第5章 夜を超えるために
ブースの中は外界と隔絶され、ひんやりとした霧が足元を這っていた。仮想の夜の路地が複雑に入り組み、光の粒子が漂っている。
「始めるよ。前衛は颯真、後衛は結衣。尊は障壁を、凛太郎はカバーだ」
千景の指示に、全員が短く応じる。
尊は深く息を吸い込み、手のひらを前に出した。
(壁を張るイメージ)
体の奥で何かが鳴り、目の前に淡い光の板が現れる。
「出た」
凛太郎が低く笑う。「厚み増えてるじゃん。持続時間も長くなってるぞ」
しかし美緒は立ち止まっていた。
耳を澄ませても、何も聞こえない。あの影の声は沈黙を守っている。
「どうして」小さく呟いた。
結衣がちらりと視線を送る。「焦らなくていい。声は気まぐれよ」
だが尊の壁は次々と張られ、颯真の合図に合わせて形を変え始める。
「尊、そこ!角度を変えろ」
「はいっ!」
光の壁が回転し、迫る影の幻影を遮断する。
美緒は唇を噛んだ。
自分だけ、何もできない。
霧の中に何かが揺れる。だが、それは声ではなくただの幻影。
足が少し震えた。
「美緒」千景の声が落ち着いて響く。「まだ訓練ははじまったばかり。今は感じることに集中して」
「……はい」
そう返したものの、胸の中には小さな焦燥が渦巻いていた。
尊は振り返り、少し息を弾ませながら微笑む。
その笑顔が、なぜか余計に胸を締め付けた。
訓練ブースの中は、昼間の街とは似ても似つかぬ光景だった。霧が立ち込め、足元には黒い影が流れるように動く。耳を澄ませば低い脈動のような音が響き、壁も路地も時折形を変える。まさに夜の世界の縮図だった。
「尊、前!」
颯真の声に反応して、尊は即座に手をかざす。淡い光が走り、目の前に半透明の壁が現れた。影の残滓がそこにぶつかり、霧のように散って消える。
「よし、反応が早くなってきたな」
颯真が口元を緩める。
最初は小さく、薄くしか張れなかった壁が、今は二重に重ねることができる。尊は額に汗を浮かべながらも、呼吸を整えた。
「……もっといける気がする」
次の瞬間、影が二方向から迫る。尊は一度深呼吸をし、両手を左右に広げる。空気が震え、二枚の壁が同時に展開した。ひとつは進行方向を阻み、もうひとつは影を押し返すように湾曲する。
千景が目を細める。
「初期段階でここまでやるとは……吸収が早い。壁の保持時間も延びてるな」
一方で、美緒は耳を澄ませていた。だが、聞こえるのは霧のざわめきと訓練用の音だけ。影の“声”も、あの招く囁きもない。
「……何も聞こえない……」
小さく呟いた声を誰も気づかなかった。尊の動きが次々と成功を重ねていくからだ。
次の段階で、颯真が指を鳴らすと揺らぎの路地が崩れ、模擬影が背後から現れる。
「尊、今度は守るだけじゃない。進みながら展開だ」
尊は一瞬だけ迷ったが、すぐに走り出した。影の気配を察知するごとに、彼は足元に小さな壁を作り、跳ね台のように使う。高さを稼ぎ、上から影を押さえ込む壁を展開。降り立った瞬間には背後へもう一枚
「すごっ!」
結衣が思わず声を漏らす。
尊は息を切らしながらも、その瞳には確かな光があった。壁はもう単なる防御ではなく、足場となり、攻撃の起点にもなっていた。
美緒は彼の背を追いながら、胸の奥に小さな焦りを感じていた。
(私も、役に立ちたいのに……)
霧が流れ、夜の世界の気配はより濃くなる。次の影が現れる前に、千景の冷静な声が響いた。
「休憩を挟もう。尊、よくやった。美緒、あなたの番は次よ。焦らなくていい。心を開くことを忘れないように」
休憩が終わり、ブースの霧が再び濃くなる。尊の訓練で流れた熱気がまだ残っている。仲間たちの視線が自然と次の挑戦者、美緒へ向けられた。
「準備はいい?」
千景が柔らかく声をかける。
美緒はうなずいたが、心臓が少し速く打っていた。
大丈夫。聞こえるはず。あの声がまた呼んでくれる。
スタートの合図とともに、足元の影が一斉に広がる。霧の奥から低い音が響く。
耳を澄ます。……でも。
何も聞こえない。
影の気配はある。けれど、それを捉える“音”も“声”も届いてこない。
「美緒、前だ!」
颯真の声に反応し、慌てて後退する。だが影は素早く、霧の中で形を変えた。
違う。こうじゃない。
頭の中で焦りが増幅する。呼吸が浅くなり、耳鳴りのような雑音だけが大きくなる。
「落ち着け、美緒。目を閉じてもいい」
千景の声が静かに響く。
美緒はぎゅっと瞼を閉じた。真っ暗な世界に意識を沈める。
けれど……何も聞こえない。
「くっ」小さく唇を噛む。
