人であるため、朝早く道場へやってきて、稽古をし、職場にむかうのだった。

 佐久間は、八丁堀からくるのではなく、南町奉行所の明け番の後、やってくることが多い。それでも、昼前にやってくる左金吾とはそうそうここで会うこともない。


「どうれ、左金吾どのの本気を引き出すとしよう」


 佐久間は、正眼に構え、気力を充実させた。

 財部道場は小野派一刀流の流れをくむ。

 渾身の一太刀を切り札とする。

 特に後の先を得意とし、相手の動きをみてそれにひるむことなく一太刀を浴びせるのだ。


 左金吾はふわりと構えなおした。

 刹那、佐久間が渾身の一擲で振り下ろす、

 左金吾は佐久間の切っ先をわずかによけ、身をねじり、佐久間が振り下ろす瞬間に佐久間の手元を打った。


「おおっ!」


 見物している弟子たちの間にどよめきが起きた。

 佐久間は木刀を離さなかったものの手首がしびれている。


「左金吾どの、父上もさぞお喜び申し上げますであろうか」


 いままで呼び捨てだったが、佐久間はあえて敬称をつけて言った。

 左金吾は表情も変えず、ふわりとまた正眼に構えなおした。


「左金吾もまだまだよのう」


 またいつの間にか見所に道場主の財部兵衛佐が座っていた。


「先生、あいつめ、遊んでいるのではないですか」


 佐々木師範は、財部にこぼした。


「佐久間もわざと左金吾の本気をひきだそうとしておる。普段涼しい顔している佐久間がここまであえて形相を変えているのじゃ。きゃつめ、左金吾の力量を図るには、ちと大げさではあるまいか」


 財部は、佐久間にまだ余裕があるのをわかっていた。


 佐久間は南町奉行所きっての優秀な同心。当然、剣の腕も奉行所で一二を争うほどだ。

 この道場でも、佐々木師範とまではいかないものの、相当の手練れである。

 財部はそのことを十分知っていた。


「左金吾どの、この佐久間を見くびられているのか?」


 佐久間は左金吾を挑発した。

 依然、左金吾は涼やかな顔をしている。

 佐久間は普段の涼やかなお株を左金吾に奪われているようだった。


 左金吾はほんの少しだけ右脇を開けた。

 佐久間はここぞとばかり、打ち込んだ。

 佐久間は左金吾が、わざと右脇をあけたことを知っていた。


 これは、()()()であると。


 左金吾も佐久間がそれを読んでいることは察知している。

 そして、左金吾はそのまま右腕を引き、大きく振りかぶってくる佐久間の木刀めがけて、すいっと腰をかがめ、横なぎで一閃。


 見物の弟子たちも息をのむ。


「左金吾もまだまだおさないの」

 見所で財部がため息を漏らす。

 弟子たちは、財部がいう意味が分かっていなかった。

 わかっているのは、佐々木師範と佐久間同心のみであろうか。


 そして、その横なぎの一閃に打たれた佐久間の木刀は、くるくると回転して道場の壁へ飛んで行った。


「それまで!」


 いつのまにか佐々木師範が審判のようにして、二人の間に立っていた。


 お互いに礼をしてさがる。


 弟子たちも、佐久間のほうや、左金吾の方へ行き、ふたりの周りで、先ほどの手合わせについて興奮気味に話しかけていた。


 そして、それぞれが、ほかの弟子たちの手合わせの練習相手をして時間になった。

 井戸端へ行き、それぞれ汗をぬぐい、練習着を着替えていた。

 

「左金吾、ちと来なさい」

 左金吾は財部に呼ばれた。


 その様子を見ながら、佐々木師範は井戸端へ向かった。そして、井戸端で汗を拭く佐久間に問うた。


「左金吾の腕前は、どうであったか」

「健太郎さん、なかなかの腕前になってきました。いささか、駆け引きがいまだできぬようではございますが・・・」

「さもありなん。いまだ十八だからな。修業は全然足りぬ。とはいっても、足腰がしっかりしているようだから、もう少し身を入れて修業をすれば、ひとかどの剣士にはなろう」

「いやいや。そうは言っても、あの一閃の重さは、とてもとても。あの()()()()とした体格から繰り出せるものではありません」

 佐久間は手をひらひらと左右に振った。

「左金吾は、普段、朝から、花菖蒲の世話で大きな水を入れた甕を持ったり、土の入ったたらいを移動したりしているそうだ。そして、早朝から花の手入れをして、そのあと小走りで慌てて道場へやってくる。毎日、それが日課なのだ。本来なら、もっと力強くそして素早く動けるであろうに」

