こうして彼女はめでたしめでたし
困ったな。私は全然波立たない心でそう思った。
よく晴れた自邸の庭は、職人の手によって美しく整えられ、どれだけがんばっても名前も花言葉も覚えられなかった花々がこの世の栄華とばかりに咲き誇っている。情緒をろくに解さないご令嬢のために、よくぞ庭師はここまで腕をふるえたものである。ああ、いや、私がわかろうがわかるまいが、手を抜いたら庭師の技術や誇りに傷がつくだけか。私のためじゃないわ、解散~。
そんな麗しい庭には、朝から使用人たちがせっせと準備してくれた丸いテーブルとイス、クロス、クッション、茶器。どれもこれも丁寧に整えられ、彼らの手配技術の高さが伺える。つい昨日、「来るらしいから用意しておいて」なんて言っておいただけの私のために、なんとありがたいことであろう。だというのに頭を下げての礼も許されず、それっぽい満足そうな微笑を浮かべることすらできない。それ以外の反応は躾の教師が罰を受けてしまうのだ。ふつう、ここで罰を受けるのは私やろがい。やめようだなんて絶対思わないけど、貴族令嬢ってばなぁんて窮屈。
考えたってしかたのないことばかりが脳裏でぐるぐる回る。
現実逃避もほどほどにしなければ、さすがに医者を呼ばれるかもしれない。医者が呼ばれて万が一「念のため……」だなんて療養を命じられたらどうなると思う? 私付きの侍女たちが軒並み減給されたり解雇されるのだ。曰く、主の不調を見抜けない間抜けやろうなんだって。
あー、だめ。
気付いたら思考が逸れる。目を向けよう、現実に。
「お申し出は大変光栄ですが、やはりわたくしでは務まらないかと」
改めて姿勢を正し、むりでーすとお返事する。
本当はもっと迂遠でおしゃれで高貴で頭よさそうな断り方があるらしいんだけどさ、ぶっちゃけ理解できなかったんだよね、私。教師をたくさんつけられて、あらゆる手段で教育を受けたけど、それでも一般的な及第点には届かなかった。
かつては──最初は頭がよくなくっても努力すれば秀才になれるって信じてたけど、十年目あたりでとうとう私の心はぽっきり折れた。人には向き不向きがある。これは冷静に負け惜しみだけど、天才や秀才になるには結局素質がないとむりなんだと思う。え? むろん敗北者? ええ、遠吠えですけど? わんわん!
ああ、また考えが……。こういうところが私はダメだ。
うっかりすると吐き出しそうになるため息を鍛えた呼吸と腹筋で抑え込み、私はなんとか対面に座る人物と目を合わせた。
「しかし、私はあなたがいいのです。私の窮地に、手を差し伸べてくださったあなたが」
「わたくしが居合わせたのはいつもたまたまでしたわ」
「あのときたまたま居合わせ、助けてくださったのはあなただけでした」
今、目の前にはえぐいレベルにキラキラした男性が座っている。座って、やたら優美な所作でカップを持ち口をつけお上品に茶を飲み、なんかいい具合の顔の角度で微笑んで私を見ている。照れたように頬を染めて、風邪かと聞きたくなるような熱っぽい眼差しをそそがれている。ふむ、ここは念のため風邪かどうか確認すべきか。おっと遠くの侍女が首を振ってばってんポーズ、わかりました黙ります。
それにしても、如何ともしがたいくらい私の表現力が終わってて悲しいね。
きっとこのモノローグを文章に起こしてもこの国の誰も理解してくれないだろうな。
吐き出し先がえすえぬえすであれば、きっと誰かしらが「くさ」って思うくらいしてくれるのに。してくれるよね。……いつも思うけど、なんで笑ったり面白がるときの表現が草なのかしら。種類の指定もないし、どの草のことなのよ。
はぁ~、この疑問、きっと一生抱えてそのまま死ぬんだろうな。だって誰も答えなんて持っていないんだもの。うんざりする。
「ご令嬢?」
「……ごめんなさい、驚いてしまって」
「いえ、私のほうこそ急なお話で……。また改めて時間をもらえますか?」
返事はしない。驚いたけど考えは変えません無理ですという主張を繰り返す。
