第3章 新たな仲間との出会い
楓は霧の奥をひたすら駆けていた。
「……お兄ちゃん……」
呼ぶ声は小さく震え、返事はどこからも返らない。冷たい霧が頬をかすめ、指先にまでじんわりと湿り気が染み込んでくる。
「お願い……どこにいるの……」
胸の奥が焦りで締め付けられる。幼いころ、夜の暗がりで迷った時に兄の手を探して泣いた記憶が、鮮やかによみがえる。あの温かい掌、優しく笑う声。
その時――。
霧の中、ふっと影が揺れた。
「……お兄ちゃん?」
楓は駆け寄ろうとした。しかし近づくほどに、その影は兄の背中に似ているのに、どこか不自然だった。輪郭が揺らぎ、肩が長く、腕が闇に溶けていく。
「お兄ちゃん……? 待って……!」
必死に声をかけると、その影はゆっくりと振り返った。けれどそこにあったのは兄の顔ではなく、深い闇の穴のような空洞だった。
「……ひっ……!」
息が詰まる。背筋が冷たくなる。
次の瞬間、霧が渦を巻き、黒い腕のようなものが地面から生え出した。それは生き物のように蠢き、楓の足首に絡みつく。
「いやっ、離してっ!」
必死に振り払おうとするが、ぬめるような冷たさが肌を締め付ける。動けば動くほど、腕は増え、腰、肩、指先へと這い上がってきた。
耳元でかすれた声がした。
「……楓……こっちに……」
兄の声だ。確かに兄の声。だがそれは優しさを帯びているのに、底知れぬ深さを秘めていた。
「お兄ちゃん!? どこなの!?」
必死に声を張り上げる。
「……連れていく……一緒に……」
その声と同時に、闇が楓を包んだ。視界がぐにゃりと歪み、足場が消える。落ちていく。冷たく重い闇の底へ。
楓は叫んだ。
「助けて! ……美緒……尊……!」
声は霧に呑まれ、闇の中に吸い込まれていった。
霧はまだ濃く、冷たい空気が肌を刺すようだった。
尊は足を止め、深く息を吐く。
「……ダメだ。このままじゃ楓を追いかけても、飲まれるだけだ」
美緒も肩で息をしながら頷く。
「私も……感じた。あの霧、普通じゃない。才門が作ったのかもしれない。楓を“鍵”にするって……」
声が震える。焦りと恐怖、そして無力感が入り混じっていた。
狐の尾の光が弱く揺れた。
『霧は夜の記憶を映す鏡だ。無防備な者ほど、心を飲まれる。……楓を助けたいなら、力をつけるしかない。』
尊が眉をひそめる。
「力って……俺たちに何ができる? こんな世界、俺たちには何も……」
狐は二人をまっすぐ見た。
『おまえたちは人間だ。夜の世界では異物であり、だからこそ“境”に触れられる。夜に抗える力は、昼の世界から持ち込まれるものだけだ。……だが今のままでは足りん。仲間を増やせ。昼にも夜にも通じる者を。』
美緒ははっと顔を上げた。
「仲間……誰か、夜を知る人がいるっていうの?」
『いる。昼の影を背負った者、境を渡った者……。だが夜の中では探せない。昼に戻らねばならぬ。』
尊は一瞬迷ったが、拳を握りしめる。
「楓を助けるために……一度引く。でも、必ず戻る」
狐は尾を高く掲げ、光を強める。その光が霧を割り、一本の道を浮かび上がらせた。
『この道を行けば、境へ出られる。ただし――戻る時は以前より危険になる。夜は侵入者を覚える。次は、より深く試されるぞ。』
美緒と尊は視線を交わし、うなずき合った。
「それでも、行かなきゃ。」
狐の尾が地面を払うと、霧がざわめき、空気が震えた。白い闇の奥に、青白い光の門が浮かび上がる。
『昼に戻れ。仲間を探せ。楓を救うには――“境の外”の知恵がいる。』
その言葉を背に、二人は駆け出した。光の門をくぐった瞬間、霧も冷たさも消え、まぶしい光が視界を満たした。