 佐々木師範は、左金吾がまだまだ、足りないといいたいようだ。

「なるほど、それゆえ腰のすわりもよろしいのか」 

どこか得心した様子で、佐久間は自分の小手付近をさすっていた。

しかし、佐々木師範は、左金吾がもっと花菖蒲でなく剣術に力を入れるべきだといわんばかりであった。

「今頃、先生にお小言を頂戴していることであろう」

 とつぶやいた。



 財部は、左金吾を立たせた。

「構えてみよ」

「あ、はい」

 左金吾が構えた瞬間、持っていた竹刀で、パンパン!と足、小手、腰とはたかれた。

「痛っつ」

「こら、姿勢を崩すな。おぬしはこことことに力が入りすぎておる。これでは誘っていますというのがバレバレだ」

 ほかの弟子たちから見たら悠然と見えていた左金吾の構えも、師匠にいたっては、平然と弱点を見抜いていた。

「先ほども、佐久間の挑発に乗ったであろう」

「はあ」

 それが、何か?といわんばかりの左金吾の表情に、

「ばかもん!」

 と、情けなきや悲しきや、財部はため息交じりで左金吾を叱った。


 ひとしきり、師匠に叱られ、佐々木師範にきびしい稽古をつけてもらい、這う這うの体でか麻布桜田町の屋敷へ帰った。いつもなら、四谷見附のお堀端の茶屋で腹ごしらえして帰るのだが、今日はとてもじゃないけどそんな気分にはならなかった。


         *     *

 

 左金吾は、しばらく自らにあてがわれた部屋で体の方々をさすりながら思案していた。

 しばし、ごろごろしながら、天井を見ていた。

 殺人事件の現場に残されていたという花菖蒲は、今のところ分かっているので一種類。


「紫の深い色味の日の出」


 そして、我が家からはその日の出と初紅の花がなくなっていた。


「父上に尋ねようとしても、御用繁多の折、またあの癇癪にあてられては、たまったものではない。しかし、言わないでいるのもどうか」

 左金吾は、独り言ちた。

 ひょっとしたら、繁三がすでに父上に知らせているかもしれぬ。

 


 そんな風に考えを巡らせていると、なんとなく人の気配がした。

 目の端にもそっと人影の様なものがうつった。

 繁三や使用人の気配ではない。


 気のせいではない。

 左金吾は、よく目を凝らした。

 どうやら植木職人の印半纏の様だ。

 屋敷の大きな庭の隅でなにをしているのか。

 しばらく様子を見ていると、花菖蒲のあるほうへと周囲をうかがいながら動いていた。


 そちらからは屋敷の奥までは植木などがあり、見えないらしい。

 仰向けに寝そべっていた左金吾は、そっとうつぶせになり、庭に出た。

 どうやら、花菖蒲を盗もうとしているようだ。


 役宅のほうへ知らせにいこうかとおもったが、目を離すわけにはいかない。

 繁三はどこぞに行って、いないようだ。


 懐から匕首のようなものを出している。

 植木職人の印半纏の背中には「植木屋三右衛門」の文字が見える。

 しかし、その姿を見てもピンとは来ない。

 屋敷門前にある「植木屋三右衛門」の印半纏を着てはいるが、見覚えのない奴だった。


 そう、町人といえど、我が家と昵懇の間柄である「植木屋三右衛門」の職人のことはたいてい把握している。そして、植木屋三右衛門の職人は、我が家の屋敷の庭木も手入れをしており、親方でお菊の父親である吉次とは、花菖蒲の好事家として、父上と非常に馬があう。