躾教師に「それっぽくできてますよ!」と太鼓判を押された憂い微笑を浮かべた。男性は悲しそうな顔をしたが、それ以上特に言葉を重ねることもしなかった。
ところで教師も教師で憂い微笑って表現ダサくないか。そんな言葉も表現も我が国にあったっけ? 儚げな微笑みとか憂い顔とかでいいだろうが。でも思い返せばあの先生、あまりにも私がアホだから言葉選びのレベルを下げてくれたのかもしれんな。お礼のお手紙……は、確か辞めるときに「気にしないでください」ってやんわり断られたからやめとこ。ふふ、私がヘマすれば罰金と悪評と鞭打ちって噂だったもんね、そりゃ必死にもなるわ。
懐かしい記憶をさらっているうちに、美人くんはつつがなく帰宅していた。私ってばいつも思考が飛びがちだから、きっと使用人のみんなが気を回して誘導したり頭下げたりしてくれたんであろう。兄に臨時手当の申請を渡しておかなきゃな。
は、と我に帰ったら自室であった。
いつの間に……? まあいいか。
「わたくし、ちゃんとできていたかしら?」
「ご立派でございました」
侍女に聞いたら力強く頷いてくれた。どうやら傍から見て化けの皮は剥がれていなかったらしい。
よかったよかった。とりあえず兄に今日のこととお手当のことを手紙に書いて、ああ、躾教師に謝礼送金してくださいとも書き足そう。急に大金送られてきてあわわってする先生の様子が目に浮かぶ。ふふ、善行って気分いいわぁ。
さて、改めて説明するまでもないだろうが、私は「転生者」である。
恋愛物語をこよなく愛した前世を持ち、冗談みたいな話だがその前世の中で「現在の世界」についての物語があった。ははーんなるほど、物語の世界ですか。わかるよ、異世界転生だとか、悪役令嬢転生だとか、ヒロイン転生だとか、モブ転生だとか、TS転生だとかなんかそういうやつだよね。ここに私が該当する属性はありま……モブ転生かな。
前世の詳細は朧気なものの、二歳ごろから自我があった私は人生のありとあらゆる出来事を「物語じみてるな」と感じていた。まあね、物語の世界なら頷けるよね。二十四時間、周囲全部がふらっしゅもぶかなって考え続けた。
で、まあざっくり順序だてると今日来たとんでも美形くんは登場人物の一人で、私は先日物語内で語られた彼の危機エピソードに偶然居合わせた。物語上で彼に手を貸す人はいなかったけど、私はつい魔が差して手伝った。そしたら本日求婚されたというわけだ。
ふふ、すごい雑な説明。でも私にとってはこの程度の出来事だったのだ。
彼を救おうと躍起になったわけでもないし、未来を変えなきゃと奮起したとかでもない。ただ、「物語と違うことをしたらどうなるのか」をやってみたかっただけ。私がちょっかいだしたら劇的になにかが変わるのだろうかって気になったのだ。
でも、結局やった意味はなかったかもしれないと、手を出した当時も、実際に彼と話をしたさっきも感じた。
ドアをノックする音で顔を上げる。
どうやら書き終えた手紙を見下ろしたまま、ぼうっと考え込んでいたらしい。
「ヴィーチェ、入っていいかな?」
「どうぞ」
やってきたのは我が兄である。
しかしてその実態は私の婿候補として引き取られたらしい遠縁出身の我が幼馴染で、いつの間にか義兄に進化していたスーパーエリートマンだ。
現在ではすでに我が家の後継者にしっかり収まっているので、私が彼と結婚するか、それとも私が嫁に出されるかは検討中。そして婿も嫁も内輪だけの話であり、私たちが公的に婚約者として定まっているわけではないので、本日のお見合いも家族全員相談のうえで行われた。
これで私がとっくに婚約結んでまーすだったらとんだ尻軽女だが、そうはならなかった。
とはいえ私の好奇心と失望は、危機エピソード終了後には揺るがぬものになっていたし、彼への興味もすっかり失われていた。ぶっちゃけると別に会いたくなかった。なかったのだが向こうがすごいぐいぐい来て断り切れなかったのだ。すげーわ、さすが物語の一人だけある。そういう行動力ってなかなか持てないよ。私にはない。
はあ、ほんとう押しに弱いってよくないわー。流されやすい、に、に、にんじんはだめ……? んん、なんか違う?