次に目を開けた時、二人は昼の世界に戻っていた。夜の残滓のように、指先に冷たさが残っている。
尊はすぐに言った。
「……誰を探す? 夜を知る仲間なんて……」
昼の光は確かに明るいはずなのに、二人の目には妙に冷たく感じられた。
昼の世界に戻った瞬間、尊と美緒は胸の奥にざわつく違和感を覚える。人々はいつも通り行き交っているのに、その視線の奥には何かを隠しているような気配があった。
「……なんか、みんな普通なのに……こっちを見てる気がしない?」
美緒が低くささやく。
尊は周囲を観察しながら口を引き結ぶ。
「感じる。……あの夜の冷たさを知ったせいかな。でも、何か……違う」
その時だった。
「君たち、大丈夫か?」
穏やかな声が二人にかけられる。振り返ると、スーツ姿の男女が立っていた。胸元には小さなバッジ。どこか官庁のような雰囲気だが、笑顔は柔らかく、親しみを演出している。
「少し話を聞かせてほしいのだけど。最近、不思議な体験をしたり、変わった夢を見たりしていない?」
女の方がにこやかに尋ねる。
美緒と尊は瞬時に警戒心を抱く。狐の言葉がよぎる――“夜の記憶を持つ者は異物だ”。
尊は平静を装って答えた。
「いいえ、特には……」
だが、相手は食い下がる。
「そう? 君たちの瞳には、少し“夜”の気配がある気がするんだけどな。……ねえ、知っている? 夜の世界を覗いた人は、時に危険に晒される。――放っておくと、心を壊すこともあるのよ。だから、私たちが保護してあげる」
その笑顔は優しいが、どこか獲物を逃さない捕食者のような冷たさを隠していた。
美緒の背筋に寒気が走る。
「保護……?」
「そう。安全な場所で、夜の記憶を取り除くの。痛くないし怖くないわよ」
尊は唇をかみしめる。
――これは隔離だ。夜を知る者を消すためのもの。
二人はさりげなく視線を交わす。
「……ごめんなさい、よくわからないです。もう急いでるので」
そう言って立ち去ろうとした瞬間、背後から声がかかった。
「待って。……逃げると、君たちを守れなくなる」
空気が変わった。人々の視線が集まる街の雑踏が急に無音になったような感覚。
その時、後方の路地から低い声が響いた。
「こっちだ」
振り返ると、一人の影が手招きをしている。フードを深くかぶったその人物は、昼の光を嫌うかのように身を潜めていた。
「早くしろ。あいつらは“管理者”だ。あいつらに捕まったら終わりだ」
尊と美緒はためらう暇もなく、その影の方へ駆け出した。背後でスーツの男女の声が冷たく響く。
「……やはり夜を見た者か。追え」
路地の奥へ走り抜ける。胸の鼓動が速まる。フードの人物は軽やかに前を走りながら言った。
「昼の世界は表面上穏やかに見えても、夜を知る者は危険視される。君たち、無茶をしたな。夜に足を踏み入れたんだろ」
美緒は息を切らしながら問う。
「あなた……もしかして、夜を知ってるの?」
その人物はちらりと振り返り、鋭い瞳を見せた。
「ああ。俺は“昼に隠れた夜の残党”だ。……まず逃げ切れ。話はそれからだ」
路地に飛び込んだ瞬間、昼の世界の喧騒が背後で途切れた。
アスファルトが湿り気を帯び、排気の匂いと鉄の匂いが混ざる。狭い通路の両脇には古いビルの壁、足元には水たまりが点在している。
「こっちだ、急げ!」
フードの人物が先頭を走り、素早く角を曲がる。
美緒と尊は息を切らしながら必死に後を追う。靴音が水面を叩くたび、冷たい飛沫が足元に散った。
背後から鋭い声が響く。
「発見! 逃走を確認!」
振り返ると、スーツ姿の男女――管理者たちが、想像以上の速さで迫っていた。笑顔は消え、冷ややかな無表情。だが瞳は獲物を狩る猛禽のように光っている。
