その花の名前
左金吾はほぼ毎日、四谷の財部道場に通っている。
母からはあまり良い顔はされていなかった。
しかし、左金吾は番方の家に生まれたので、武士の習いとしてどこかの道場に通って腕を磨かねばいざという時に使い物にならない。
太平の世にてほぼ刀を抜くということはないのだが、番方の家に生まれたからには、剣術の稽古は付きものであった。
番方は、書院番、小姓番など出世してゆくと、上様の目に留まることが多くなり、出世の道に進めるのだ。さすがに上様に危害を加えるものの侵入というのはそうそうないが、それでもへっぴり腰では務まらない。
本日も家に帰ると、やはり役宅はバタバタしていた。
左金吾はこういう時は、屋敷に上がらず庭を通って私邸のほうへ回ることが多い。
火付盗賊改め方は、番方旗本の中から、選ばれた。
番方とはいわゆる武官のことで、家により武官であるか文官であるか決まっていたのだ。
そして火付盗賊改め方は、幕府御先手組頭より本役一名、冬場や盗人が多いときなどは加役一名の計二名にて任務にあたった。
幕府御先手組は弓組と鉄砲組に分かれており、弓組は一番組から十番組まで、鉄砲組は一番組から二十番組まである。
もともと、火付盗賊改め方が、御先手組の加役なので、任務にあたる奉行所のような役所はない。
任命されると御先手組としての任務は当たらなくてよく、火付盗賊改め方を優先する。
ために、何時しか火付盗賊改め方の本役、助役である加役、といわれるようになる。
さらに取り締まりを強化する場合は三人目を増役と呼んだ。
本役は長谷川平蔵宣以が務めており、特に決まった役宅がなかったため、自分の住まう拝領屋敷を役宅として使っていた。
長谷川平蔵は御先手弓組二番組組頭を拝命していた。配下は四谷にある御先手組二番組屋敷から本所三つ目近くの役宅まで出仕していた。
一方、左金吾の父、松平織部定寅は、御先手鉄砲組十番頭にて、麻布桜田町に拝領屋敷があり、そこを役宅としていた。
御先手鉄砲組は麻布谷町に組屋敷があり、役宅への出仕には半刻もかからない。
ところが、火付や盗賊などはお城の東側の江戸市中で起きることが多いため、出役には麻布桜田町からはやや不便なのである。
左金吾がいつものように玄関のところから庭のほうに回ろうとすると、父の配下のものが話していた。
左金吾はすっと木の陰に隠れてその会話を一部始終聞いた。
「また長谷川組に先を越されたか」
上席のものが部下に問うた。
「長谷川組の者たちは何やら密偵を使っておりまして、情報が早く…」
身なりからして同心か。頭をうなだれて、何やら弁明している様子だった。
「われらも目明しは使っておるのではないか」
とするともう一方は筆頭同心か与力か。
左金吾には判然としなかった。
その二人のやり取りは続いた。
「はい。しかし…我々の組頭様があまり奨励されておらず…」
「金か…。長谷川殿は私財をなげうって探索につぎ込んでおるという…我々は、あの岡部殿が吝でな。なかなか思うように探索が進まぬ」
左金吾も、自分にもなにかと小うるさい松平織部家用人の岡部光衛門のけち臭い顔をおもいだして、小さく笑った。
「肥後屋の次に、今回の山鹿屋襲撃。三百両は奪われたといいます」
肥後屋というのは先日の海産物問屋のことか。
「また一家惨殺か」
上席のものが、再び部下に問うた。
「はい」
渋い顔をして、部下の同心はうなずいた。
「うーむ。で、なにかほかに情報はないのか」
「長谷川組の知り合いのものに尋ねましたが、口が堅く一向に」
「また長谷川組の後塵を拝すようでは、御組頭も頭に血が上ろう」
これではまた父上の悋気が増すことだろう。
話が終わったようだ。
「前の事件が解決しないうちに、別の事件が起きたか」
左金吾は独りごちた。
普段なら父のお役目のことは毒に気にしたようなこともなかったが、肥後屋でみたあの花菖蒲が忘れられなかった。
松平織部家の屋敷の前には植木屋がある。
屋号は植木屋三右衛門。棟梁は三右衛門吉次である。
この麻布桜田町界隈の大名屋敷、旗本屋敷のお出入りをしており、多くの職人を抱えている。
