花菖蒲の親子
花菖蒲殺人事件(左金吾花捕物控)時代小説
登場人物
松平左金吾定朝…火付盗賊改方加役の松平織部定寅の跡継ぎにていまだ部屋住み。父親の影響をうけて「花菖蒲」の栽培をこよなく愛す。後に小普請から書院番、中奥番、西の丸目付となり禁裏附から京都西町奉行にまで出世する番方の能吏。
松平織部定寅…久松松平一門の松平織部家五代目当主。老中松平越前守定信の一門。松平越前守と対立する火付盗賊改め方の本役長谷川平蔵のお目付け役として火付け盗賊改め方の加役に任命される。花菖蒲の交配においては右に出るものがいないくらい美しい花々を産み出す能力がある。しかし、性格的には難あり。長いこと寄合旗本だったため、ひねくれていて、面倒くさい。癇癪持ちで、思慮浅く、人を罵ること憚らず。いつも長谷川平蔵の足を引っ張ることを考えているが、失敗ばかり。
長谷川平蔵宣以…ご存知、火付け盗賊改め方の本役(長官)である。若い頃から放蕩三昧だったが父の死去により家督を継ぐ。苛烈な取り締まりで悪人や盗人からは「鬼の平蔵」と異名をとる。しかし、情に厚く庶民には人気。「今大岡」とも言われ政治手腕は見事なまで。妬みもおおく、老中松平定信からは嫌われている。上役の若年寄京極備前守や水谷勝久など理解者も多い。何かにつけて、同役の松平定寅の息子である松平定朝を気に掛けている。
小川隆船…小石川養生所肝煎の次男で薬草園の管理を任されている。左金吾に花の事、園芸のこと、薬草のことなど教えてくれる。
岡部光衛門…松平織部家用人。小うるさく、松平定寅と同じくせっかちでそそっかしく、ひねくれている。
繁三…松平織部家に使える下男。松平定寅の花菖蒲の育種や園芸作業の手伝いをする老爺。左金吾が幼い頃より何かと面倒を見ている。
植木屋三右衛門吉次…麻布桜田町の植木職人の棟梁。松平織部家の花菖蒲の噂を聞き付けて出入りする植木屋。普段は主に、武家屋敷の手入れをしている。
お菊…植木屋三右衛門吉次の娘。おきゃんなところがある。大勢の職人を使う父親の補佐をしている。職人には伝法調で話したりする。草盆栽の師範でもある。
古井一花軒 楓…草風流家元・古井一花軒草風の娘にて植吉の娘お菊のいけばなの師匠。また花菖蒲に魅了されたひとりで、松平織部家とも交流がある。
松平越前守定信…田沼意次失脚後、筆頭老中として権勢を振るう。改革を推し進めるべく、辣腕を振るう。柔術が得意。長谷川平蔵の清濁合わせ呑むやり方が気に入らない。吉宗の改革に憧れる。同じ一門の松平織部定寅を長谷川平蔵の加役に据えて監視および揚げ足取りをさせる。
徳川家斉…十四歳で将軍になる。田沼意次を嫌い、松平定信とともに意次をしっきゃくさせるも、松平定信と徐々にそりが合わなくなる。左金吾とは同じ年の生まれ。
幕臣
田沼意次…重商主義で幕府を立て直す試みをするも失脚。
田沼意明…田沼意次の孫。聡明で頭脳明晰。祖父意次の薫陶を受け次世代の幕府を担う。
根岸肥前守鎮衛…勘定奉行兼道中奉行
京極備前守…若年寄
水谷勝久…若年寄
柳生久通…北町奉行
初鹿野河内守信興…柳生久通ののちの北町奉行
池田筑後守長恵…南町奉行
趣味仲間
水野忠暁…幕臣にて園芸家。左金吾定朝より十歳年上の先輩。斑入り植物の収集家としてやや変人。
繁亭金太こと増田金太郎…植木屋。水野忠暁の手先として働く。
松浦静山…趣味人・幅広く知識豊富・知的好奇心が高く、話を集めるのが好き
木村蒹葭堂…趣味人。大阪の文化人サロンの主宰。たまに江戸に珍しいものを探しにやってくる
谷文晁…画家・古文化調査員。松平定信の側近中の側近。
大岡雲峯…画家。水野忠暁と親しい。表右筆。
「ああもう、忌々しい!」
ドタドタと廊下を大きな足音を立てて父が帰宅した。