「くそ、速い……!」
尊は思わず声を漏らす。
「振り返るな! 走れ!」
フードの人物が叫ぶ。
路地は次第に狭くなり、鉄の階段や配管が入り組んで迷路のようになっていた。左手の壁に古びた看板があり、風で揺れて軋む。フードの人物はそれを軽く押しやり、狭い抜け道を迷わず選ぶ。
「ここを抜ければ振り切れる!」
だが、その瞬間。
背後で乾いた音が響いた。
パシッ――と何かが空気を裂き、足元のコンクリートを弾けさせる。破片が頬をかすめ、熱さと冷たさが同時に走った。
「……撃った!?」
美緒が振り返ると、管理者の一人が手に奇妙な器具を持っていた。銃のようだが、光の筋が淡く揺れている。
「実弾じゃない。だが当たれば……気を失うぞ!」
フードの人物が声を荒げる。
尊の背筋に冷たい汗が流れる。昼の世界の管理者――彼らは夜の存在を知る者を“保護”という名で狩っている。
角を曲がった先で、路地は二手に分かれていた。右は開けた駐車場、左はさらに細く暗い通路。
「右に行けば囲まれる、左だ!」
フードが叫ぶ。
三人は左に飛び込む。通路はさらに暗く、足元には段差やゴミが散乱していた。背後では管理者の足音が追いすがる。
「無駄だ、君たちは夜を見た――我々の管理下に入るべきだ!」
冷たい声が響く。その声は優しさを装いながらも、確固とした命令の響きを持っていた。
尊が振り返ると、スーツの男女の顔に笑みが戻っていた。
「怖がらなくていい。すぐに楽になれる……」
その言葉に美緒の心がぞっと震えた。
「――誰が信じるもんですか!」
前方でフードの人物が足を止め、手をかざした。指先からきらりと光が漏れる。次の瞬間、古びた鉄の扉が音を立てて開いた。
「中へ! 急げ!」
三人は扉をくぐり、暗い階段を駆け下りる。後ろで扉が閉まる音。すぐに叩きつけるような足音が近づいたが、分厚い鉄がそれを遮った。
狭い地下の通路に出ると、息を切らしたフードの人物が振り返った。
「……間一髪だったな。あいつらは“夜を知る者”を集めて封じようとしている。君たち、相当面倒な相手を敵に回したぞ」
尊と美緒は肩で息をしながら、互いに頷き合う。恐怖と同時に、確かな決意が胸に宿った。
「……もう後戻りはできない。楓を救うには、この連中とも戦わなきゃいけない」
「そして……夜を知る仲間を見つける」
フードの人物の瞳がわずかに笑った。
「その覚悟、気に入った。……俺の名前は千景。昼に潜む夜の残党だ。君たちに協力してやる」
鉄の扉が閉まる鈍い音が路地に響き、後を追っていた管理者たちは足を止めた。
スーツ姿の男は肩で息をしながらも、表情を崩さない。女は端末を取り出し、素早く何かを入力した。
「……逃げられたわね。まさか“残党”がいるとは」
女は端末を閉じ、冷ややかに言った。
男はわずかに目を細める。
「千景か。厄介だ。あれは我々が排除できなかった“例外”だ。夜を経験しながらも、昼に適応して生き延びている。……つまり、夜の情報を昼に持ち込む危険因子だ。」
女は唇を引き結ぶ。
「夜の知識は感染する。見た者、聞いた者、触れた者――すべてが“境”を揺るがす。夜を知る者は、いずれ光の世界を壊す芽になる。……だから、我々が隔離しなければならない」
その言葉には一片のためらいもない。
「保護」という言葉の裏に隠された本質――それは徹底した管理と排除。
男はスーツの内ポケットから小型の装置を取り出した。レンズのようなものが中心にあり、淡い光が回転している。