「それでどうだった?」
おっと、いけない。兄がいるんであった。
顔を上げるとちょっと距離はあるものの、兄と目があう。この人は遠縁だけあって私と色合いはよく似ている。一族に多い金茶の髪と碧の目。顔立ちはさすが貴族だけあって整っているが、貴族基準だとふつう、平均レベル、可もなく不可もなく良い。なお私も同じ。いかにもな量産型貴族令嬢だ。私も兄も、通し番号とか振られてたりして。
ついさっきまで非現実的な顔面があったので、私は思わず安堵の息を吐く。兄が苦笑しているが、整いすぎた美貌はただそれだけで、私になんの感動も抱かせなかった。それに比べて我が兄は! 素朴な笑顔がかわいいぞ!
ところでさ、急に話をすごい戻すね。
これは結構深刻な問題なんだけど、幼児期から周囲を「物語じみてるな」って感じているとどうなると思う?
私は現実感というものを見失い、地に足のついていないまま成長した。
例えば同年代の少女同士がお茶会バトルを始めたら。
例えば貴族たちの嫌味合戦を聞いたら、御家騒動を耳に挟んだら、成り上がりを目論む庶民たちの噂話を知ったら、絶世の美女の取り合いが発生したら、婚約にまつわる醜聞が発生したら、そのどれもが前世で読んだありとあらゆる娯楽に則していたら……?
さすがに我が家と家族のことは身近に思えたけれど、それ以外のほぼすべての出来事を、何か台本でもあるのかなと冷めた気持ちでしか見れなくなったのだ。
関係する人物たちは軒並み「物語上の登場人物」と成り果て、どんな結末に落ち着こうと興味を持てなかった。仮に末路を知ったとて、えーっとなんていうんだっけ、これなになにで見た! って感じかな。
私のこの脳裏に浮かぶ思考も言葉遣いも結局形式ばった物言いで、それが余計に私の熱を冷めさせた。
考えや想像が、前世で作り上げられた創作の枠組みから逸脱しないから、余計に。
そんな中で父母と兄、そして使用人や教師たちは生身の人間感が強くて、安心できた。正体のない、茫洋とした存在じゃないと、時間をかけて理解できた人たちだった。
「何も変わりませんでしたね」
「そう。……悪いけど二人にしてもらえる?」
兄が指示を出すと、侍女は一礼したあと退室した。ドアは薄っすら開いている。
むむ、いつの間にか兄のお茶とイスまで用意されている。やはりうちの使用人すごい。手が早すぎでは? 給与アップをばいぷっしゅしなきゃ。
いや待って椅子に置いてあるクッションのカバーは先日母と一緒に全面刺繍したあれではないか。お茶会に行ってしょうもない嫌味をぶつけてきた昔馴染みに憤慨している母を落ち着けるべく、半日耐久刺繍三昧だったときのあれだ。
おまけに私のセンスがいまいちなせいで、糸選びと柄の主張が強いうえにぎちぎちに縫っちゃったから硬くて最悪だって評されたあれじゃないか。ほぼ失敗作やぞ! やめたげてよ、私が恥ずかしいでしょ! でもテーブル越しに手を伸ばしてクッションを奪うとか、そんな所業を私がやっていいわけない。くそっ、どうすれば!!
あ、あー兄がなにも気にせず着席!