「あいつは一体なんなのだ。いつも偉そうにしやがって。大体、仕事の暴走がすぎるから、わしが彼奴の助役につかされておるのだ」
いつものことなのだが、お城から下城した父は、苛立ちを隠しきれなかった。
そうして、父はそのまま屋敷の中を苛立ちながら庭に抜けた。
ここは麻布桜田町。
上様のおわすお城より西に約一里。
「父上は、またお役目で長谷川さまと諍いがあったのか・・・」
庭で菖蒲の花の手入れをしている若い後継がため息をついた。
屋敷の廊下を大きな足音が近づいてくる。
そのまま、父は、踏み石からつっかけを履いて庭に降りてきた。
「ああ!違う、違う。左金吾、ここはこのようにするのじゃ!」
部屋住の跡取りからハサミを取り上げて、実っている菖蒲の花の種を切り落とした。
その種の姿を見て父は、目を細めてニンマリとした。
そして、その花には木札がついている。
菖蒲の花の名前がうっすらと書かれている。
それを息子である部屋住の若い後継はなんとなく見た。
父はその種を観察した。
帰ってきた時の苛立ちは既にどこかにいってしまったようだった。
「本当に父上は菖蒲の花がお好きなのですね」
父は息子の問いに答えず、その種に木札に何事か書き記した。
種を懐から取り出した懐紙に包み、腰にさしていた矢立から筆を取り出して何事か書き記していた。
本来なら下城したのちお役宅の方に向かうのだが、職務上の苛立ちがあると一旦自分の屋敷に戻ってきて菖蒲の花の様子を見ていくのだ。
それが父の冷静さに戻ることでもあり、癒しでもある。
花を見ていると心が安らぐのだ。
それを見ていた息子は心配そうに父に問うた。
「父上、本日もお役目で何か諍いごとでもございましたか」
父は苛立ちを顔に出し、
「また長谷川のやつが、若年寄の京極備前守様を困らせおってからに。あやつがいつも無謀な探索をするから、わしが目付の役目として助役となっておるのだ。そのわしの諌めも聞かず、次から次と問題を引き起こす。その度に京極備前守様や老中である松平越前守様にわしが呼ばれるのじや」
左金吾は、クスッと笑った。
「笑い事ではない!」
左金吾は慌てて首をすくめた。
左金吾の父は久松松平一門の石高二千石の名門旗本で松平織部定寅という。
今は火付け盗賊改め方の加役という役職についている。加役とはいわゆる助役のことだ。
そして火付け盗賊改め方の本役つまり長官は、あの有名な長谷川平蔵宣以である。
長谷川は「本所の銕」として若い頃無頼と交わりところの破落戸をしたがえ町を肩で風切る悪だった。
いまでは、苛烈な取り締まりで有名だった。
また「今大岡」と言われるくらい、裁きや取り締まりには時に人情味を見せるほどである。
そのため、江戸庶民からは人気が高かった。
「おい、左金吾、今日も菖蒲の花ばかりやってたんではないだろうな。お前はこの番方である久松松平家の跡取りなのだぞ。少しは剣術の稽古をしてるのか。父のようにお役をしっかりと果たせるように、日々研鑽しておけ」
キンキンと金切声でいわれる。
なにかやはり虫の居所の悪い父は、懐紙に包んだ採取した種を懐にしまい、すたすたと足早に屋敷のなかに消えた。
「うーむ、どうも父は気性が粗い」
左金吾は、うんざりした。
左金吾の父織部定寅は、一門の出世頭で今をときめく老中松平越前守定信には、まるで頭が上がらない。
なにしろ、松平定信は、徳川御三卿の田安家から白河藩松平家へ養子にだされ、御三卿から臣下へ下ったのだ。松平定信は、将軍の継嗣争いで負けてしまった。そして同じく御三卿の一橋家斉が、亡き家治を継いで、14歳で十一代将軍となっていた。
そして、この松平左金吾定朝は、のちの菖翁と号する花菖蒲の若殿様なのだ。
※この物語はフィクションです。実際の人物とは関係ありません。