「追跡は続ける。境を渡った者の“残滓”は昼の世界にも残る。……この装置は夜の残光を嗅ぎ取る。逃げられても無駄だ。」
女はうなずき、ふと口元を緩めた。
「それにしても……あの二人、ただの迷い子ではないわ。夜を抜けて戻った者はほとんどいない。」
「夜に触れた者は境界を侵す。境界が崩れれば……昼も夜も終わる。だから、我々が先に動かねばならない。」
女は視線を遠くに投げる。街は昼の光で満ちているが、その奥底には確かに影が潜んでいる。
「才門……夜の番人まで動き始めたようね。境が揺れている証拠ね。……これは、偶然じゃない」
男は端末を操作しながら淡々と告げた。
「次の段階に移行する。夜を経験した者はすべて回収対象だ。……たとえ子どもであっても」
その声音に、わずかな感情が滲むことはなかった。
二人は無言で歩き出す。背後には何事もないかのような昼の喧騒が広がっていた。だが、その表面の穏やかさの下で、夜を恐れ、夜を知る者を狩る者たちが確かに動き出していた。
昼の街の地下深く、一般の人間には存在を知られない施設がある。
そこは無機質な白い壁で囲まれ、天井には光源が均等に並び、影という影を消し去っていた。
管理者の男女は静かにゲートを通り抜け、廊下の奥へ進む。指紋と虹彩認証が重なる扉を抜けると、そこには広大な作戦室が広がっていた。壁一面のスクリーンには昼の都市の地図が映し出され、点滅する赤い光点がいくつも浮かんでいる。
「対象はこの区域で逃走。千景の関与を確認。」
女が端末を操作すると、一つの光点が強調され、追跡データが表示される。
その時、部屋の奥から低い声が響いた。
「報告を聞いた。……やはり“夜の影”が再び動き始めたか。」
二人は即座に姿勢を正した。そこに現れたのは、長身の男だった。白いコートを纏い、銀縁の眼鏡の奥の瞳は冷ややかだが、どこか疲労の影も覗かせている。
「長官……」
男女が口を揃える。
長官は歩きながらスクリーンを見やる。
「才門……夜の番人が境を越えようとしている。そして“鍵”を探している。それは夜だけの問題ではない。昼も巻き込まれれば、境界は壊れる。……この都市も崩壊する。」
女が問いかける。
「長官、対象者の処遇は? 夜を知る者、美緒と尊、そして千景……。」
長官は静かに答えた。
「すべて確保しろ。夜の影を持つ者は境界を乱す毒だ。保護という名の隔離だが、必要なら……消去も辞さない。」
尊や美緒の名前が無機質に告げられ、その場の空気がさらに冷え込む。
「昼の世界を守るためには、夜を完全に封じるしかない。境界の存在は表に出せない。人々が知らぬままに昼を享受できるのは、我々が影を背負っているからだ。」
男の管理者がためらいがちに言った。
「しかし、彼らはまだ子どもです。……必要以上の処置は……」
長官の視線が鋭くなる。
「情けは不要だ。夜は甘く囁き、心を侵す。子どもであろうと境を揺るがすなら、それは敵だ。」
言葉の重さに室内が静まり返った。
長官は端末に手を置き、別のスクリーンを呼び出す。そこには「境界安定維持局」と記されたロゴと、複雑なネットワーク図が表示された。
「我々の存在は知られてはならない。昼と夜の均衡を守る唯一の盾だ。……君たちは理解しているはずだ。」
管理者たちは深く頭を下げた。
「了解しました。対象の特定と確保を急ぎます。」
長官は背を向けながら、淡々と最後の言葉を落とした。
「境が崩れる前に全て回収しろ。……昼を守るために、影を切り捨てよ。」
狭い路地を抜け、千景は息を切らす二人を振り返った。尊も美緒も疲労の色を隠せず、額には汗がにじんでいる。昼の世界の光は安堵をもたらすはずなのに、その背後には常に管理者の影がつきまとう。