霧の向こうで、尊が彼女を見つめていた。心配そうな、それでもどこか申し訳なさそうな眼差し。
「美緒、無理しなくていい。焦らなくていいから」
その声は優しい。だからこそ、胸の奥が少し痛んだ。
――私だけ、取り残されてる。
夜の世界に触れられたはずなのに、何もできない。
影の幻影はやがて千景の合図で消え、ブースは静けさを取り戻した。
「今日はここまでにしよう」
そう言われても、美緒はうつむいたままだった。
訓練の終わったブースを出ると、他のメンバーは軽い冗談を交わしながら休憩所に集まっていた。尊は颯真に褒められ、結衣も「すごかったね、尊くん」と笑顔を向ける。
美緒は一歩後ろを歩きながら、その光景を横目で見ていた。
胸の奥に重たいものが沈む。声をかけようと口を開きかけても、タイミングを失う。尊と結衣が並んで笑った瞬間、言葉は引っ込んだ。
休憩所の隅に座っても、会話の輪には自然と入れない。影の訓練で何もできなかった記憶が蘇り、声をかけられるのが怖いような気がした。
(私、役に立ってない……)
そんな様子を千景は静かに見ていた。周囲の会話の中でも、一人だけ沈んでいる美緒の目線や指先の動きを逃さなかった。
「美緒、少し外に出ようか」
突然かけられた声に、美緒は驚いて顔を上げる。
「え……?」
「今、少し時間があるから。二人だけで練習してみよう」
千景の表情は柔らかく、けれど目は真剣だった。
廊下を抜け、隠れ家の裏手にある狭いスペースへ出る。夜の世界の模擬器具は使えないが、霧の発生装置と簡易センサーがある。
「ここなら誰にも気を遣わなくていいから。きみに合わせる訓練をしよう」
千景は装置を起動し、静かな霧を満たした。声を潜めて言う。
「きみは焦っていた。だから“聞く”よりも、“聞こうとする自分”ばかりを意識していた。今度は逆で。僕の声を追わず、ただ耳を澄ませてごらん」
美緒は深呼吸をし、千景の言葉に身を委ねる。
霧の中で、千景の足音がわずかに響く。
――その時、かすかな揺らぎが耳の奥をくすぐった。
声ではない。けれど何かが“そこにある”という感覚。
「……今、何か……」
「そう、それ。小さいけど掴みかけてる。焦らないで」
千景の声はあくまでも静かだった。まるで夜の世界の入り口を、ひとりの少女のために少しだけ開くように。
千景と美緒の訓練は、その日から少しずつ日課になった。仲間たちが休憩を取っている合間や夜のシミュレーションが終わった後、二人は静かな裏手のスペースへ向かう。
「今日は“音”じゃなく、“気配”を拾ってみましょう」
千景の声は落ち着いているが、その瞳は鋭い。
霧の中で、千景は足音を立てずに移動する。
「どこにいると思う?」
美緒は耳を澄ませる。霧の奥で何かがかすかに動いたような気がした。右……? そう思って手を伸ばすが、そこには何もない。
「逆だ。落ち着いて。考えすぎだ」
何度も繰り返すが、答えは外れるばかりだった。
影の音、空気の揺らぎ、千景が発するわずかな呼吸……すべてが混ざって、正解を見つけられない。
訓練を終えるたびに、美緒の表情は曇っていく。
「どうして……尊みたいにできないんだろう」
つい口からこぼれたその言葉に、千景は微笑みを浮かべた。
「比べる必要はない。人にはそれぞれの感覚の扉がある。開き方もタイミングも違う。……でも、美緒。焦りすぎると、鍵穴は見えなくなってしまう」
そう言われても、美緒の胸の中にはもどかしさが残った。
尊がどんどん成長しているのを知っている。仲間たちもその力を評価している。
――それなのに、自分だけが立ち止まっている。
その夜、千景は美緒を帰らせたあと、しばらく霧の中に一人立ち尽くした。
「やっぱり……彼女の中には何かが眠っている。でも、目覚めるには“何か”が足りない」
小さくつぶやく声が霧に溶けて消えた。
数日後、隠れ家の訓練室で、尊や仲間たちはそれぞれの課題をこなしていたが、美緒は黙って千景と向かい合っていた。
「今日は……少し違うことをしよう」
千景の声はいつもより低く落ち着いている。
「違うこと?」
「きみの感覚の“底”を確かめようと思う。普通の訓練ではもう限界が見えない。だから、少し負荷をかけてみることにする」
その言葉に美緒の背筋が伸びる。
「……危ないことをするの?」
「危なくはしない。でも、これまでの“安全な枠”は外す。夜の世界の疑似環境を最大限に再現して、あなたをそこに放り込む。制限時間内に、私を探し出すんだ」
千景の目は真剣だった。
「尊も驚くスピードで伸びている。けれど美緒、きみの中には別の扉がある。開けない限り、いつまでも自分を比べ続けるだけになってしまう」