 ために、植木屋三右衛門と我が家では、生け垣の間に空いてある小路より往来が自由になっているのだ。どうやらそこから入ってきたのか。

 表門は、火付盗賊改方の役宅があり、まずよっぽどでない限り侵入できまい。

 なにより、印半纏を着てはいるが、鋏や剪定用の小型ののこぎりなどを入れた腰袋を提げていないのだ。

 左金吾は不信感をいだきながらそっと間合いを詰めていた。

 その植木職人は匕首で花を切り落とした。

 そして花首に下げていた木片を捨てた。


 左金吾が、気配を殺して、さらに間合いを詰めようとした瞬間。


「きゃあああ!」


 お菊の悲鳴が聞こえた。

 お菊はちょうどその生け垣の間から、我が家のほうへお団子をもって来ようとしていたところだった。

 そして、匕首をもち、花菖蒲の花を持っている植木職人の体の男と鉢合わせしてしまった。


「誰だてめえ!」


 その男は、お菊に匕首を突き付けた。

 もちろん、植吉の職人ならば、お菊に向けて、誰だてめえ、なんて言わない。


「あんたこそ、誰よ!」


 お菊も職人の娘だ。さすがに気性では、負けていない。

 左金吾は、そういうところ、すこしは負けてもいいじゃないか、そう思った。

 しかし、そうもいってられない。


 左金吾はさらに間合いを詰めた。


 匕首を突き付けた侵入者がその匕首を振りかぶった瞬間。

 左金吾は、地面においてあった、土を分ける作業用小さなの桶を、その不審者に投げつけた。

 不審者は、左金吾が迫っていることに気づかなかった。

 その匕首を持つ手に、左金吾の投げた桶が当たる。

 不審者ははっとした。

 役宅のほうから数人がやってきた。

 お菊の悲鳴を聞いたのか。

「なにが起きた!」

 年かさの父の配下が叫んだ。

 不審者は、しまった、とばかりにそのまま切り取った花菖蒲も捨てて、植吉の方へ去った。

 左金吾は、そのあとを追うように、とっさに走り出した。

「若!いかがなさいましたか!」

 すでにすでに後ろから父の配下の声がしたが、それどころではない。


   *                 *


 不審者の男は植木屋三右衛門を出たところで印半纏を脱ぎ捨て、麻布桜田町より、陸奥盛岡藩南部家の屋敷のほうへ走っていった。ここは緩やかな下り坂で、木も生い茂っている。大きな陸奥盛岡藩南部家と備中足守藩木下家のお屋敷に挟まれたとあって、人通りはほぼない。

 男はしばらく走っていたが、この坂を下ったあたりで走るのをやめた。

 左金吾も男に気取られないように、木の陰や南部藩の塀に沿いながらその男を見失わないように追った。


 男は、周囲をうかがいながら、小さな路地を右へ左へ何度となく曲がって、毘沙門天を祀る天現寺の脇へと出た。


 この辺はさらに人通りも少なく、この先を行けば渋谷村広尾原である。

 左金吾は、あと追って同じく天現寺の近くにまできた。


 男は、渋谷川を渡り、渋谷川の土手道にある蕎麦屋へ入った。

 左金吾は、取り敢えず蕎麦屋の見える木陰に身を潜めた。

 しばらく見ていると、その蕎麦屋は営業している風でもなく、暖簾は出ていなかった。


 半刻くらい見ていたが、商人、農夫姿の男、武士、遊び人、など数名が出入りをしている様子だった。

 しかし、およそ堅気のものとは思えぬ気配のする者たちで、左金吾も訝しんだ。


 左金吾がしびれを切らしているところ、何の気配もなくふと


「そこもとはここで何をしておられるかな」


 はっと左金吾が振り向くと、そこには体のがっしりとした背の高い風がわりな武士がいた。

 地味な黒とも茶色とも言えない木綿の着物に、黒紋付き、野袴。

 刀は二本差しているが、薄汚れた感じがする風体。

 そして、かぶっていた韮山笠を片手であげて、黒くよく日焼けした顔をのぞかせた。


 左金吾はまさか、こんな真後ろに気配なく詰め寄られていたことを焦った。


 できるだけ焦りを隠して、平常心をたもちつつ。


「特に、何ということはないのだが・・・我が屋敷の花を盗んだ奴を着けて来たらなんとあの蕎麦屋に入ったのを見たまで」


「ほう」


 韮山笠の男は、すーっと目を細めた。

 左金吾は何となく、左わき腹に手を当てた。

 