麻布界隈では、毛利家の庭園や内田家の庭園なども手を入れている。
そして、麻布桜田町から麻布龍土町辺りには、植木屋三右衛門の圃場がたくさんある。
また最近では同業の伝手で、向島の菖蒲園へも仕事をしに行ったりしている。
その植木屋三右衛門の敷地には、多くの草木があり、綺麗に整っている。
また、盆栽棚には、五葉松の盆栽などが飾られており、どこぞのお殿様が、ここから百両で贖ったという盆栽もあるという。
門前にあるのと松平織部家では父の織部自身が花菖蒲の愛好家ということもあり、親しく付き合っていた。
その中に、草花だけを植えた寄せ植えもある。
左金吾はその草花の盆栽が好きだ。
小さなころより、植木屋三右衛門吉次の女房のお梅が育てていたものを今では一人娘のお菊が引き継いでいる。
母のお梅は先日、急な病でなくなっていた。
松平織部家と植木屋三右衛門は隣同士で当然織部家にも出入りを許されている間柄なので、生け垣のところの木戸一つで行ったり来たり出来た。
左金吾は南側の庭に回ろうとしてちょうど木戸前を通ろうとしたところ、
「あら、左金吾さま。おかえりなさいまし。本日もしっかりやっとうの先生にしごかれてきましたか」
左金吾は少しぶぜんとしたが、お菊の日焼けした笑顔が美しい、と思ってどこか負けたきがした。
悪気はないとは知っているが、からかっているのか、ちょっとたまに意地悪っぽいことをさらりと言う。お菊は、町娘姿に植木屋三右衛門の半纏を上から羽織っていた。
「このような日差しが強い日にあの小さな寄せ植え、なんて申したかの、あれの水やりは手間がかかるであろう」
左金吾はお菊の作る草花だけの寄せ植えが好きだ。
「私の寄せ植え「草あわせ」といいます。毎年出てくる草花だけを寄せ植えしたものだから丁寧に育てれば盆栽のように楽しめますよ。ところで、私の肌が黒くなるより、寄せ植えの心配だなんて、気が利かないお人ね」
お菊は左金吾が気にかけているのは自分ではなく寄せ植えだとして、ほっぺたを膨らませた。
とはいってもお互い花好き。小さい頃から知っているので、気兼ねなく話ができた。
ところで、とお菊が話題を変えた。
「おとっつぁんが言っていたのだけれど、ここ数日のうちに起きている大店を狙った盗人の事件で気になったことがあるらしいの」
左金吾はびっくりした。
まさか植木屋からその話が出るとは。
いや、しかし、植木屋はどこの屋敷にも商家にも出入りができる。
一応、職人は腕だけでない。依頼者の守秘義務がある。そこで見たもの聞いたことなどはすべで胸の内に秘めて、墓場まで持っていくという決まりになっている。
植木屋は腕の良さだけではだめで、人柄や誠実さも備わってなくてはならない。
しかし、人である以上、どうしてもしゃべりたいということがある。
その時に、よそで話されては困るので、棟梁が話を聞いてやるか、おかみさんが聞いてあげることにしている。そうでなくては、心がこわれてしまい、職人として使い物にならなくなるからだ。
植吉ではおかみのお梅が他界しているのでもっぱらお菊がその役目だ。
「吉次はなにが気になると」
左金吾の問いに、一瞬逡巡したが、お菊は決意して伝えた。
「実は、花菖蒲がなにか関係あるのではないかと」
左金吾は、小さく驚いた。
そしてお菊はさらに伝えると
「もちろん、誰から聞いたかは言えないわ。でも昨夜の事件で四例目なのですって。さすがに火盗改の長谷川様も、ひょっとしたら何かつながりがあるかも、ですって」
「え?どうゆうことなのだ」
左金吾は混乱した。
見かねて続きをお菊が話した。
「一件目の熊本屋、二件目の不知火屋、三件目の肥後屋、四件目の山鹿屋…いずれも花菖蒲の花が生けられていたそうよ。盗賊が打ち込んで切り殺して、千両箱抱えて出ていった蔵の中に一輪だけ」
「それはまことか?」
左金吾は、あの肥後屋の事件現場で見た花菖蒲。気になってはいたが、まさか…連続押込み強盗だとは思いもよらなかった。
* *
探索は遅々として進まない。
長谷川平蔵も焦っていた。
すでに四件の凶悪な押込み強盗が起こっていた。
しかし、もっと焦っていたのは、松平織部定寅であった。
