花というものは(3)
「……そう、それでいいわ。もう少しこの枝をこちらに。お花の向きは……そうね、鋏を入れてから、このようにして」
楓先生はお菊と助六の生けている花を順番に見て回り、手を入れていく。なかなか手慣れたものであったが、助六はまだ始めたばかりとあって四苦八苦の体であった。
「助六さんも、この枝をこうして。こちらの花は、もう少しこちらに向けてごらんなさい。葉っぱが少し野暮ったいわね直。何枚か切り落としましょうか」
楓先生の手が入ると、それまで迷いのあった花が、命を吹き返したように生き生きとしてくる。
「生け花はただ形を整えるのではなく、お花の姿がより自然に見えるように。例えば、このツツジであれば、暗闇坂の法面から生え、野の方へやや張り出すように流れる……その枝振りを思い浮かべて生けてみるのです」
左金吾も、先生の教えを胸に静かに花と向き合っていた。
「……なかなか、左金吾様も良い筋をお持ちですね。そのツツジが生えている情景が目に浮かぶようだわ。この足元にひっそりと生える撫子も、野の面影をよく捉えています。とてもいいわ」
楓先生に褒められ、左金吾は照れくさそうに頭を掻いた。
「左金吾様も、なかなかやるじゃねえですか」
助六が冷やかすように言うと、左金吾は真面目な顔で返した。
「先生は、初めての私のために、殊更に褒めてくださっているのです。自分では、まだこの辺りに何かが足りない気がして……とは言っても、ただ花を足せばいいというものではないとも思うのですが」
「あら、左金吾様は生け花の真髄を早くも悟られたようね」
「いえ……実はお菊さんからの請売りです」
「違いますわ。私から見ても、左金吾様の生け方には自然の理が感じられますもの。お花が生き生きとしておりますわ」
お菊は感心したように言い、楓先生も頷いた。
「ええ、のびのびとして誠に宜しいわ。お武家様が生け花を嗜むというのは、一見、武芸とは相容れぬようですが、精神の統一を重んずる点では通ずるものがあるのです。今も昔も、武士の心根に生け花は合っているのですよ」
「先生にそう言われると、嬉しいものだな」
左金吾は少し鼻を高くした。
「ところで楓先生。いらっしゃると仰っていた、もう一方のお武家様はどのような方なのですか?」
「その方は水野源三郎様と仰って、それは園芸に詳しい御仁よ。特に『斑入り(ふいり)』の植物を深く研究されていて、珍しい品を数多く集めていらっしゃるわ。左金吾様より二つ三つ年上かしら。ご本人曰く、『出世とは無縁の家柄ゆえ、園芸に情熱を注げるのだ』と仰っていたわ。もう少しすればお見えになるはずですよ。……さあ、一段落したようですから、一旦お茶にしましょう」
楓とお菊が台所へ茶の支度に向かうと、男二人が残された。
「助六、まさか貴殿とここで会うとは思わなかったぞ」
「私も驚きました。世の中、狭いものでございますね」
「そういえば、助六はお菊のところにも出入りしているようだな」
「ええ。たまにお店で売る小さな鉢植えや苗木などを仕入れております。花を届けた先で庭木の手入れを頼まれることも多いゆえ、親方から色々と教わっているのですよ」
「なるほど、花屋にはそのような心得も必要なのか」
「左様です。……実は、お菊様のお父上である植木屋三右衛門様は、菊を育てる名手として江戸でも指折りの御仁なのですよ」
「確かに、秋になるとお菊の家には菊の花が溢れていたが……」
左金吾は幼い頃の記憶を辿ったが、さほど気にした風でもなかった。助六は語気を強めて続けた。
「三右衛門様は、自ら手がけた新種をいくつも世に出しておられます。江戸各地の菊祭りに自慢の一鉢を出品されれば、そのたびに賞を総なめにされるほどの名人。お菊様の名も、お父上が菊を愛でるあまりに授けられた名だと聞いておりますよ」