美緒は唇をかみしめ、しばらく黙ってから小さくうなずいた。
「……やらせて。逃げてばかりじゃいやだから」
千景は微笑んだ。
「いい返事だ。じゃあ準備して。これは“限界を知るための訓練”じゃない。限界を“越えるための訓練”だ」
隠れ家の照明が落とされ、霧が満ちていく。
仲間たちは息をのむ。静寂の中、美緒は一人で霧の奥に足を踏み入れた――。
訓練室の照明が落とされる前、千景が特別訓練の内容を告げたとき、場の空気が少し張りつめた。
「……千景、本当にやるのか?」
隅にいた年長の仲間・篠原が眉をひそめる。
「美緒はまだ基本も固めていない。負荷をかけすぎれば、逆に感覚を潰す危険もある」
「だからこそやるんだ」
千景は短く返す。
「彼女には、形にならない“何か”がある。でも表面の迷いが邪魔をしてる。安全圏にいては開かない扉なんだ」
尊はその言葉を聞きながら、美緒を横目で見た。
彼女は口を結び、少し緊張した表情をしていたが、目だけは揺れていない。
美緒は、決めてるんだ。
尊はそう感じた。
「俺もついて行くよ」
尊が声を上げると、千景は首を横に振った。
「だめだ。これは彼女の“ひとり”の訓練。きみがそばにいれば、無意識に頼ってしまう」
「でも……」
言いかけた尊の肩に、凛太郎が手を置く。
「お前も気になるだろうが、ここは見守るしかない。誰だって最初はひとりで壁に当たるんだ」
美緒は一歩前に出て、軽く頭を下げた。
「大丈夫。やらせてほしい。……このままじゃ、ずっと尊の影に隠れてしまうから」
その言葉に、一瞬空気が止まった。
尊は胸の奥がざわつくのを感じたが、顔には出さなかった。
「……わかった。無理するなよ。戻ってくるのを待ってるから」
千景が短く手を打ち、訓練の準備を始める。
霧の発生装置が静かに唸りを上げ、白い靄が床を這い始めた。
仲間たちは黙って見守る。その視線の中で、美緒はひとり前へ進んだ。
霧が訓練室を満たし、美緒の姿が完全に見えなくなると、仲間たちは制御盤の前に集まった。
室内の様子は、微弱な熱反応と音波の揺らぎだけが映るモニターで確認できる。
「……やっぱり心配だな」
颯真が腕を組んだままつぶやく。
「尊のときも最初は慎重だったのに、今回は急だ。千景、何を考えてる?」
千景はモニターを見つめたまま答えた。
「美緒は感覚がばらけてる。頭と心が別々の方向を向いてるんだ。普通の訓練じゃ、そのズレは修正できない」
「ズレを直すためにいきなり高負荷……か」
凛太郎が苦笑する。
「さすが千景さん、容赦ないな」
尊は黙って二人のやり取りを聞いていた。
モニターの中、美緒の白い影が霧の中を迷うように動いている。
そのたびに胸がざわつく。声をかけたくなる。
でも、千景の言葉が頭をよぎる。――“ひとりで越えるための訓練”。
「……俺が甘やかしてたのかもな」
尊のぽつりとした一言に、カイが目を向ける。
「甘やかすってほどでもないだろ。お前はお前で全力でやってただけだ」
「でも、あいつは俺を気にしてる。比べてる。だから余計に焦るんだ」
千景は少しだけ横目を向けて、淡く笑った。
「その焦りも、彼女の一部よ。尊、あなたはただ見ていて。今日の彼女は、“誰かの隣に立つため”じゃなく、“自分の足で立つため”に戦ってる」
モニターの中、美緒が立ち止まり、何かを感じ取ったように首を上げた。
その動きに、全員が息をのむ。
霧の中で動く微かな人影をモニター越しに見つめ、全員が息を潜めていた。美緒は手探りで進み、何かに耳を澄ませるように立ち止まる。その姿は、これまでの訓練で見せていた迷いとは少し違っていた。
「……聞こえてる?」
颯真が声を低くした。
「ただ動いてるだけじゃない。何かを感じ取ってるみたいだ」
颯真は目を細め、解析用の画面を切り替える。
「脳波パターンが変わってきてる。外部の刺激に反応するんじゃなくて、自分から探りにいってる……でもまだ安定してない」
尊は椅子の背に身を預けながら画面をにらんでいた。
「でも、進んでる。……前より、足が止まってない」
声は抑えていたが、その指先はかすかに震えていた。
千景はモニターに映る美緒の姿を見ながら、腕を組む。
「このまま感覚を引き延ばせれば、突破口が見える。でも、ここからが本番」
「何が来るんだ?」
凛太郎が視線を移すと、千景はわずかに笑みを浮かべた。
「“呼び声”が来る。彼女の中で最も触れたくない記憶を突く。乗り越えられれば――きっと変わる」
尊は無意識に拳を握り締めた。




