花というものは(2)
左金吾とお菊の二人は、鎌倉河岸から神田小川町を通って、昌平橋までやってきた。
橋の上を、神田川からの川風がそよと吹き抜ける。
「まことに清々しい風ですこと」
お菊は橋の欄干から身を乗り出し、神田川を覗き込んだ。雲一つない日本晴れで、遠くには富士の山が青々とそびえている。土手には皐月や文目が咲き競っていた。
左金吾はお菊の屈託のない笑顔に、一瞬心を奪われた。若葉の瑞々しさと吸い込まれるような青空、そして心地よい風。すべてが泰平の世を象徴しているかのようだった。
「あと少しですよ」
左金吾は眩しそうにお菊を見やり、声をかけた。
「さあ、参りましょう」
お菊は再び、左金吾の少し後ろを歩き出した。二人は武家屋敷と町家が入り組んだ路地を抜け、明神下へと辿り着いた。
黒塀の、洒脱な構えの町家の前でお菊が足を止めた。
「ここですよ」
お菊が「ごめんくださいませ」と声をかけ、引き戸を開けた。手入れの行き届いた前庭を抜け、二間ほど進んだ先に玄関がある。
「はーい」
内から涼やかな返事があり、戸がガラリと開いた。そこにいたのは、小粋な着物を着こなした三十がらみの、すらりとした女であった。透き通るような色白の肌に、切れ長で色香のある目元。左金吾は思わず、どきりと胸を突かれた。お菊の陽に焼けた健やかな肌とは、また違う美しさであった。
「あら、お菊ちゃん。よく来ましたね。……そちらの方は?」
「先生、ご紹介いたします。家のお隣にお住まいの松平左金吾様です。本日は、ぜひご一緒にお稽古をとお連れいたしました」
左金吾は丁重に一礼した。
「先生、初めてお目にかかります。松平左金吾と申します」
不慣れな場に、少し面はゆそうに名乗った。
「あら、花菖蒲の殿様の……」
女性は合点がいったように微笑み、「古井楓と申します」と名乗った。「ささ、どうぞこちらへ」と、奥の 稽古場へ案内された。
左金吾は圧倒されながらも、気を引き締めて後に続いた。瀟洒な屋敷の中は、質素ながらも調度品の一つ一つに主の眼識が感じられる。
中庭に目を向ければ、花菖蒲や文目のほか、見たこともない草木が植えられていた。左金吾に辛うじて判別できたのは、集真藍くらいであった。
楓先生は左金吾の視線に気づき、口を開いた。
「その青いあじさいは、もともと『真の青が集まる』という意味で『集真藍』と書きますの。別名を『七変化』とも申しますわ。お武家様にはあまり好まれませんけれど、日陰でも美しく咲く、情趣深い花ですのよ」
「なぜ、武家には疎まれるのですか?」
左金吾が問うと、楓先生はアジサイを見つめながら答えた。
「ええ。蕾から咲き終わりまで、色がくるくると移ろいますでしょう? それが『心変わり』に通じるとして、堅実を旨とするお武家様の気風には合わないとされているのです。けれど、雨に打たれても凛と咲く姿は尊く、寺社などでは殊の外大切にされておりますのよ」
さらに先生は、園芸の裏事情についても言葉を添えた。
「この花は、変り種が出ても挿し木で容易に増やせてしまいますの。種苗として珍重される『妙味』に欠けるため、どれほど美しくとも、広く世に持てはやされることが少ないのです。惜しいことですわね」
「うちの店でも、お寺や墓所に納めることが多いですから、あまり縁起の良い花という印象はありませんわね」
お菊もそう付け加えた。
中庭を抜ける風に、ふわりと甘い、芳しい香りが混じった。
「この香りは何ですか?」
「これは梔子ですわ。あちらに白く咲いている木が見えますでしょう。愛らしい花が点々と咲いていますの」
「梔子は、花が枯れ際になると黄色く染まります。それを染料に用いるのです。毒はなく、栗金団などの食べ物の色付けにも重宝されますのよ」
左金吾は感服した。楓先生の博識ぶりもさることながら、その立ち居振舞いには、あの甘い香りのような不思議な魅力があった。
「……あそこに咲いているのは『瑞穂』ですな」
左金吾は、花菖蒲の殿様の父の名に恥じぬよう、花の名を挙げた。
「ええ、左様です。よくお分かりですね。父が左金吾様のお父上から、寄合の折に譲り受けた大切な一鉢なのです。牡丹のように重厚な八重咲きが、誠に華やかでございましょう?」
「今年は少し花の時分が早いようですが、陽気に左右されるのでしょうね。……もっとも、これは植木屋三右衛門の吉次親方の請売り(うけうり)ですけれど」
楓先生はいたずらっぽく笑った。その笑顔に左金吾が また見惚れていると、脇腹に強い衝撃が走った。
「左金吾様、だらしないお顔になっておりますよ」
「えっ!?」
慌てて頬を押さえる左金吾に、お菊はぷいと横を向いた。その二人を、楓先生は微笑ましそうに見守っていた。
稽古部屋へ入ると、すでに桶に水が張られ、花材が用意されていた。
「さあ、お二人とも。こちらへ」
座して庭を眺めれば、また見慣れぬ木があった。
「あれは手毬花と申します。種を持たぬゆえ、挿し木で増やしますの。淡緑から白へと染まりゆく様は、まさに手毬のようでございましょう?」