「ヴィ、聞いてる?」
「なにひとつ聞いていませんでしたわ」
「じゃあ、とりあえずこれ読んで同意するならサインしてね」
「わかりましたわ!」
まさかクッションに意識吹っ飛ばされていたというわけにもいかないので、渡された書類を読む。ははーん、こりゃあ婚姻同意書ですね。おーけい、おーけい、私ことヴィーチェちゃんは物わかりのいいレディですわよ、任せなさい。
ほほほ、教師お墨付きのお上品書体でさらさらっとな。はい、ご提出。
「迷わないねえ」
「迷うわけありませんわ」
「ふふ、嬉しいよ、ありがとう」
本当は私が二十歳になるまで保留の予定だったが、今日のお見合いで前倒しが必要だと判断されたのだろう。
それはそう。私だってそう思った。
だってあんな人外じみた造形と悲惨な生い立ちをもった男に言い寄られてお断りする貴族女性、この国にあんまりいない。動かないでいたら、きっと私は地味顔ながら将来有望な男を釣り上げたラッキー女に仕立てあげられ、外堀を埋められていただろう。この世界の貴族って、前世で言うところのアイドルとかタレントっぽいところがあるから、世論の噂とか評判とか世間体とか超大事なんだよね。だから本人の……私の意思が無視されてことが動く可能性が高かった。世論の求める事実はこれなので添いますって一族が断腸の思いで決断するのだ。
今回はさしずめ、悲劇のヒーローが窮地を救った乙女に恋をして熱烈に求婚、はいハッピーエンド大団円って脚本かしら。ちなみに個人と断腸の思い云々は当然伏せられる。
ふっ、そうはさせねえ!
「わたくし、お兄様以外の方と結婚だなんてごめんですわ」
「私もだ。でも……さすがの私も今回はなびくんじゃないか気が気でなかったよ」
「ありえませんわ」
兄の危惧をばっさり否定。
だってさ、考えてもみなよ。物語の登場人物のパネルがどんって置かれても、パネルはしょせんパネルでしかない。もし物語に強い情熱や執着があったり、登場人物に思い入れがあったら、多少心持は変わったかもしれない。
でも私の前世は恋愛小説を人生の日替わりおやつ程度にしか思わなかった。この世界はそんな日替わりおやつのうちの過ぎ去ったひとつでしかない。ねえ、あなたはおやつと添い遂げられる?
幼少期の私は、私や世界そのものがいつ泡のように消えてしまっても不思議じゃないと思っていた。だって何もかもがフィクションなのだから、私もフィクションであるべきでしょう?
だから物語が起きそうなところからはどうにか距離を取り、社交界とも程遠い場所で、私の恐怖を理解してくれる家族に守られて生きてきた。もしも物語に巻き込まれたら、私も私じゃない「ヴィーチェ」という登場人物になってしまうと、そう思って。
でも、我慢できなくてちょっとした気の迷いから手を出した。その結果、物語が破綻しないまま私をその一部にしようと登場人物が向かってくるとは思わなかったけど。こんなん逃亡一択である。後悔先に立たず。
兄は──ユリウスはこの、私のばかみたいな世迷いごとを丁寧に聞き出し、理解を示し、守ると約束してくれた。身近な男性に依存とは聞こえが……わる……くう、そうです、まごうことなく依存ですぅ……! でもでも小さいときからいつも一緒にいてくれたんすよぉ……! 不安な時抱きしめてくれたんっすよぉ!
ユリウス相手には依存だろうとなんだろうと気持ちがあれこれ動くんすよぉ! こんなんもうユリウスがいいじゃん!!! 登場人物なんて私にとって紙なの、平面なの、気遣いの対象にすらならないの! やだやだユリウスじゃなきゃ私は人間でいられない~!
って目前にユリウスの手が。
「……っは」
「やあ、今日は戻ってこれるのが早いね。調子がいいのかな」
「ごめんなさい」
「いいよ。さて、ヴィがご機嫌なうちに父上へ話しに行かないと」
「……お父様、喜んでくれるかしら」
「どうかな、一緒に確かめよう」
ユリウスに促され、立ち上がる。おっと手紙を渡しそびれ……お兄ちゃんにそつなく回収されとるがな。さすがユリウス。さすユリ。さす兄? なんでもいいか。ユリウスの手は大きくて暖かくて最高だなぁ、ずっと握ってたい。超つらかったけど勉強がんばってよかった。
おっと気付いたら両親目の間にもういる~。物事の進みの早さに毎度びっくりするよねぇ。そくおちにこまみたいなスピード感。……そくおちにこまってなに? 側溝に駒が落ちちゃったとかの表現かな、違う気がする。まあいいか。
なお父母は号泣せんばかりに祝ってくれた。貴族だからね、実際は号泣しないのよ。母上のお上品な感動の表し方とか私には全然真似できない芸術のお振る舞いですわよ~。憧れちゃうね。
ちょっぴり不安ではあったけど、もちろん私はユリウスと結ばれるよう願われていたのを知っていた。だって小さいときから言い聞かされてたし、使用人たちも二人きりにするときドアの開け方があまりに薄っすらすぎるし、ユリウスは私を特別扱いするし、私もユリウスだけが特別だったし、そんな私たちを父母はあたたかく見守ってた。
あいにく私は鈍感系女主人公じゃない。自分の気持ちにも、ユリウスの気持ちにだって気付いていた。
……いや待て、登場人物たちにどう気を遣うべきかわからないから、やはり鈍感系の亜種なのでは? い、いいの、気にしない。私にはユリウスがいるんだもの。
二人の挙式は、我が愛する自邸で執り行われた。
覚えられなかった知らん花は相変わらず咲き乱れ、渾身のお手入れ期間を経て銀食器並みに磨かれた私とユリウスはぴかぴかに輝いている。使用人たちの技術と誇りに乾杯せねば。父も母も見たことないほどにっこにこだし、ユリウスもにこにこだ。ぐう……! 幸福オーラすごすぎて当事者なのに溶けそう!!