織部は役高千五百石の御先手鉄砲組頭という役職を持て余していた。
もともと寄合旗本で役料二千石だから、御先手鉄砲組組頭は合わない。
ところが無役寄合旗本だっとところ、老中・松平越中守定信の引きで、長谷川平蔵の監視役としてというか足を引っ張るつもりで、御先手鉄砲組組頭に任命されたのだ。
本来、火付盗賊改め方に任命された場合は、登城無用としてお役に専念できた。
きわめて多忙を極める町奉行でさえ、昼までは、老中より下問があるかもしれないということで溜まりの間に詰めていた。
役付きの旗本は、そのほとんどが朝のうちに登城をして、それぞれの決められた溜まりの間に詰めてなくてはならない。
もちろん、小姓番、書院番、中奥番などの番士は警護が任務なので巡回したり所定の場所にて警戒をしなければならない。また文官の表右筆や奥右筆などは書付を処理しなくてはならないのでひたすら書類と格闘をしている。
町奉行などは、奉行所に戻らなくては仕事ができないので、じっと刻限まで待機している。
本日、松平織部は、老中首座の松平越中守より呼び出しがあり、御先手組組頭の詰めの間である躑躅の間で待機をしていた。
「越中守さまに何といわれることか。おのれ、長谷川め」
憎き長谷川平蔵を、この大気の時間も恨んでいた。下唇を噛んで悔しさをこらえていた。
いかに執政の御一門とはいえ、ここで、妙な真似をして目付にでも咎められたら只ではすまない。
織部は、今回の江戸市中を騒がしてる連続押込み強盗については詳細を知らされていない。
現場急行においては常に長谷川組に後れを取っており、さしたる情報もつかんではいなかった。
躑躅の間詰めのほかの御先手組頭同士がひそひそと話し合うのが、すべて自分のことを蔑んでいるかのようだった。
考えていたらふつふつと頭の中が沸騰するようだった。
お城坊主が迎えに来た。
「松平織部さま、松平越中守様がお呼びでございます」
「承知仕る」
織部はお城坊主の後をついて、執政衆の執務を取る御用部屋へ向かった。
お城坊主は江戸城に登城した大名旗本の身の回りの世話や、取次、城内案内、お茶の給仕など一切を引き受けた。お城坊主がいなければ用も足せない。
お城坊主が中へ声をかけて、こちらでお控えくださいますよう、と言い残してどこかへ行った。織部は待った。御用部屋への入室はお城坊主と奥右筆しかゆるされていない。
しかも、呼び出しておいて、平気で待たせた。
長いとき二刻(約四時間)くらいは待たせた。
松平越中守は早かった。半刻くらいで、御用部屋の外へ出てきた。
「待たせたの」
そういって、すたすたと白書院のほうへ向かって歩いた。織部も付き従った。
誰も使ってない部屋へ入って越中守が座った。
織部も習って座った。
「ところで、織部どのよ。昨今、江戸市中を荒らしまわる盗賊どもの探索の目星は付いたか」
織部は平伏して答えた。
「探索は鋭意行っておりますが、何分…」
「ふん」
長谷川組に探索の遅れをとっている言い訳に二の句も継げない織部に松平越中守は鼻白んだ。
「………」
織部は平伏したまま何も言えない。
松平越中守があきれた顔で伝えた。
「それでは織部どのよ。一つだけ教えて進ぜようか。長谷川の調べでは、賊が押し入った蔵には、金を奪った後、なにやら花が生けられているそうだ」
織部は顔を上げて驚いた。
「花、でございますか」
「そうじゃ。長谷川は花に疎いでな。花好きのおぬしなら何やら検討も付くかもしれんと思っての」
「………」
織部は答えようがなかった。
「最近、わしがそちを火付盗賊改め方のお役目につけたことに何やら不満を漏らすものが居っての。「花しかわからん奴に探索ができるのか」と。先の執政であった田沼主殿頭意次の手の者だったものたちより聞こえてくる。おぬしをわしの一門衆だから寄合から引き揚げたとして、足を引っ張ろうとする者たちもいる」
目を細めて越中守が言葉を区切った。
織部はわなわなと怒りを覚えた。
「ここで、何としても長谷川を出し抜かねばならぬ。よいか織部、わしは長谷川が報告してきたことをおぬしにしかと伝えたぞ。」