「ここだ」
千景が立ち止まったのは、ただの古びたビルの裏口だった。シャッターは錆びつき、落書きが無数に描かれているが、その目は鋭く周囲を探っていた。
千景はポケットから金属片のようなものを取り出し、シャッターの隙間に滑り込ませる。小さな音と共に、鍵のようなものが解け、重いシャッターが静かに持ち上がる。
「急いで」
三人は薄暗い通路を進む。足音がコンクリートに響く。階段を降りるたび、昼の喧騒は遠のき、代わりに冷たい空気が漂い始めた。
やがて辿り着いたのは、広い地下空間だった。無数の古い配管やケーブルが天井を這い、壁には簡易的な機材やスクリーンが設置されている。そこには十人ほどの人影がいた。老若男女が入り混じり、皆どこかで見たことのない鋭い目をしている。
その中の一人、灰色の作業着を着た中年の男が千景に歩み寄った。
「戻ったか。……後ろの二人は?」
「夜を抜けて戻ってきた。管理者に狙われている」
千景の言葉に、周囲の視線が一斉に二人に集まる。尊は無意識に美緒をかばい、美緒は怯えながらも視線を逸らさなかった。
「……夜を抜けた? 今の時代に?」
誰かが低くつぶやく。
千景はうなずき、少しだけ声を落とした。
「しかも、才門の影が動いてる。境が揺れてる証拠だ。昼も安全じゃない。」
中年の男は深く息を吐いた。
「境界安定維持局が動いてるという噂は本当か……。」
「本当だ。……二人は見られた。保護対象じゃなく“排除対象”になる前に力をつける必要がある。」
沈黙が落ちる。だがその中で、一人の若い女性が前に出た。小柄だが瞳は強く、背には携帯端末とケーブルが下がっている。
「名前は?」
「尊、美緒」
千景が答えると、女性はわずかに微笑んだ。
「ようこそ。ここは“境の外”を知る者の拠点。……簡単に言えば、昼と夜の狭間を生き抜いてきた者たちのネットワークよ。私たちの存在を知った時点で、もう元には戻れない。」
尊も美緒も息を飲む。
「でも心配しないで。ここは安全。少なくとも、あのスーツ連中よりはね。」
女性は軽く端末を操作し、壁のスクリーンに都市の地図を映し出した。赤い点が複数、そして青い点が少数光っている。
「赤は管理者、青は私たち。都市は思っているよりも複雑よ。あなたたちの力があれば、道が開ける。」
千景は二人の肩に手を置く。
「ここでしばらく息を整えて。……だけど、忘れないで。彼らは必ず追ってくる。」
隠れ家の空気は外の世界とまるで違っていた。コンクリート打ちっぱなしの壁に古い配管が走り、天井からは裸電球がぶら下がっている。どこか退廃的なのに、不思議と落ち着く匂いが漂っていた。
尊と美緒は、長机の前に座らされ、蒸気の立つマグを手渡された。中身は甘いハーブティーのような香りがする。
「ほら、飲んで。緊張を和らげる作用がある。変なものじゃないわ」
先ほどの小柄な女性が微笑む。
部屋の奥では、十数人の仲間たちがそれぞれの作業に没頭していた。スクリーンで地図を眺める者、何かの装置を組み立てる者、資料をめくる老人。誰もが昼の世界では普通の人間には見えないだろうが、その目には覚悟と疲労が滲んでいた。
「ここにいる全員が、夜を知った者……なの?」
恐る恐る美緒が口を開く。
「ええ」女性はうなずいた。
「ほとんどがかつて夜に迷い込み、戻ってきた者。中にはそこで何かを失った者もいる。」
「失った……?」尊が反応する。
その時、奥の机から老人が顔を上げた。深い皺が刻まれた顔は穏やかだが、瞳は鋭い光を帯びている。
