第8章 夜の世界 光と影の街
美緒たちは再び夜の世界の霧の門をくぐった。
目の前に広がるのは先ほどとは違いどこまでも神秘的で、夢のように美しい街だった。
街路は淡く光る石で敷き詰められ、空には星が雨のように降り注ぐ。
建物は半透明の水晶や翡翠のように輝き、夜風が吹くたび、音楽のような鈴の響きが漂う。
「……きれい」
美緒が思わず呟く。
昼の世界では決して見られない光景。ここには戦いや支配の影はなく、ただ穏やかに息づく幻想があった。
尊が足を止め、眉をひそめる。
「……これが本当に、才門の支配する世界なのか?」
凛太郎が口を尖らせる。
「俺たち、てっきり“夜の世界=悪”って思い込んでただろ。けど、こんな光景見ちまうと……どうなんだよ」
美緒は耳を澄ませた。
声を聴く力が、夜の住人たちの心を拾う。そこから伝わるのは、憎しみでも恐怖でもない。
――家族を想う声、静かな幸福を願う声。
そのひとつひとつが、美緒の胸を震わせた。
「……みんな、ただ暮らしてるだけ。昼の人たちと同じで……優しい」
彼女の声はかすかに揺れていた。
千景は立ち止まり、深い夜空を仰いだ。
「だが、事実として才門はこの世界を縛っている。柊や土生、尊の弟が囚われているのも……同じ夜の中だ」
尊は俯きながら、拳を握る。
「……弟を助けたい。でも……この世界を壊すのは……」
言葉は途切れ、風に溶けた。
やがて街の奥から、一人の住人が近づいてきた。
月光のような衣をまとった女性で、手には光の果実の籠を抱えている。
「旅の方……よろしければ休んでいってください。この街は誰もを拒みません」
柔らかな声に、美緒たちは一瞬返す言葉を失う。
夜の世界――そこは、破壊するにはあまりに美しく、穏やかすぎる場所だった。
本当に悪なのはこの世界なのか。それとも才門という“存在そのもの”なのか。
仲間たちの心には、次第に大きな揺らぎが生まれていった。
夜の街は、昼の世界には存在しない安らぎで満ちていた。
淡く光る街路樹の下で、美緒たちは果実を分けてもらい、しばし座り込む。
光の果実はほんのり甘く、口に含むだけで心がほぐれるようだった。
「……信じられないな」
凛太郎は果実をかじりながら、ぽつりと呟いた。
「こんなに平和で、優しい世界なのに……才門を倒さなきゃいけないなんてよ」
尊も小さく頷き、遠くを見つめる。
「弟が囚われてる世界が、こんなに穏やかなんて……逆に苦しいな」
美緒は目を閉じた。
声を聴く力を使えば、周囲の住人たちの心が響いてくる。
――家族を守りたい。
――ただ静かに暮らしたい。
――けれど、抗えば“才門”が……。
その瞬間、美緒の胸に冷たい波が流れた。
(……やっぱり。みんな優しいけど……心の奥底に“恐れ”がある……)
ふと、背後から足音が近づいた。
振り向くと、昼に出会った狐の姿があった。
月の光をまとったような毛並みが揺れ、金の瞳が鋭く光っている。
「……見つけたな」
千景が立ち上がる。
「柊たちの居場所を」
狐は静かに頷いた。
「黒耀殿の手前、“夢牢”と呼ばれる場所だ。そこに柊、土生、そして尊の弟が囚われている。才門に逆らおうとした者たちが眠りに閉じ込められ、夢を糧にされているのだ」
尊の目が大きく開かれる。
「……夢を、糧に……?」
狐の声は低く、しかしどこか悲しみに滲んでいた。
「夜の世界は美しく、安らぎに満ちている。だが、その輝きの裏で多くの者が眠りにつかされ、二度と目を覚まさぬ……それが才門の支配だ」
凛太郎は拳を強く握りしめた。
「つまり……この街の安らぎも、犠牲の上に成り立ってるってわけか」
美緒は唇を噛んだ。
(……どうして。こんなに優しい世界なのに。どうして、犠牲が必要なの……?)
千景が短く息を吐き、仲間たちを見渡す。
「行こう。“夢牢”へ。俺たちが迷っている間にも、彼らの夢は喰われ続けている」
狐は少しだけ目を伏せ、そして静かに微笑んだ。
「……君たちに賭ける。才門に抗うのは、我らだけではないと証明してくれ」
街路樹の光が揺れ、夜の風が彼らを送り出すように吹き抜けた。
美緒たちは再び歩き出す。
光る石畳の広場を抜けると、夜の住人たちが集う市が広がっていた。
屋台のような棚には、光を宿した果実や、音を奏でる小さな鉱石、虹色に揺れる布などが並び、通りは幻想の色彩に包まれている。
「わぁ……」
美緒は思わず息をのんだ。
そこにいたのは、人間に似ていながらも耳や尾を持つ半獣人たち。
長い兎耳を揺らして笑う少女。
大きな角を誇らしげに撫でる青年。
猫の尾を優雅に揺らしながら歩く老女。
彼らは誰もが穏やかで、目を細め、美緒たちを温かく迎え入れてくれる。
「旅人さんたち、珍しいね。昼の匂いがする」
兎耳の少女が手渡してくれたのは、夜光花の蜜を煮詰めた甘い飴玉だった。
「これを舐めれば、怖い夢に負けなくなるよ」
凛太郎が受け取って笑う。
「サンキュー。……なんか、夜の住人って言っても普通の奴らばっかじゃねえか」
すると、角の青年が真剣な目で答えた。
「普通でいたいんだ。本当は、争いなんて望んでいない」
尊が驚いたように視線を上げる。
「じゃあ……才門の支配だって、受け入れたくはないってことか?」
青年は答えず、ただ苦笑いを浮かべる。
その笑みが逆に、彼の胸の奥にある恐れを物語っていた。
一方、美緒の隣で猫尾の老女が腰を下ろし、彼女の手を包み込むように握った。
「お前さん……優しい声を持っているね。その声ならきっと、この夜を救うことができる」
美緒は息を呑む。
(……私が、救える……?)
老女の声を聴くと、胸の奥に温かさが広がった。
けれど同時に、言葉にできない疑念も芽生える。
(この人たちを、本当に“敵”と呼べるの……?)
千景が仲間たちを集め、短く告げる。
「時間だ。夢牢へ向かう」
広場を後にするその背中に、夜の住人たちが静かに手を振る。
笑みを浮かべ、光る尾や耳を揺らしながら。
その光景はあまりに穏やかで、あまりに美しく――
破壊を望む“敵の世界”には、とても思えなかった。




