第14話 静なる反逆
長く残酷な夜がようやく明けた。
薄い雲の切れ間から朝の光が差し込み、グレゴリー隊長の別荘――その地下深くにある巨大なシェルターにも、かすかに照明の灯りが落ちていた。
広い談話室。木目のテーブルを囲むように、数人が座っている。
誰もが口を閉ざしたまま、重苦しい沈黙が部屋を支配していた。
グレゴリー・ヴァレンタインは、厚手の騎士服の襟を正しながら、静かにコーヒーを見つめていた。
その前には、信頼する精鋭騎士四人、そしてシュウ、ローズ、シュウの母のアリサ。
全員、疲労と悲しみを隠せない顔をしている。
シュウは、両手を膝の上で強く握りしめていた。
爪が食い込んで血が滲んでも、力を緩めなかった。
それでも震えは止まらない。
――あの凄惨な光景が、まだ脳裏から離れない。
タクトの家で撒き散らされた血、そして吊るされた親友の姿。
夢ならどれほど良かったかと思うが、どれだけ目を閉じても、その“赤”は消えない。
向かいに座るローズが、黙ってハンカチを差し出した。
震える指先が、ほんの少し彼の袖に触れる。
「……ありがとう。」
シュウの声は掠れていた。
けれど、その一言に込められた感情は痛いほど伝わった。
ローズも何も言わず、ただ小さく頷く。
彼女もまた、目の下に濃い影を落としている。
心労は隠しようもなかった。
グレゴリーがゆっくりと立ち上がった。
低く響く声が、重たい空気を少しだけ震わせる。
「……報告を受けた。リナ嬢の家も、火の手が上がっていたが、先程鎮火されたそうだ。
家にいた三名の遺体……身元はまだ確認は取れていない……。
しかし、おそらくは……。」
沈黙。誰も息を飲む音さえ立てなかった。
「敵は――徹底している。目的は明確だ。
ダカン帝連の公誠未来党と戦うと宣言した私の権威失墜と殺害。そして、娘のローズとその暗殺を邪魔した暁月君とその身内の始末……。」
グレゴリーの目が鋭く光った。
その視線の先で、シュウは唇を噛みしめる。
喉の奥から何かがせり上がるが、声にならなかった。
(――タクト、リナ……ごめん。俺は、また……何も出来なかった。)
ローズがそっと彼の肩に手を置く。
その手の温もりが、逆に胸を締め付けた。
涙が零れそうになるのを、必死にこらえる。
「……ヴァレンタイン隊長。」
騎士の一人が声を上げた。
「このままでは、暁月君が――。」
「分かっている。」
グレゴリーは短く遮った。
その声には、怒りでも悲しみでもない、もっと深い“決意”を含んでいた。
「だが、この現実から逃げることは許されん。
彼が見たものは、このダカン帝連とこのノア連邦国の“闇”の一部にすぎない。」
その重い現実に沈黙が戻る。
ただ、照明の淡い音だけが部屋に響いた。
シュウはゆっくりと顔を上げた。
その瞳に浮かぶのは、涙でも絶望でもない。
――燃えるような怒りだった。
その時――机の上の通信端末が、短くアラームが流れる。
端末を開くと会議の予定が表示される。
「……重役会議の時間か。」
グレゴリーは時計を一瞥し、立ち上がる。
するとすぐに隣のリードも後に続いた。
「隊長、私が同行いたします。」
グレゴリーは短く頷き、傍らに置いている剣を帯刀した。
部屋の扉の前でふと足を止め、シュウの方へと静かに視線を向ける。
「暁月君…。」
呼ばれた名に、シュウははっとして顔を上げる。
「君が今、何を考えているか……わかっている。
だが、今はここで落ち着くんだ。」
グレゴリーの声は低く、けれど優しい気づかいを感じた。
「敵は、ダカン帝連――そしてその息がかかっているノア連邦そのものだ。
とても、個人の力で太刀打ちは出来ん。
……責任は私にある……!
