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第9章 夜の世界からの解放

街を離れると、景色は一変した。

道は黒い鏡のような湖に沿って続き、足を踏み出すたびに波紋が闇に広がる。

空の星々は姿を消し、代わりに淡い光の蝶が舞って、行く先を導いていた。


凛太郎が囁く。

「まるで……迷わせるための道だな」


だが美緒は耳を澄ます。

夜の世界の住人たちの声が、まだ遠くで響いていた。

その声は優しく、切なさを含んでいた。

(……導いてくれている。迷わせるのではなく……辿り着かせようとしている)


道はやがて洞のような闇へと続いた。

千景が足を止め、低く告げる。

「ここが……“夢牢”の入り口だ」



洞窟の奥は、現実と夢の狭間のようだった。

黒い水面に浮かぶ無数の繭、その中に人影が見える。

それは眠り続ける囚われ人たちの姿。


美緒が駆け寄った繭のひとつから、見慣れた顔が透けて見えた。

「……柊!」


さらに隣には土生、そして尊の弟も眠りに閉ざされていた。

彼らの表情は安らかだが、その瞼の裏には甘美な夢が映し出されているようだった。


尊が駆け寄り、弟の繭に手を触れた。

「……まだ、生きてる。だがこのままでは、永遠に夢から覚められない」


千景が冷静に分析する。

「夢牢は本人の望む幻を与え続けて精神を縛る檻……。だが、美緒なら――」


美緒は胸に手を当て、静かに目を閉じた。

自分の声が届くかどうか、心の奥で問う。

(……聴くだけでなく、届けるんだ。夢の奥に閉ざされた心へ……)


繭に包まれた三人の意識が、わずかに揺れ動いた――。


柊の夢(優等生の重圧から解放されて)


校舎の屋上。

夜風が吹き抜け、星々が澄み渡る。

柊は制服のネクタイを緩め、フェンスにもたれていた。

どこからも声が響かない。

成績表も、試験の順位も、教師や家族の期待も――何ひとつ存在しない世界。

「……やっと、自由になれた」

息を吐くと、胸の奥を押しつけていた重さが消えていく。

ただ空を仰ぎ、風に身を委ねるだけでいい。

“誰も僕に期待なんてしない。完璧でなくても、生きていられる”

その甘美な解放感に、柊の心は深く溶けていった。



土生の夢(家族に受け入れられて)


温かな夕暮れの食卓。

母が笑顔で皿を並べ、父は土生の隣に腰を下ろしている。

「今日ね、土生が手伝ってくれたんだよ」

姉が楽しそうに話す。

「やっぱり妹がいてくれると助かるな」

父も母も、頷きながら土生を見つめる。

「お前のこと、ちゃんと見てるよ」

「土生がいるから、この家は賑やかなんだ」

いつも姉ばかりに向かっていた家族の視線が、今は自分だけに注がれている。

その輪の中で、土生は胸の奥からじんわりと温かさが広がっていくのを感じた。

「……私も、ここにいていいんだね」

家族に必要とされる喜びに包まれ、土生は微笑んだ。



尊の弟・怜の夢(孤独から救われて)


教室の窓から差し込む朝の光。

怜は少しぎこちなく教室に入る。

「おーい、怜! こっちだよ!」

数人の友人たちが笑顔で手を振っていた。

机の上には自分の名前がしっかりと書かれたプリント。

その当たり前の光景が、胸をいっぱいにする。

「……僕が、学校にいる」

笑い声は優しく、嘲りではなく親しみに満ちていた。

「一緒に帰ろうな」「怜、次の授業も頼むぞ」

その声に応えるように、怜の口元が自然と綻ぶ。

閉ざされていた心が開かれ、夢の中の怜は仲間と共に在る幸福を噛みしめていた。



三人の夢は、どれも現実では手にできなかった救いそのものだった。

だからこそ――その甘さは深く、檻のように彼らを絡め取り、目覚めを拒ませる。


美緒は夢牢の前に立ち尽くし、心を締めつけられる。

(……この夢を壊さなきゃ。でも、壊すってことは……彼らに“痛み”を思い出させることになる……)