織部は、青筋立てて震えた。
それを見て松平越中守があきれた。
「織部のそういうところがよくない。人としてちと了見が狭い。それでは足元をすくわれるぞ。そうそう、わしにこれ以上すがっても無駄だぞ。今の花の話は、長谷川から若年寄に報告が上がったものだ。それ以上の報告はない」
越中守はさっと立ち上がった。
「いまひとつ!」
顔に青筋たてながら織部が尋ねたが、話は終わったとばかりに越中守はさっさと部屋を出ていった。
「せめて、その花の名前がわかれば…」
織部は悔しさと、いらだちと、怒りがさらに全身を駆け巡り、しばらく立つことができなかった。
* *
植木屋三右衛門の娘お菊より現場に残されていた花が花菖蒲だと聞いたものの、どうすることもできなかった。
考え事をしていてぼんやりと花菖蒲の花をみていた。繁三の声がふと耳にもどってきた。
「坊ちゃま、ぼんやりされていますがどうされましたか」
たらいに植えられた花菖蒲に桶で水をあげていたのだが、ぼんやりと水やりしていたので、溢れていた。
あーあ、袴の裾がこんなに濡れてしまって、という繁三の声で、はたと気が付いた。
「そうか!花菖蒲の品種がなにか手掛かりになるかもしれぬ」
左金吾の家の庭の花菖蒲も蕾が次々と咲き始めてきた。
「繁三。ちょっと出てくる。花に水やりをやっておいてくれ」
左金吾は思い立ったが吉日。すぐに行動をとることにした。
とるものもとらず、慌てて飛び出していった。
繁三が、本日の道場のおけいこはどうされますか、と言っているのが遠くに聞こえたが、兎に角駆けた。
花菖蒲は、最近流行してきたため、まだ、品種が少ない。
そのほとんどが、松平織部家の庭にあるか、一部の好事家しか育てていない。
基本は野に咲く花菖蒲か、父の交配した品種か、父以外の数名の育種家からしか広がってない。
品種が分かれば、出所が判るはず。
そうすれば、探索の手掛かりになるかもしれない。
まずは、その花がなんであるか知ることだ。
「私がたまたま通りがかった肥後屋の花菖蒲は紫紺の一重咲きの日の出。あとの三件はどんな花であっただろうか」
走りながらひとりごちた。
しかし、やみくもに走り出してしまった。
あれこれ考えて飛び出してきてしまったが、毎日の日課か体は四谷の財部道場のほうへ向いていた。
何も持たないで出てきてしまったため、さすがに道場に寄れない。
何を思ったかいつも道場の帰りに寄る茶屋の前まで来てしまった。
ちょっと考えを整理しようと、茶でも一杯と思ったが、何も考えずに飛び出してきてしまったので、紙入れを持ってくるのを忘れてしまった。
四谷荒木町まで行けば、財部師匠の道場があるが、稽古をさぼってしまったのでお金を借りにもいけない。
「うーむ」
仕方がない。
四谷の大木戸からお堀に沿って、ため池のほうに歩いて戻ろうとしたとき、たまに見かけるこざっぱりとした着流しで浪人風の侍がなにやら手に持ってぶらぶら歩いていた。
「あっ」
左金吾はその着流しの浪人が手にしているものが花菖蒲と分かった。
少し萎びているが、たしかに花菖蒲だ。
アヤメ科の植物は相応にして似ている。文目、杜若、花菖蒲、いずれもアヤメ科であるが、自生するところが異なる。文目は野山に生える。杜若は湿地や水辺に生える。花菖蒲はその中間に生える。そして葉の姿がそれぞれ異なる。文目は細く、杜若は葉が太い。花菖蒲はその中間くらいで葉脈の筋が入っている。
普通の人は見分けがあまりつかないが、ちょっと知っているものならすぐわかる。
そして花も異なる。
三種とも花は、外花被片と内花被片がある。外花被片というのは下に垂れている大きな花びらのことだ。内花被片とは、内側にあり、立ち上がっている花びらのことを言う。見分け方は、この外花被片と内花被片と葉の様子で区別する。花が萎びていても、知っているものが見ればわかる。
その着流しの浪人が持っているものが偶然なのか、何か事件に関係あるのか。
はたまた、事件の犯人かその関係者か。
左金吾は刀の鍔に左手をそっと添えいつでも鯉口を切れるよう身構えた。
そうしている間にその男が近づいてきた。