「お菊さんは、実によくご存じですね」
左金吾が感心すると、お菊は「植木屋の娘ですから」と誇らしげに胸を張った。
「こちらのお花は、先生が手ずから用意されたのですか?」
「いいえ。私がお花を買いに走るわけではございませんの。いつもお花屋さんが届けてくれるのです」
「左様ですか。実は私にも、近頃懇意にしている花売りがおります」
「あら、どなたかしら」
楓先生が身を乗り出す。
「まだ素性は知れませぬが、誠に機転の利く男でして」
左金吾は助六の姿を思い浮かべていた。
「私のところへ来るお花屋さんも、お菊ちゃんに紹介していただいたのだけれど、誠に良い方ですのよ」
「元々はうちに買い付けに来ていた御仁ですけれど、器量もよくて、立ち居振舞いが実にかっこいい……いえ、粋なのです。背もすらりと高くて、憧れてしまいますわ」
お菊の熱のこもった物言いに、左金吾はわずかに口を尖らせた。
「……男ですか」
「ええ、そうですわ」
楓先生が言葉を継ぐ。
「花売りは水桶を抱えて歩く重労働ですから、今では力のある男の役目となっておりますの。……今日はその方もお稽古に見えるはずですわ。売るばかりで生け方を知らぬゆえ、教えてほしいと。なかなか筋が良いのですのよ」
「さすが、私が見込んだお花屋さんですわね」
お菊が自慢げに笑う。左金吾は「お菊さんが威張ることではなかろうに」と小声で毒づいたが、お菊に睨まれてすぐさま目を逸らした。
「本日はもう一方、お武家の方も参ります。その方も花をこよなく愛し、園芸の知見を広めるためにと生け花を始められた方ですわ」
「それは楽しみだ」
左金吾は、同じ志を持つ武士の来訪を心待ちにした。やがて彼は居住まいを正し、楓先生に向き直った。
「ところで、突然お邪魔して差し支えございませんでしたか? 花の備えなど、ご迷惑をおかけしたのではと……」
「それはご心配なく。昨日のうちにお菊ちゃんのところの手代さんが見えて、『今日、お隣のお武家様をお連れするやもしれぬ』と知らされておりましたから」
「なんと、手回しの良い……」
左金吾がお菊を見ると、彼女は素知らぬ顔で空を眺めていた。
「お菊さん、もし私が来ないと言ったらどうするつもりだったのですか?」
少し問い詰めるように尋ねたが、お菊はけろりとしていた。
「その時はその時。私が二倍お稽古をつけていただくだけのことですわ」
お菊は楽しげに笑い、先生と目配せをした。
「では、まず左金吾様には『生け花』の型をご覧いただきましょう。生け花は京の池坊に伝わる秘伝を源流とし、茶の湯とも深く結びついております。四季折々の花を愛で、その一枝に自然の営みを写し取るのです。かつては『立花』といって厳かな型が主流でしたが、私の父は『花は野にあるように』と説き、自然の姿を尊ぶ流儀を確立いたしました。私のお稽古ではその教えを守りつつ、より華やかに、花の命を際立たせるように生けてまいります。左金吾様は男性ですから、少し荒々しい『野趣』を込めてもよろしいかもしれません」
左金吾は、分かったような分からぬような顔で聞き入っていた。
「まだ左金吾さんには難しゅうございましたね」
楓先生は優しく微笑み、言葉を重ねた。
「まずは、野山に咲く花の姿をそのまま思い描いてみてください。難しく考える必要はございませんわ」
お菊も「私に付いていらっしゃい」と言わんばかりの顔で左金吾を促した。
やがて「ごめんください」と玄関で声がした。楓先生が迎えに出る。
「お菊さん、私は場違いなところへ来てしまったのではないですか?」
左金吾の不安を、お菊は笑って吹き飛ばした。
「大丈夫ですよ。心を無にして、お花のことだけを考えていれば良いのです」
先生に伴われて部屋へ入ってきたのは、なんと助六であった。助六も驚きに目を見開いた。
「左金吾様! 先日は痛み入りました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「あら、左金吾さんが仰っていたお花屋さんとは、助六さんのことだったのね」
助六は、例の騒動を楓先生に知られぬよう、目で合図をして左金吾を制した。
「ええ。先日、ご贔屓のお武家様との集まりで、たまたまご一緒したのです」
「そうなの。助六さんは長谷川様のお宅にも出入りされていますし、左金吾様のお父上も、火盗改と旧知の仲でしたものね」
楓先生は一人で得心し、それ以上は追求しなかった。助六は深々と頭を下げた。
「左金吾様、滅相もございません。私なんぞに頭をお下げにならないでください」
「いや、私は本日が初めてのお稽古。助六さんは言わば我が先達です。礼を失すれば、道場の財部師匠に厳しく叱られてしまいます」
「左金吾さんは、武芸を嗜まれておいでですものね」
楓先生は感心した様子で頷いた。
「それでは、始めましょうか」
そう言って助六から花材を受け取り、一枝ずつ改めた後、それを左金吾の手へと手渡した。