「夜は贈り物のようであり、罠のようでもある。人はそこで忘れるか、奪われる。だが、帰ってくる者には“何か”が残る。それが境界を揺るがす力となるのじゃ。」
美緒はハッとした。
「じゃあ……私たちにも……?」
老人は頷き、尊と美緒をじっと見つめる。
「君たちの目は、もう昼の光だけでは満たされぬ。夜を知った者は、心に影を持つ。それは弱さではない。時に境を渡る鍵となる。」
「鍵……?」尊は眉をひそめる。
すると千景が口を挟んだ。
「夜と昼の世界は分かれているようで、完全じゃない。昔はもっと行き来できたらしいが、今は境界が厳しく管理されている。……あのスーツ連中、境界安定維持局がな。」
若い男性がパソコンの画面を叩きながら続ける。
「やつらは表向きは存在しない組織だ。でもな、夜の世界を“異物”として扱ってる。だから夜を知った人間も、消される。」
美緒の顔が青ざめる。尊は拳を握った。
「じゃあ……どうすれば?」
女性は穏やかに笑った。
「簡単。力をつけること。夜をただ恐れるんじゃなく、理解し、使う。夜には昼では得られない“感覚”や“技”がある。あなたたちにはそれを学ぶ素質がある。」
尊は思わず美緒を見た。美緒も同じように彼を見返す。その瞳には恐怖だけでなく、確かな光が宿っていた。
千景が椅子から立ち上がった。
「今夜から訓練を始めるよ。夜の世界は敵だけじゃない。……君たちがその影を使いこなせば、追う側を出し抜ける。」
老人は静かに微笑み、最後に付け加えた。
「忘れるな。夜は試す。選ぶのはお前たちだ。」
夜の闇を模した地下室は、静寂に包まれていた。照明は落とされ、足元だけをぼんやり照らす薄い青光が床に線を描く。そこに尊と美緒、千景、そして数人の仲間たちが立っていた。
「ここは夜の世界を再現した訓練場。正確に言えば“断片”を呼び出す装置よ」
若い女性が壁際の端末を操作すると、空間が揺らぎ始めた。壁が消えたように感じ、地下室のはずが深い森の中に立っている錯覚が広がる。空気がひやりと冷たく、どこか湿り気を帯びていた。
「まずは感じること。夜は目に見えるものだけじゃない。音、匂い、気配……全部が信号になる。」
千景が尊と美緒を交互に見つめた。
「お前たち、それぞれに夜が触れた痕があるはずだ。尊は守る意志、美緒は感じる力。それを試す。」
低い合図音と共に、訓練が始まった。
最初に現れたのは影の獣だった。獣の形をしているが輪郭は曖昧で、視界の端で揺らぐ度に大きさが変わるように見える。仲間の一人が声をかける。
「動くな。ただ、観察しろ。」
美緒は息を飲み、目を凝らした。恐怖を押し殺し、影の流れを追う。その時、胸の奥で何かが共鳴する感覚があった。耳の奥で響く微かなざわめき。
「……あそこ、来る!」
彼女の声に合わせて獣が飛びかかった瞬間、尊が反射的に動いた。
尊の体は思ったよりも軽く動き、獣の進路を塞ぐように腕を突き出した。その瞬間、影がぶつかる音はなく、むしろ霧散するように消えていった。仲間たちがざわめく。
「やっぱり……」千景が口元を緩めた。
「尊、お前は夜を跳ね返す“壁”を作る。無意識の防御だ。美緒、お前は感じ取る“耳”だ。方向と意図を掴む力がある。」
次に現れたのは、夜特有の囁き声だった。意味の分からない言葉の連なりが耳元をくすぐる。美緒はそれを聞き分けるように目を閉じる。言葉の中に、一瞬だけ、知っている音があった。
「……誰かの名前を……呼んでる?」
仲間の一人が目を見開く。
「普通は聞き流すはずだ。拾えるとは……。」
尊は眉をひそめた。
「美緒、無理するな。危険じゃないのか?」
「危険だけど、力でもある。夜は声を届ける。人や場所を探すのにも使えるかもしれない。」千景の言葉は真剣だった。