 しまった、脇差しか挿してない。

 部屋にいたため、とっさに刀を差して出てくるのを忘れてしまった。

 講談や歌舞伎に出てくる主役ならこんな失敗はしないはず。


 左金吾は何とも言えない気持ちになった。


 それでも気配を気取られぬよう、鯉口を隠し切りした。

 この隠し切りは、左金吾の得意技の一つだった。


 特に気付かれていない。


 韮山笠の男は特に構える風もなくすたすたと、蕎麦屋のへ向かった。

 

 左金吾は息をのんだ。

 一瞬、ついて行っていいものか、迷ったが、そのまま男の後を追って出ると、その蕎麦屋から風体の良くない奴らがわらわらと出てきた。


「御頭!」


 韮山笠の男は御頭と呼ばれていた。

 その御頭は、出てきた男たちの中の、我が家に侵入したと思える奴を殴った。

 そして、振り返り、


「そこもとの庭に侵入したものをこのように罰するが赦してもらえぬか」


 御頭と呼ばれるものは、笠を触って、軽く会釈をした。

 左金吾は、状況が、つかめないままいると、


 その風体の悪い奴らが、次々と抜刀した。


「お前らも、控えよ。この御仁には到底かなうものではない」


 御頭が止めたとて、風体の悪い配下の者たちはすでに抜刀している。

 御頭は、それ以上止めることもなく、スーッと後ろに下がった。

 左金吾は試されているのか?

 一瞬逡巡したが、すでに相手は複数人で間合いに入っている。

 

 これだけの人数と切りあうのは、脇差が持たない・・・

 左金吾は悟った。


 江戸時代の刀は、ほとんど切りあうことがない。

 武士もこの寛政時代になったら、刀なぞほぼ抜くことがない

 当然、複数人で切りあうことなどない。

 

 ここは渋谷川の西岸。

 だだっ広い広尾原で、当然人も来ない。

 あるのはその蕎麦屋のみ。


 五、六人いたであろう風体の悪い手下は全員切っ先をこちらに向けている。

 左金吾は、ぞわり、と背筋が凍る。


 御頭と呼ばれる男は御手並み拝見、といったところか。


 なにも動じない。後ろに下がったままだ。


 左金吾は囲まれている。

 間合いは、すでに詰まってきた。

 当然、脇差は抜いて正眼よりやや下に構える。

 刀の大小の違いで、すでに左金吾は不利だ。


 そして、左金吾の右手の、農夫姿の男が動いた。

「むん!」

 農夫の渾身の一閃をかいくぐり、腰を低く突っ込んだ。

 後の先。

 脇差の切っ先をぎりぎり地面から、農夫の胸元にしたからえぐるように入りこんだ。


 小野派一刀流の地摺りの太刀。


 地面から一撃で弧を描くように切り上げる必殺技。

 血飛沫が、己の体にも浴びる。


 手が震える。


 左金吾は初めて人を切ったのだ。


 しかし、切り抜けたあと。

 また次の相手が左金吾めがけて切り込んでくる。

 身を守らねば、己が斃されてしまう。

 左金吾は、瞬時に体をねじり、右足を後ろに下げて、体制を整えた。

 普段の園芸作業の力仕事が聞いているのか、足腰に踏ん張りが利く。

 二番目の男の一閃を切り抜けた。

 そのまま、後ろに下がると、大工風の別の男が、刀を振りかぶって突っ込んでくる。

 

「んー。見事・・・」

 

 その様子を見て、お頭と呼ばれた韮山笠の男は目を細めた。

 まさか、これほどまで、とは思っていなかった。


 左金吾も、幾重か切り結ぶと、脇差の歯が綻び始める。

 切り結ぶときに刀にかかる重さを、うまくいなさないと繊細な日本刀折れてしまう。

 それを左金吾は五感で感じながら、二人目を倒した。


 そして、大工風の男も、体制を立て直し、構える。

 左金吾は、まだ息は上がっていない。

 また正眼に戻して、風体の悪い男たちと対峙した。

 残り三人。

 御頭といわれているものを除く。

 脇差もそろそろ限界か。

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