屋上に立つ美緒は、自由を謳歌する柊の背中を見つめた。

風が吹き抜け、制服の裾を揺らす。柊は笑みを浮かべ、空へ手を伸ばす。

「……僕は、やっと自由になれたんだ。誰の期待も、もう気にしなくていい」


その声は切なく、美緒の胸に刺さる。

彼がどれほど重荷を背負ってきたのか、美緒は痛いほど知っていた。


美緒はそっと近づき、静かに声を響かせる。

「柊くん……あなたはずっと頑張ってきた。優等生でいることが、あなたのすべてじゃない」

彼女の声は風に溶け、柊の背中に届く。


柊が振り返る。瞳は迷いを帯びている。

「でも……現実に戻ったら、また同じだ。期待に応えなきゃ、誰かを失望させる」


美緒は首を振る。

「違うよ。期待に応えるかどうかじゃなくて、柊くん自身がどう生きたいか。私たちは、そんな柊くんと一緒にいたい」

その言葉は胸の奥に沁み、柊の瞳に涙が滲む。

「……僕は、自由でいたい。でも……みんなのそばにもいたい」


夢の空が揺らぎ、光が砕けていく。

柊は美緒の差し伸べた手を握り返した。

そして柊の手はだんだんと薄くなり


「美緒、ありがとう。昼の世界でまた会おう」

そう言い放つと光とともに姿が消えていった。



土生の夢の中で美緒は食卓を囲む和やかな家族の輪の横に立っていた。

母の声も、父の笑いも、すべてが土生を包んでいた。

「やっと……私も家族に見てもらえたの。姉だけじゃなくて、私を」


その微笑みは幸福そのもの。だが美緒は心を震わせながら踏み出す。

「土生ちゃん……あなたがどれだけ寂しかったか、わかる。でも、本当の家族は――夢じゃなく、現実にいるよ」


土生が首を振る。

「でも……現実では、私はいつも影だった。ここなら、私を必要としてくれる」


美緒は一歩近づき、優しく抱きしめるように声を響かせた。

「影にいるからって、大切じゃないわけじゃない。今の土生の様子をお父さんもお母さんも心配しているよ。私には聞こえる。それに土生ちゃんの存在は、私たちにとって欠かせないの。……私も、あなたにいてほしい」


