第12話 静寂の森、忍び寄る影
夜の街を、シュウは必死に走っていた。
息が荒く、胸の奥で心臓が暴れている。
街灯の光が点滅し、舗装路に伸びる影が揺れた。
その一つひとつが、悪夢のように見えた。
(まさか…大丈夫だよね…!母さん…!!)
焦燥と恐怖に背中を押されるように、住宅街の角を曲がる。
視界の先に、見慣れた我が家の灯りがある。
だが、その前に――怪しい黒いバンが停まっていた。
その時、シュウの足が止まる。胸の鼓動が一瞬、音を失う。
(間に合わなかったのか――?)
血の匂いを想像すると、喉が渇きつき、頭がクラクラする。
しかし、鼻を刺すような鉄の臭いも、声も聴こえない。
ただ、夜風が玄関のカーテンをやさしく揺らしているだけだった。
あまりにも静かすぎる。
不自然な程に――。
まさかほんの数十分前まで、ここで数人のダカンマフィアの連中が無惨に肉体が細切れになったなど、誰が想像できるだろう。
道路は乾ききり、地面には何の痕跡もない。
まるで、最初から何も起きていなかったように。
シュウは息を整え、意を決して扉に手をかけた。
「……母さん!!」
叫びに近い声。
すぐに、室内から返ってきたのは――驚き混じりの優しい声だった。
「どうしたの、そんなに慌てて!? 顔色、真っ青だよ。」
リビングの奥から現れた母は、エプロン姿のまま心配そうに眉を寄せていた。
そのいつものように穏やかな様子に、シュウの膝から力が抜ける。
――無事だ。生きている。
胸の奥に込み上げる安堵が、同時に背筋を冷たく撫でた。
シュウは知る由もない。
このいつもの平穏は偶然ではない。
“何か”が、自分よりも先にここへ来て、すべてを終わらせたことに。
「母さん、時間がない。今すぐ荷物をまとめて。必要なものだけでいい。」
「え……?」
「説明はあと! 危険な奴らが狙ってるんだ!
すぐ、騎士団の信頼できる人たちが迎えに来るから急いで。」
母は驚きながらも、その切迫した声にただ頷いた。
シュウは玄関へ向かい、深く息を吐く。
静まり返った外の闇が、やけに深く見えた。
胸の奥に残る不穏な静寂――それは、何者かが“完璧に片付けた”後の空気。
***
少し離れた屋根の上。
夜風が吹き抜ける中で、ユミナがその様子を見下ろしていた。
彼女は穏やかに息を吐いた。
「……無事でよかったね、暁月シュウ君。」
やがて、道路の向こうにヘッドライトが差す。
黒い公用車が停まり、グレゴリー・ヴァレンタイン隊長の信頼する部下と思われる二人の騎士が降りてきた。
ユミナは屋根の上で見守りながら、小さく微笑む。
「良かったぁ。あの騎士二人は"大丈夫"みたい。」
彼女の声は夜風と共に溶け、静かに消えていった。
*****
深夜の街の灯りが散りばめられ、風が高層ビルの屋上をなでていく。
ユミナはさっきまでいた住宅街から既に遠く離れ、屋上の縁に腰を下ろし、足をぶらりと垂らしながら、静まり返った都市を見下ろしていた。
今頃はもう騎士二人がシュウと母親を連れ、無事に避難の準備を整え移動しているだろう。
「……これで、ひとまずは安心、かな。
でも相手がダカンなら、どこまでも警戒を張り巡らさないと。」
夜風が彼女の美しい茶髪をなびかせる。
その柔らかな横顔に、罪悪の影はなかった。
ただ息を吐き、手袋を外した指先についた血を、無言で夜風に晒す。
その顔には、仕事終わりのような静けさだけがあった。
彼女にとって“命を断つ”という行為は、もはや善悪の領域ではない。
そこにあるのは、ただ“悪を殺し善を救う”という使命だけ。
血の温度も、死の重さも、すでに心の中で何度も受け止め、乗り越えてきた。
――人の領分を越える。
それを自覚した上で、それでも彼女は歩みを止めない。
それが、死隠部隊の暗黙のルールであると同時に、ユミナ・クロフォードという人物だ。
息を吐き、通信機に指をあてる。
「――こっちは片付いたよ。
痕跡はすべて消した。 カイル、そっちは?」
数秒のあと、聞こえてきたのは、いつも通りの乱暴な声だった。
『そんなのしてねぇよ。死体はそのまんまだ。』
「ちょっと! それくらいはちゃんとしてよ。
娘さんのローズに見つかったらどうするの!?