私はこの命を賭けて、必ずこの無念を晴らしてみせる。 だから待っていてくれ……!」
その言葉には、騎士として、人としての誇りが滲んでいた。
シュウは拳を強く握り、頷くことしかできなかった。
その姿を見届けて、グレゴリーは静かに背を向けた。
リードが後に続き、扉が閉まる。
重い音が、まだ沈黙の残る談話室に響いた。
*****
ノア連邦首都――中央塔、最上階。
その内部にある「円卓の間」は、白い大理石の床と冷たい金属の光が反射する荘厳な空間だった。
ノアの象徴として国民に美化されるその会議室も、
実際には権力と密約が交差する、“血と欲望の匂い”の濃い場所である。
静寂を切り裂くように、重厚な扉が開いた。
グレゴリー・ヴァレンタイン親衛隊長と副官のリードが中へ入る。
十名ほどの重役たちがすでに席に着き、中央の玉座に立つのは――ノア連邦騎士団・名誉団長、ロイ・バルゼン。
「ようやくご到着ですか、ヴァレンタイン親衛隊長殿。」
ロイが、薄く笑った。
整った顔立ちに薄い笑み。だがその眼差しには、どこか人を見下す冷たさがあった。
若干四十歳で名誉団長の座にまで登りつめた男。
その経歴だけを見れば、誰もが「英雄」と呼ぶだろう。
だが実際のところ――彼が得た栄光のほとんどは、亡き父の遺産だった。
ロイの父はかつて“戦場の聖騎士”と称えられた伝説の将。
その息子のロイは父の名声の影で、彼は他者の功績を巧みに奪い取り、政治的な手腕と人脈操作だけで地位を固めてきた。
今や彼の姿は、国民にとって「理想の英雄」そのもの。
だが、グレゴリーの目には――その笑みの裏に漂う浅ましい打算しか見えなかった。
グレゴリーは一歩前へ進み、淡々と答えた。
「現地の処理に手間取った。報告は遅れるが、まとめて提出する。」
「ふん……あれほどの騒動があったというのに報告が遅れるとは感心しませんな。」
ロイが椅子の肘掛けを軽く叩き、周囲の重役たちが苦笑を漏らす。
嫌味な空気の中で、最奥に座る一人の老練の騎士がゆっくりと口を開いた。
グレアム・ウェクスラー。六十という歳を迎えても今もなお、その眼光は鋭く、初老というにはあまりに覇気があり、老練というには若々しすぎる男―。
十六年前までは元・第一騎士団長であり、"悪魔殺し"の異名がある程の英雄だったが、現在は名誉顧問として席を置いている。
「まあまあ、名誉団長殿。ヴァレンタイン親衛隊長は現場の人間だ。
我々のように机の上で戦をする立場ではない。」
老人の声は柔らかいが、その響きは誰もが説得力を感じるものがあった。
ロイは一瞬だけ眉をひそめ、すぐに作り笑いを返す。
「まったく、グレアム殿は相変わらず庇うのがお上手ですな。
だが、庇いすぎれば現場の怠慢を助長する。
そうは思わんかね、ヴァレンタイン殿?」
「失礼した。より一層全身全霊で取り組ませてもらう。」
グレゴリーは、即答した。
「……ほう。お励みなされ。」
ロイの笑みが引きつる。
「では聞こう、君はどう見る? 今回の二件――
国民のゾンビ化と、昨夜の事件を。」
「偶然ではありませんな。」
グレゴリーの声は静かだが、強い。
「ゾンビ化事件はいまだ真相不明。
しかし、我が娘ローズの殺人未遂と、同じ夜に起きた二件の一家惨殺と放火……。
この一連の事件、ダカン帝連が関与しているのは明白だ。
加えて、このノア連邦の内部にも、その手が及んでいる。」
グレゴリーの言葉は重く、空気を震わせた。
しかしロイ・バルゼンは、あからさまに鼻で笑った。
「はぁ……陰謀論か。君もずいぶん猜疑的になったな。
いいですかな? あれはただの家庭内の悲劇だ。
タクトという学生が両親を殺害し、罪悪感に囚われ自ら命を絶った──それが公式見解だ。
もう一方の件も、家の誰かの不始末による出火と判明している。
近隣住民の証言でも、放火犯など誰も見ていない。
まったく……そんな国家の陰謀だの外国の闇勢力だの、今どき幼稚すぎるとは思わんかな?」
冷笑を浮かべるロイに、グレゴリーは静かにだが鋭く言い返した。
「お言葉ですが──今やノア連邦は、ダカン帝連が撒き散らした“負のグローバル化”に蝕まれている。
人としての誇りを捨て、己の利益にだけ生きる者ばかりだ。
見て見ぬふりをしている。恐れから沈黙しているんだ。
それに、タクト君はイジメや不条理に立ち向かう勇気を持つ、誇り高い青年だった。
そんな彼が家族を殺す? 馬鹿げている!