「やっとうの兄さん、隠し切りとこりゃまた物騒な」
着流しの浪人が苦笑いした。
隠し切りとは、相手にわからないように鍔に左手を当てて鯉口を切るやり方だ。
相当できるものでないと見抜けない。しかも距離が、三間と間合いに入っていない。
左金吾の体からでる力みが見抜かれたか。
「まあ、その左手を刀の鞘からはなしていただけぬか。じっくりと相談もできぬであろう」
その浪人は、実はそこもとを探しておった、といって茶屋の長いすに腰かけた。
「ささ、どうぞこちらへ」
左金吾は、紙入れを忘れたことでお金がないことを迷っていた。
懐を無意識に触っていた。
その浪人が気付いて、
「わしがご馳走しようじゃないか」
奥にいる店主のおばばへ声をかけた。
左金吾は恐る恐る隣へ座った。
「なにも、取って食おうってわけではないのだ。ちと物を訪ねたいので、おぬしのあらわれるのを待っておったのだ」
そういって浪人は磊落に笑った。
左金吾はすこし上目遣いで、
「何をわたしにたずねたかったのですか」
「実は、以前、文目のような杜若のような花菖蒲のような、そんな絵草子をここで眺めていたのを思い出して、この花がなんであるか、おぬしならわかるかと思っての」
そう言って、左金吾に手に持っていた花菖蒲の花を差し出した。
左金吾は少し不機嫌そうにして
「絵草子ではございません。私がまとめている花菖蒲の写生です」
「おお、そうか、そいつはすまねえ。いや、そうか、花菖蒲であったか。その花菖蒲にはお詳しいのかな」
偶然か。
左金吾が肥前屋の事件現場で見た日の出と同じ花菖蒲を差し出された。
左金吾は、顔色を変えずにはいられなかった。
その浪人は、腹からやや野太い声で問うた。
「そこもとは、何か存じておるのか?」
左金吾は自分の顔色が変わっていることに気づいて、慌てた。
「い、いえ。特段そのようなことはないのですが…」
その浪人は、じっと左金吾の二の句を待っているようでもあるのだが。
目力があり、そして、言葉にできぬまるで体から陽炎が出ているような、そんな重苦しい時間が僅かだけあった。
顔を上げることもできず、その差し出された花菖蒲をただ見るだけだった。
左金吾はその圧には耐えられなかった。
なにかを口にしようとした瞬間、
「よいよい、すまなかった」
浪人は、ふっと全身からでる圧を解いた。
「もし、何か思い出したのなら、どうかわしを訪ねてきてほしい。本所あたりで、「本所の銕に会いたい」といえばだれかが教えてくれるであろう」
浪人は、笑ってその場を去っていった。
左金吾は、財部兵衛介に道場で対峙した時のことを思い出していた。
そのまま、することもなく、先ほどの浪人とのやり取りを思い出しながら、麻布桜田町の自邸へ戻った。
「そういえば、あの浪人は、浪人の割にはずいぶんこざっぱりとしていたなあ」
左金吾はひとりごちた。
あの浪人の渋いなおかつ上品な着物を思い出していた。
いつものように表玄関を使わず、花菖蒲を育てている庭へと向かった。
繁三はいなかったが、なんとなく日の出という品種の植えられているタライをみた。
「たしか、日の出は・・・あれ?花がない。父上がお採りになったのか」
ちょうど花があったであろう下から切られていた。
そんなとき、父である織部定寅がまた、表で何事か癇癪を起していた。
左金吾はちらりと様子をうかがった。
「どういうことだ!まだ現場に残されていた花の名前がわからんのか!おぬしたちはいったい、どこに目をつけて、耳をつけてしごとをしているのだ!」
父がまた部下を怒鳴りつけている。
おそらく、現場に残されていた花の件を言っているのだろう。
左金吾は、今日、あのお堀端の茶屋で出会った浪人のことを思い出していた。
そもそも、あの浪人も日の出を手にしていた。
ご番所の役人か?
今日の出来事を父に申し上げるか、悩む。
「あのご様子だと、なかなか話を聞いてはもらえまい・・・」
いろいろと逡巡していると、現場で見た日の出と、あの浪人が携えていた日の出が同じもののように見えてきた。
※この物語はフィクションです。実際の人物とは関係ありません。