「そうか、それは知らなんだ。……なれば、父上が三右衛門殿と親しくしているのも、同じ園芸家としての矜持が引き合わせているのだな。合点がいった」
「全く、若様は花菖蒲のこと以外には、てんで疎いのですから」
助六が吹き出すと、ちょうどお菊と楓先生が茶菓子を手に戻ってきた。
「あら、私の名前が聞こえたけれど、何か悪い噂でもしていたのかしら?」
「とんでもございません。三右衛門親方が、菊の名手だという話をしていたのです。若様は今、初めてそれを知ったようでして」
「ええ、知らなかったの!? 全く、左金吾さんは本当に花菖蒲のことしか頭にないのね」
お菊が呆れたように言うと、助六が「先ほど私も同じことを申しました」と笑い、座が和んだ。
「あらあら。けれど左金吾さんも、花をこよなく愛するという意味では、ここに集う皆さまと同じですわね。……さあ、こちらは日本橋藤村の練り羊羹です。どうぞ」
楓先生が切り分けた羊羹を勧める。左金吾はそれを口に運びながら、ふと疑問を口にした。
「それにしても、生け花は……昨今の松平越中守(定信)様による『寛政の改革』においても、贅沢なものとは見なされないのですな。厳しいお触れも多い中、税の対象にもなっていない」
「それはそうですよ。越中守様は今でこそ御老中として厳格な政を強いておられますが、根は誠に物分かりの良いお方だと聞き及んでおります」
助六が神妙な面持ちで言葉を継いだ。
「家のお頭もよく仰っておりますが、越中守様は文武両道の御仁。幼き頃より、いずれは将軍になられる器として、それはもう熱心に学問を修められたとか。剣術や柔術といった武芸はもとより、朱子学や兵法、果ては経済の指南書までも、十代のうちに空んじられていたそうです」
「……お頭?」
楓先生とお菊が首を傾げた。助六はうっかり口走った言葉に、慌てて取り繕った。
「いえ……私の世話になっている、あるお方のことです」
楓先生は何かを察したように、「長谷川(平蔵)様のことね」とぽつりと呟いた。お菊は「なぜお頭が長谷川様なのか」と不審な顔をしたが、それ以上は踏み込まなかった。
「越中守様は、小堀遠州流の生け花や作庭にも通じておられるのです。ですから、生け花を武士道精神の鍛錬になるものとして、むしろ推奨されているのですよ」
「なるほど。……しかし、小堀家はお取り潰しになったのではありませんでしたか?」
「事情は定かではありませんが、国元で何やら問題があったとか。越中守様も、規律を重んじるゆえに泣く泣く裁断を下さねばならなかったと聞いております」
左金吾には、江戸城で行われている政が、どこか厳しく冷徹なもののように感じられた。しかし、楓先生は静かに首を振った。
「いいえ、左金吾さま。生け花は、ただ武士道に通ずるというだけのものではありません。今、江戸の街でこれほど園芸が盛んなのは、単に花が美しいからだけではないのです。花には見る者の心を揺さぶる『何か』がある……季節の移ろいの中に、生命の輝きと儚さを感じ、人々はそこに救いを見出しているのです。もちろん、希少な種を高値で商う者もいましょう。けれど花の本当の価値は、人々の心を豊かにすること、その一点に尽きるのだと私は思います」
左金吾は、自分がなぜこれほどまでに花菖蒲に魅せられているのかを考えた。
「……菖蒲の花は、本当に不思議な魅力がございます。あの繊細な花びらが、わずか一日で萎んでしまう儚さ。されど、品種によっては牡丹のように艶やかに開く八重咲きや、世にも稀な紅や桃色の花が見られると思うと……胸の高鳴りを抑えきれぬのです」
「ええ。凛とした佇まい、深い紫から透き通るような白に染まる茜色の脈……。私もまだ見ぬ菖蒲が、この世に生まれてくると思うと、心が躍りますわ」
楓先生が優しく微笑み、左金吾がさらに菖蒲の熱弁を振るおうとしたその時。
玄関先で、再び「ごめんください」という張りのある声が響いた。