そんな作り話は、彼への侮辱だ!」
ロイの口元がひきつる。
だがすぐに、芝居がかったため息をついた。
「落ち着いたまえ、グレゴリー殿。
どこにそんな証拠がある? ……感情論では何も変わらん。
それに、君の発言はダカン帝連に対する侮辱と取られかねんぞ?
人種差別かね? 我々ノアの民は、むしろ彼らの“勇ましさ”に学ぶべきではないか?」
「何が勇ましさだ! 人の命を弄び、正義を踏みにじる!
そんなもの、勇ましさでも誇りでもない──ただの悪魔の所業だ!!」
「口を慎みなさい!」
ロイが机を叩き、声を荒げる。
「これ以上の侮辱は、たとえ親衛隊長といえども見逃せませんぞ!」
「娘のローズを狙っておいて、よくもそんなことを言えるな! ノア連邦の騎士団も加担していることは知っているぞ!」
グレゴリーの怒声が炸裂した。
議場の空気が、張り詰めた糸のように震える。
今にも誰かの怒鳴り声や机を叩く音が続く――
そう思われた、その瞬間。
「鎮まれ!」
低く、しかし一切の揺らぎを許さぬ声が、議場を貫いた。
音の主は、ずっと沈黙を守っていた男――
グレアム・ウェクスラー。
彼はゆっくりと、グラスを机に戻した。
水面が静かに揺れ、その波紋がまるで空気そのものを静めていくかのようだった。
グレアムは、視線だけで議場全体を圧倒した。
金属を擦るような静けさの中、ロイ・バルゼンの喉がごくりと鳴る。
その音すら、この場に似つかわしくないほど重苦しい。
「グレゴリー親衛隊長の言葉は、己のためではない。
娘を、そして国の誇りを失いたくない――
その願いから出た、真っ直ぐな言葉だ。
それを笑うとは恥ずかしくはないか?」
ロイは一瞬、口を開きかけたが、何も言えずに視線を逸らした。
沈黙が、議場全体を包み込む。
グレアムはゆっくりと姿勢を正し、指先で机を一度、軽く叩いた。
乾いた音が、ひどく重く響いた。
「“陰謀論”――便利な言葉だ。
真実を幼稚な幻想と笑い、民の目から遠ざけるために生まれた言葉でもある。
つまり、見えぬところで“誰か”が糸を引いているということだ。」
彼の声は静かだが、その静けさの奥に、凍てつくような鋭さがあった。
「世界が腐れば、闇が育つ。
そして――その闇を断ち切るには、ときに自らが“闇の側”に立たねばならぬこともある。」
グレゴリーの眉が、わずかに動いた。
彼の中で、何かがざわめく。
ロイが作り笑いを浮かべ、わざとらしく椅子にもたれた。
「ふむ……グレアム殿の哲学は、相変わらず難解ですな。
ところで――例の“灰髪の大男”についてはどうです?