最後に、二人を試す課題が課せられた。森の中を進み、散らばる“光の欠片”を集める。欠片は夜のエネルギーを可視化したものらしい。
美緒が感覚を研ぎ澄ますと、欠片がある方向がふっと分かる。尊はそれを守りながら進む。道を遮る影を彼が弾き飛ばすたび、光はより鮮明になった。
やがて二人はすべての欠片を集め、端末の前に戻る。
女性が静かに言った。
「初めてでここまでできるなんて……二人はやっぱり特別ね。夜の世界に選ばれた理由がある。」
千景は腕を組み、少し笑う。
「これなら管理者相手にも時間を稼げるかもしれないな。」
尊と美緒は視線を交わした。恐怖はまだある。だが、それ以上に確かな手応えが心に残っていた。
青白い光の森を進む尊と美緒。その空気はどこか不気味な静けさを帯びていたが、仲間の指示に従い光の欠片を探す作業は順調だった。
だが、その時――空気が変わった。
突然、視界の端に黒い縦の裂け目が浮かび上がり、そこから暗い靄が漏れ出した。まるで空間そのものが破れたかのようだった。
「……何だ?」尊が眉をひそめる。
端末を操作していた女性が驚きの声を上げる。
「訓練システムに異常……? 制御がきかない……これは、外からの侵入!?」
靄が渦を巻き、森の中に広がった。次の瞬間、影がうねるように形を取り始める。訓練用の幻影とは違い、その動きは滑らかで、生々しい。
「下がれ!」千景が叫んだ。
影の中から現れたのは、四足の獣のようなシルエット。しかし輪郭は常に崩れ、何層もの闇が重なり合っている。目の部分だけが白く光り、息をするたび冷気が走った。
仲間の一人が小声で呟く。
「……夜の実体だ。境界を超えた……あり得ない。」
訓練生たちがざわめく間もなく、影獣は地面を裂き、美緒の方へ突進してきた。
「美緒!」
尊は反射的に前に出て腕を広げた。体の奥底から熱い衝動が走り、影がぶつかる瞬間、透明な膜のような壁が張り巡らされた。轟音と共に衝突し、衝撃波が走る。しかし壁は完全ではなかった。影の一部が壁をすり抜け、美緒の足元をかすめる。
その瞬間、美緒は鋭い耳鳴りを感じた。影の中から声がする。
――探してる……境を……壊す……鍵……
誰かの囁きが頭の奥で響いた。
「……今、声が……!」美緒が目を見開いた。
「美緒、聞こえるのか? 何を言ってる!」尊の声も緊張で震える。
千景が冷静に指示を飛ばす。
「全員退避! ここはもう安全じゃない! 尊、美緒、お前たちは後ろだ!」
仲間たちが出口へ走る中、影獣は執拗に二人を追った。まるで狙いが彼らだけに絞られているかのようだ。
最後の関門、隔壁の前で千景が短剣を構える。
「ここで足止めする! 尊、お前の壁を最大限に使え!」
尊は深く息を吸い、壁を張る意識を集中させた。光が走り、影を一瞬だけ押し返す。その隙に美緒は再び声を拾う。
――鍵を……持つ者……境を超える……昼も夜も……
美緒の顔は青ざめていたが、その瞳は決意を帯びていた。
「……あれ、私たちを探してる……」
隔壁が閉じると同時に影は爆ぜ、空間の裂け目も閉じた。室内は静けさを取り戻したが、全員の心拍はまだ速かった。
端末の女性が蒼ざめた顔で言う。
「……境界、外から侵入されるなんて……管理者も気づくかもしれない。」
千景は唇を噛んだ。
「これはただの訓練じゃなかった……誰かが、いや“何か”が動いてる。」
尊と美緒は互いの手を握りしめた。恐怖の中で、確かな確信が芽生え始めていた。
――自分たちはただの巻き込まれた者ではない。夜の世界において、何かを背負わされた存在なのかもしれない。