あぁえぇ……もぉ……。
とにかくセラから預かった“処理液”、使って痕跡を消すの。」
『ああはいはい、今から試してみるから落ち着けよ。』
通信の向こうで、何かが泡立つような音がした。
カイルが無造作に何かを撒くと、肉と血の残滓がみるみる溶けていく。
煙のような白いモヤが夜気に消え、跡形も残らなかった。
『……相変わらず、セラの開発するもんはすげえな。』
感心とも呆れともつかない声が漏れる。
『まあ、俺が引くくらいの“やべえ拷問マニア”ってとこは玉にキズだがな。』
ユミナは苦笑しながら、額に手を当てた。
「……あなた、通信中にそんなこと言わない。」
『悪ぃ悪ぃ。けどよ、ユミナ。』
「ん?」
『さっきの“嬢さん”――ローズだったか。
見てたぜ。俺が殺ってたとこ。』
ユミナの瞳が一瞬だけ鋭くなる。
「……見てた?」
『ああ。カーテン越しにな。ま、勉強になったろ。
世の中、きれいごとだけじゃ生きてけねぇってことだ。
おおっと、こっちにも娘さんをお迎えの騎士さん達がご到着だ。切るぜ。』
通信がぷつりと途切れた。
夜風が頬を撫でる。
ユミナは街を見下ろしながら、
煌々と光るノアの街の夜景を、どこか寂しげに見つめた。
「……この街の光、本当は綺麗なのにね……。」
呟きは、風に溶けて消えた。
彼女は立ち上がり、裾を翻す。
その瞳の奥には、夜よりも深い静けさを見せた――。
*****
夜の帳が降りた森を、数台の黒い車が無音で進んでいた。
舗装もされていない細道を、ライトがわずかに照らす。
車列の先頭には、ノア連邦の紋章を刻んだ装甲車が走る。
やがて森が開け、鉄の門と高い塀に囲まれた白亜の別荘が現れた。
門の前で車が静かに止まり、先頭の車からグレゴリー隊長が姿を現す。
「皆、無事で良かった。」
低く落ち着いた声。
シュウが車を降り、すぐ後ろからローズとシュウの母が続いた。
ローズはその姿を見た瞬間、我慢できずに父へ駆け寄る。
「お父さん……! 会いたかった!」
グレゴリーはその身体を抱きとめ、髪を撫でた。
「すまなかったな、ローズ。私の甘さのせいで、危険な目に遭わせてしまった。」
娘の肩を包みながらも、その瞳は鋭く周囲を見ていた。
部下たちは静かに周囲を警戒し、センサーが作動する音が小さく響く。
そんな中、ローズは震える声で言った。
「お父さん……さっき、長い灰色の髪で、色黒の大男が……。
騎士たちとその近くにいたスーツの人たちも、素手なのに一瞬で殺されて……。」
その言葉に、グレゴリーの瞳が鋭く光った。
「……灰色の髪の、大男……?」
ほんのわずかだが、思考が止まったように見えた。
横でそれを聞いていたシュウの胸にも、別の記憶が甦る。
――数日前の、ゾンビ化騒動。
あの時、素手でゾンビ化した人達をなぎ倒した男。
(まさか……同じ人……?)
グレゴリーはすぐに表情を引き締めた。
「その話は後だ。ここは表向きは別荘だが、地下には完全なシェルターがある。
外部通信は遮断され、ここなら安全だ。」
手を上げると、部下たちが無言で扉を開き、三人を案内する。
鉄の門が静かに閉まり、夜の風が遠ざかっていった。
***
重厚な金属扉の奥――
地下へ続く長い階段の先に、豪奢でありながらも白い壁と整然と並ぶ金属棚、そして冷たい床、天井には淡い灯りがあり、空気はヒンヤリとしている。
「ここがあなた方の部屋だ。」
部下の一人が案内した先には、個室が二つ。
清潔なベッド、簡易通信端末、壁には魔力検知防御の紋章が刻まれていた。
ローズはまだ怯えを隠せず、父の手を握る。
「ごめんなさい……今は少し休みたい……。」
「大丈夫だ。ここなら、誰も手出しはできん。」
シュウの母は息子に微笑む。
「気をつけてね。無理だけはしないで。」
「うん……大丈夫。」
グレゴリーは二人を部屋に残し、静かに扉を閉めた。
***
地下の奥の作戦会議室。
厚い扉の中で、グレゴリーと数名の部下、そしてシュウが地図を囲む。
テーブルには、ノア連邦とダカン帝連の国境地帯の衛星地図。
赤くマーキングされた都市名がいくつも光っている。
「……状況は一刻を争う。
君の話にあった“ダカン帝連の工作”は、我々の想定以上に進行している。」
グレゴリーの声は低く、重い。
その緊張の中で、シュウが口を開いた。
「……僕には母しかいません。でも……友達も危険かもしれない。
タクトと、リナ。二人とも僕の友達なんです。」
グレゴリーは腕を組み、少し考えた後で頷いた。
「念には念を入れよう。関係者は全員保護対象とする。
すぐに部下たちに迎えに行かせよう。」
部下が即座に端末を操作し、二つの住所が画面に表示される。
シュウは安堵と不安の入り混じった表情で画面を見つめた。
***
――同時刻。深夜の住宅街。
タクトの家の前に、黒いバンがゆっくり停まった。
四人の黒服の男たちが降り立ち、銃を構える。
「ここだな。」
ひとりが呟き、門を押し開ける。
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もう一方、リナの家の前。
窓越しに、灯りが一つ。
眠る少女の部屋へ、影が忍び寄る。
金属の軋む音。
カーテンの向こうで、気配が一つ――二つ――。
夜が、静かに息を止めた。