土生の目から涙があふれ、両手で顔を覆った。

「美緒、ありがとう」

温かな食卓の幻が少しずつ薄れ、夢の光が砕け散る。


土生は震える手で美緒の手を握った。

そして柊と同様に昼の世界へ戻っていった。


教室の喧騒。友人たちの笑顔、呼びかける声。

怜は机に座り、満ち足りた表情で振り向き、美緒を目を合わせた。

「僕は……ここでなら友達がいる。笑われない。置いていかれない。……現実には、こんなのなかったんだ」


その声は切実で、美緒の胸を締めつける。

「怜くん……ここでの友達は、幻。でも、本当の友達はこれから作れるんだよ」


怜は苦しそうに目を伏せる。

「でも……現実に戻ったら、また怖い。失敗したら、笑われる」


美緒は膝を折り、怜の目線に合わせて静かに告げた。

そして共鳴させ尊が隣に現れた。

「何言ってるんだ。俺がいるだろ。一人じゃないだろ。部屋から出て来いよ。俺もお袋も親父もみんな怜を待ってるんだ。怖くないだろ!怜は一人じゃない。」

「怜君、私と友達になろう!目を覚ましたら会いに行くから」


怜の頬を涙が伝う。

「……僕、本当は学校に行きたい。友達が欲しい」


夢の教室が揺れ、友人たちの姿が霞んで消えていく。

怜は机を握りしめていた手を離し、尊の方へ歩み寄り尊は怜を抱きしめた。

その瞬間、夢は静かに砕け散り、姿が薄くなっていった。


三人の夢は崩壊し、幻想の世界が光の粒となって舞い上がる。

美緒の声が彼らの心を解き放ち、現実へと導いたのだった。


美緒はしばらくその空白を見つめ、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

守れた安堵と、置いていかれる寂しさと。両方が、彼女の心を揺さぶる。


――しかし。


静寂を裂くように、空気が冷たく震えた。

どこからともなく影が揺らぎ、街の灯りの隙間から黒い波が滲み出す。


「……随分と勝手なことをしてくれる」


低く響く声。

夜の世界を統べる者――才門が、霧のように姿を現した。

その眼差しは穏やかさを装いながらも、奥底に深い怒りを隠している。


美緒は反射的に一歩下がった。

胸の奥で、先ほど別れを告げた三人の光の余韻がまだ温かく残っている。

しかしその温もりを打ち消すように、才門の気配は重く、冷ややかに広がっていった。

闇の街路に、才門の影がゆっくりと立ち現れる。

彼の足取りは音を立てず、それでいてすべての光が彼を避けるかのようだった。


「……人を奪うとは。まるでこちらが罪人のように」

才門の声は低く、しかし澄んでいて、美緒の胸を震わせた。


美緒は一歩踏み出す。

「彼らは“囚われていた”。夢に閉じ込められ、心を縛られていた。わたしたちは……助けただけ」


才門は薄い笑みを浮かべる。

「助けた? 愚かだ。彼らが求めていたのは夢そのものだ。昼の世界で押しつけられる理不尽から解放され、安らぎに身を委ねていた。お前はそれを壊したに過ぎない」


美緒は震えそうになる膝を押さえ込み、声を張った。

「たとえ甘い夢でも、それは幻。現実に生きてこそ意味がある。苦しみがあっても、自分の足で立たなきゃ……!」


才門の目が冷たく光る。

「その理想は、お前の弱さを覆い隠すためのものだろう」


言葉が刃のように突き刺さり、美緒は胸を押さえる。

しかし次の瞬間、彼女の中で“声”が震えた。

囚われていた三人の心の声――あの必死な響きが、彼女を支えた。




そのとき、昼の世界。


教室の窓辺に座る柊が、不意に顔を上げた。

黒板に響く教師の声が耳に入り、周囲のざわめきが現実へと引き戻していく。

「……戻ったんだ」

彼は小さくつぶやき、隣の生徒が怪訝そうに見つめた。


別の教室では、土生が机に突っ伏した姿から勢いよく起き上がった。

「……夢、じゃなかった……」

頬に残る涙の跡を隠すように袖で拭い、彼女は深く息を吸い込んだ。

これまで感じたことのない温かさと痛みが、確かに胸に残っていた。


一方、怜は自宅の布団の中で目を開いた。

差し込む朝の光が、やけに眩しい。

彼はゆっくりと体を起こし、机の上に置かれた通学バッグを見つめた。

「……行こう。今度こそ」

ためらいの奥に小さな決意を込め、怜は初めて自分の足で学校へ行こうと立ち上がった。





美緒は才門の前に立ち続けていた。

三人を送り出せた喜びが、今は逆に鋭い刃となって返ってくる。

才門はゆっくりと近づき、美緒を見下ろした。


「……お前たち、本当に愚かだな」

才門の声は、夜の闇に溶けるようでありながら鋭く刺さる。

「三人を解き放ったと思っているのか? あの子らはもう、昼の番人の手に落ちている」


美緒の瞳が大きく揺れた。

「……番人に、捕る……?」


才門はゆっくりとうなずいた。

「昼を守るなどと口にしながら、彼らは違う世界に触れた者を“穢れ”と呼び、排除する。捕らえられた者に待つのは裁きではない――徹底した監視と、心を削ぐ罰だ」


言葉が美緒の胸をえぐる。

柊の必死な声、土生の涙、怜の決意――あの温かなものを思い出すほど、才門の言葉が重くのしかかった。


「お前は正しいつもりだろう。だが……考えたことはあるか?」

才門の瞳が夜の光を反射して赤黒く光る。

「昼の世界こそが、檻そのものだとな。番人どもは“正しさ”を名目に、心を縛り、魂を削り取る。夜に身を委ねた方が、彼らはずっと自由だった」


美緒は唇を噛み、声を振り絞る。

「……でも、それは夢。逃げ場にすぎない。たとえ檻に見えても、現実を生きることに意味があるはず!」


才門の笑みは冷たくも愉快そうだった。

「檻に閉じ込められながら、それでも“生きる意味”だと? ――哀れだな、美緒。だが、だからこそお前は面白い」


彼が一歩近づいた瞬間、街の灯火が震え、石畳の影が波のように揺れた。

「証明してみせろ。お前の声が、本当に檻を壊せるものなのかを」


美緒は胸に手を当てた。

才門の言葉は鋭く痛かったが、それ以上に三人の残した想いが彼女の中で震えていた。

「……絶対に、壊してみせる」


夜の空気が張りつめ、二人の間に、世界そのものがざわめき始めた。

才門の影が、夜の灯火と重なりあって揺れる。

彼の瞳は、美緒の決意を測るように静かに光っていた。


「……そうか。檻を壊すと、そう言うのだな」

低い声は嘲りではなく、むしろ興味を隠しきれぬ響きを帯びていた。


美緒は息を荒くしながらも、真っ直ぐに答える。

「柊も、土生も、怜も……あの子たちの想いを否定させない。私の声で、必ず守る」


才門はふっと口元を歪めた。

「守る、か……。だが“守る”ことが、必ずしも正義ではない」

その言葉は柔らかいのに、刃のように鋭く胸に刺さる。


彼は一歩退き、夜の闇に溶け込むように身を翻した。

「今はここまでにしておこう。お前の力……もう少し育つのを見てみたい」


美緒が思わず踏み出す。

「待って――!」


才門は振り返らずに言葉を落とす。

「今頃、柊たちは昼の番人に囲まれているだろう。……奴らの本性を知るのは、そう遠くない」


その声と共に、彼の気配はすっと消えていった。

まるで最初から存在しなかったかのように。


残されたのは、美緒の荒い呼吸と、胸の奥に残る不穏なざわめき。

彼女の声が震える。

「……昼の番人が、本当に……?」


千景が美緒の肩に手を置き、静かに言った。

「惑わされるな。だが、見極める目は必要だ」


尊も頷き、拳を握る。

「オレたちが信じるものを、俺たち自身で選ぶんだ」


美緒は深く息を吸い、まだ消えない才門の声の残響を胸の奥で押し返すように、唇を結んだ。


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