ゾンビ化した連中を素手で粉砕したとか。」
グレアムはロイを一瞥し、目を細めた。
その瞳には、年老いた静けさではなく、底の見えぬ冷徹さがあった。
「確認できた映像は断片的なものだけだ。
データベースにも該当はない。
おそらく……主を持たぬ傭兵。国外の流れ者だろう。」
淡々と告げる声に、わずかに余韻が残る。
だがグレゴリーの胸の奥では、その言葉が鈍く反響していた。
心臓の鼓動が、不安と疑念を打ち鳴らす。
――“主を持たぬ傭兵”。
灰色の髪の大男。
彼の中で、記憶の断片が静かに繋がりはじめていた。
グレゴリーの胸が、わずかにざわつく。
心臓が嫌な音を立てる中、グレアムに聴いた。
「……その灰色の髪の大男。グレアム殿はご存知なのでは?」
グレアムは微笑んだ。
「ん? 私が知るはずあるまい……。」
ロイが薄く笑い、議場の空気を締めた。
「ふんっまあいい。話は以上だ。本件は機密指定A。
この件に関しては、発言も記録も許可なしには持ち出すな。
連邦の権威と名誉を守るためにな。」
全員が立ち上がり、形式的な敬礼を交わす。
その中で、グレゴリーだけは視線を落としたまま動かない。
拳がゆっくりと震えた。
沈黙の議場に、金属の鳴る音が微かに響く。
*****
重い扉が閉じられ、議場を後にした廊下は静まり返っていた。
窓から射す淡い陽光が、長い回廊の床に線を描いている。
グレアム・ウェクスラーはゆっくりと歩いていた。
足音が、石の床に小さく響く。
その背後から声がかかった。
「──グレアム殿。」
振り返ると、グレゴリー・ヴァレンタインが立っていた。
険しい眼差し。沈黙の奥に、強い確信が宿っている。
「灰色の髪の大男。私はその者を知っている。」
グレゴリーは確信をしているようだ。
「見かけたのは十六年前からだ。
ノア連邦の裏で、犯罪組織、異常犯罪者、汚職に手を染めた政治家……そうした者たちを、まるで“正義の執行者”のように次々と皆殺しにしてきた。
……そしてグレアム殿。その大男と、ノアの騎士数名とで“極秘の部隊”を結成したという話を聞いたことがある。」
廊下の静寂が重く沈む。
数秒の間を置き、グレアムは小さく息を吐いた。
「……何かの間違いだろう。」
それだけを短く言い残す。
だが、グレゴリーの瞳は彼の目を真っ直ぐに捉えて離さなかった。
「先輩…あなたは変わられた。
十六年前──あの旧アルザフル王国で何かがあった。
それ以来、あなたの目の奥に“何か”が宿った。」
グレアムは静かに笑った。
その笑みは穏やかでありながら、どこか冷たかった。
「……善も悪も、この世に本来は存在しない──
そんな言葉がある。だが私は、この言葉が嫌いでね。」
グレゴリーはその言葉を聞いた瞬間、思わず息を呑んだ。
「……グレアム殿、それは――。」
口を開きかけて、言葉が途切れる。
グレアムは微笑ともつかぬ表情を浮かべた。
その背に漂う気配は、かつて英雄のものではない。
むしろ、何かを見限り、越えてしまった者の静けさだった。
「……つまり確かな悪と正義が存在し、あなたはその正義のために戦っていると?」
グレアムは足を止めない。
そのまま背を向けたまま、静かに言った。
「誰かが裁かねばならぬ。
正義という名のもとに、“誰も触れたがらぬ現実”を、な。」
その言葉が、長い回廊に低く残響した。
グレゴリーはただその背を見つめる。
そこに立っているのは、もはや同じ騎士ではない。
――それは、“闇の裁定者”のように見えた。
グレゴリーは一歩前へ出る
「昨日、娘のローズが見た。
灰色の髪の大男が、娘を護衛していたノアの騎士と、黒いスーツのダカン人を容赦なく殺したと。
しかし……殺された騎士たちは、内部調査部で私がマークしていた汚職騎士だ。
そして、スーツの男たちはおそらくダカン帝連から送り込まれたマフィア。
その男が来なければ、娘は確実に命を落としていた。」
グレアムは立ち止まり、グレゴリーの方を向いた。
「その大男に感謝をしたいと?」
グレゴリーは苦く笑った。
その笑みに、父親としての情と、騎士としての矜持が入り混じっていた。
「……礼を言っといてほしい。
だが私は神に、そして国に忠を尽くすノアの騎士だ。
殺戮を、認めるわけにはいかない。」
そう言い残し、グレゴリーは踵を返す。
その背中は揺るぎなく、しかしどこかに深い迷いを孕んでいた。
グレアムはしばし無言でその背を見送り、ゆっくりと小さく呟いた。
「……変わらんな、グレゴリー。だが、それでいい。」
静寂の中、陽光が彼の横顔を照らした。
その表情は、どこか悲しげで、底知れぬ闇を湛えていた。