ともかく。
貴族らしい言い回しも、女主人らしい采配も、この世界の人としての価値観もいまいちな私だが、それでもユリウスと一緒にちゃんと生きていけそうだ。あーよかった。これこそめでたしめでたし、だよね。
私の伴侶は幼児期から妙だった。
泣かず騒がず暴れない。一見眠たげに見えるかわいらしい瞳はひどく冷徹な輝きを宿していて、夫妻はひどく心配したそうだ。
それで、最初は遊び相手兼侍従候補として私は連れてこられた。
ヴィーチェと名付けられた女の子は、聞いていたとおり全然子どもっぽくない。当時の私は、おこがましいことだが主家のお嬢様というより妹ができたみたいだと感じて、一生懸命年上ぶった態度で彼女に接した。
ある日の寝起き、珍しく泣いているからどうしたのかと聞いた。
ヴィーチェは、それはそれは恐ろしい夢を見たのだとしくしく泣いた。他の子どものように大声で泣きわめかないのがかわいそうで、私は辛抱強くその夢について根掘り葉掘り質問を繰り返した。こわかった思い出を話したら、こわかったと大きな声で泣いてくれるかもと思ったのだ。当時の私はデリカシーがなさすぎる。
「今までのことぜんぶつくりものでしたーって言われて、ヴィもみんなも消えちゃうゆめだったの」
なんとか聞き出せたが、地面がボロボロ崩れて暗闇に落ちるだなんて、聞くだけでもおそろしい夢である。私は彼女の恐怖にいたく共感し、小さな体を抱きしめて安心させようと頭を撫でた。それでも泣き止まないので、つい根拠のないことを口にして、彼女を慰めようとした。
「ぼくがぎゅってしてるから大丈夫だよ!」
消えるときは消えるだろう、という指摘はいけない。
だが、どうしてかヴィーチェはこれに安堵したようだった。あとから知ったが、私の慰めにほっとしたんじゃなく、私があんまりにも暖かくてほっとしたらしい。知らなければ私はちょっとした勘違い男であったと思うが、納得しがたい複雑な気分である。寄り添ったという実績が認められたということで、私はさまざまな感情を呑み込んだ。無知や若気の至りはおそろしい。
しかし出会った当初は外出をいやがり、教師をこわがり、夫妻と私以外のほとんどを拒絶していた少女は、そこから緩やかに警戒を解いていった。
夫妻が私を侍従から後継者に変更したころ、ヴィーチェは苦手な勉強に力を入れ始めた。
「頑張ってるけど、なんていうのかな、余計な情報がもうたくさん詰め込まれてて覚えられないの……」
これは計画通りに捗らないことを不思議に思って聞いたときの、彼女の返答である。
なんだか奇妙に感じられ、教師や侍女たちからもヴィーチェの普段の様子を聞き、合わせて当主様に相談した。
文献や調査の結果、おそらくヴィーチェは異界浸蝕を受けてしまったのだろうという結論に至った。
突飛な世界の夢や記憶に悩む、過度な恐怖心を持つ、思考がさだまりにくく不可解な思い込みをしやすい、由来の知れない知識を持つ、他者より劣る記憶力など、これらは生まれたときの幼児に、異界のなにかが混ざるとあらわれる症状だ。
五歳までに気付けなければ治療の機会は失われる、厄介な現象が異界浸蝕である。
このとき、ヴィーチェは七歳。手遅れであった。
浸蝕患者は活動的で多弁なタイプが多いので、大人しいヴィーチェは発覚が遅れてしまった。
私含めた誰もがうなだれた。気付けなかった夫妻の気落ちはひときわ激しく、夫人など哀れになるほど消沈し、一時は世を儚んでしまうのではと危ぶまれたほどだった。様子のおかしい私たちを心配するヴィーチェの姿にみんな立ち直ったが、きっと彼女を支えようと誓い合い結束を深めた。
ヴィーチェ、というより浸蝕患者には事実を伝えると錯乱して家から逃げ出したり、自死を選んだりする場合があるため、彼女には教えないこととなった。
異界記憶を持つがゆえに、新しい知識を得にくいヴィーチェだったが、彼女はそれでも懸命に努力していた。くじけそうな教師に縋り付いて指導を願う彼女に、なぜそこまでがんばるのか聞いたら、頬を染めてこう言われた。
「淑女になったら、お兄様と結婚できるってお母様が言うんだもの」
なにがあってもヴィーチェと結婚しようと決意した瞬間である。
不用意に発言しなければ、おっとり美少女として十分に淑女ぶれるようになったヴィーチェだが、私たち家族以外へ向ける目は幼児期から変わらず冷めていた。
貴族の醜聞を娯楽のひとつとして楽しむのはいたってふつうのことだが、ヴィーチェの目は観衆よりもさらに一歩、高い場所から見下ろしているような冷たさがあった。道端の子どもが人形遊びしているのを眺めているような目、と言えばいいだろうか。
ある日、「ちょっとだけ試してみたい」とたわむれに人形遊びへ手を伸ばしたことには驚いたが、会いに来た求婚者を見るヴィーチェの目は変わりはなかった。
肩を落として帰った彼にはかわいそうなことをしたが、ヴィーチェと結婚してもおそらく彼自身も幸せにはなれないだろうから諦めてほしい。代わりに何人か評判のいいご令嬢の家を紹介したし、彼なら自らの幸福を見出せるはずだ。
私とヴィーチェが無事に結婚したあと、不思議なことに異界浸蝕の症状はぱたりとおさまった。あまり刺激するのも良くないかと思いつつも、悟られないよう慎重に知識や記憶力を検査すると、これも同年代の一般女性並みに快復していたのだ。
結婚三か月目には、ヴィーチェは前夫人によく似た、どこにでもいるおっとりめの貴族夫人であった。
「まあ、今日もずいぶん豪華なのね?」
「うん。結婚三か月記念だよ」
「なんだかこのところ、毎日お祝いしてない?」
「そうだよ、毎日幸せだから」
「……それなら仕方ないわねぇ」
夫妻も私も使用人たちも、誰も表立ってこれを祝わなかった。ただひっそりと、いらぬ苦痛にさらされていた少女が解放されたことを、胸の中で喜んだ。かわいい、大切な私たちのお姫様は、まだまだこれから幸せになれるだろう。
こうして彼女はめでたしめでたしを迎えたのである。
【余談】
・ヴィーチェの「気遣いできない」は、仮に目の前で瀕死になられても「なんかキャラ死にそうで草」と笑顔で考えられてしまうレベル。
・使用人への懲罰云々は異界の娯楽小説知識が彼女の思考を蝕んだもので、現実には起きていない。
・夫妻が予想していたよりとてつもなく優秀だったこと、ヴィーチェとの仲が良好であることから、ユリウスの立場は爆上がりした。下っ端貴族だったのに美少女幼馴染ちゃんを射止めた努力型成り上がり野郎である。
・ユリウスが元侍従候補だったことは当時から記憶容量を圧迫されていたため、ヴィーチェは覚えていない。
・彼女は浸蝕から快復、解放された稀有な例だが、ユリウスが平穏を優先するため公にされるか怪しい。
・独白多めなのは意図したことだが、作者すら目が滑って添削が大変だった。