表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

第3章 新たな仲間との出会い

楓は霧の奥をひたすら駆けていた。

「……お兄ちゃん……」

呼ぶ声は小さく震え、返事はどこからも返らない。冷たい霧が頬をかすめ、指先にまでじんわりと湿り気が染み込んでくる。


「お願い……どこにいるの……」

胸の奥が焦りで締め付けられる。幼いころ、夜の暗がりで迷った時に兄の手を探して泣いた記憶が、鮮やかによみがえる。あの温かい掌、優しく笑う声。


その時――。

霧の中、ふっと影が揺れた。


「……お兄ちゃん?」

楓は駆け寄ろうとした。しかし近づくほどに、その影は兄の背中に似ているのに、どこか不自然だった。輪郭が揺らぎ、肩が長く、腕が闇に溶けていく。


「お兄ちゃん……? 待って……!」

必死に声をかけると、その影はゆっくりと振り返った。けれどそこにあったのは兄の顔ではなく、深い闇の穴のような空洞だった。


「……ひっ……!」

息が詰まる。背筋が冷たくなる。


次の瞬間、霧が渦を巻き、黒い腕のようなものが地面から生え出した。それは生き物のように蠢き、楓の足首に絡みつく。


「いやっ、離してっ!」

必死に振り払おうとするが、ぬめるような冷たさが肌を締め付ける。動けば動くほど、腕は増え、腰、肩、指先へと這い上がってきた。


耳元でかすれた声がした。

「……楓……こっちに……」


兄の声だ。確かに兄の声。だがそれは優しさを帯びているのに、底知れぬ深さを秘めていた。


「お兄ちゃん!? どこなの!?」

必死に声を張り上げる。


「……連れていく……一緒に……」


その声と同時に、闇が楓を包んだ。視界がぐにゃりと歪み、足場が消える。落ちていく。冷たく重い闇の底へ。


楓は叫んだ。

「助けて! ……美緒……尊……!」


声は霧に呑まれ、闇の中に吸い込まれていった。



霧はまだ濃く、冷たい空気が肌を刺すようだった。

尊は足を止め、深く息を吐く。

「……ダメだ。このままじゃ楓を追いかけても、飲まれるだけだ」


美緒も肩で息をしながら頷く。

「私も……感じた。あの霧、普通じゃない。才門が作ったのかもしれない。楓を“鍵”にするって……」

声が震える。焦りと恐怖、そして無力感が入り混じっていた。


狐の尾の光が弱く揺れた。

『霧は夜の記憶を映す鏡だ。無防備な者ほど、心を飲まれる。……楓を助けたいなら、力をつけるしかない。』


尊が眉をひそめる。

「力って……俺たちに何ができる? こんな世界、俺たちには何も……」


狐は二人をまっすぐ見た。

『おまえたちは人間だ。夜の世界では異物であり、だからこそ“境”に触れられる。夜に抗える力は、昼の世界から持ち込まれるものだけだ。……だが今のままでは足りん。仲間を増やせ。昼にも夜にも通じる者を。』


美緒ははっと顔を上げた。

「仲間……誰か、夜を知る人がいるっていうの?」


『いる。昼の影を背負った者、境を渡った者……。だが夜の中では探せない。昼に戻らねばならぬ。』


尊は一瞬迷ったが、拳を握りしめる。

「楓を助けるために……一度引く。でも、必ず戻る」


狐は尾を高く掲げ、光を強める。その光が霧を割り、一本の道を浮かび上がらせた。

『この道を行けば、境へ出られる。ただし――戻る時は以前より危険になる。夜は侵入者を覚える。次は、より深く試されるぞ。』


美緒と尊は視線を交わし、うなずき合った。

「それでも、行かなきゃ。」


狐の尾が地面を払うと、霧がざわめき、空気が震えた。白い闇の奥に、青白い光の門が浮かび上がる。


『昼に戻れ。仲間を探せ。楓を救うには――“境の外”の知恵がいる。』


その言葉を背に、二人は駆け出した。光の門をくぐった瞬間、霧も冷たさも消え、まぶしい光が視界を満たした。


次に目を開けた時、二人は昼の世界に戻っていた。夜の残滓のように、指先に冷たさが残っている。

尊はすぐに言った。

「……誰を探す? 夜を知る仲間なんて……」


昼の光は確かに明るいはずなのに、二人の目には妙に冷たく感じられた。

昼の世界に戻った瞬間、尊と美緒は胸の奥にざわつく違和感を覚える。人々はいつも通り行き交っているのに、その視線の奥には何かを隠しているような気配があった。


「……なんか、みんな普通なのに……こっちを見てる気がしない?」

美緒が低くささやく。


尊は周囲を観察しながら口を引き結ぶ。

「感じる。……あの夜の冷たさを知ったせいかな。でも、何か……違う」


その時だった。


「君たち、大丈夫か?」


穏やかな声が二人にかけられる。振り返ると、スーツ姿の男女が立っていた。胸元には小さなバッジ。どこか官庁のような雰囲気だが、笑顔は柔らかく、親しみを演出している。


「少し話を聞かせてほしいのだけど。最近、不思議な体験をしたり、変わった夢を見たりしていない?」

女の方がにこやかに尋ねる。


美緒と尊は瞬時に警戒心を抱く。狐の言葉がよぎる――“夜の記憶を持つ者は異物だ”。


尊は平静を装って答えた。

「いいえ、特には……」


だが、相手は食い下がる。

「そう? 君たちの瞳には、少し“夜”の気配がある気がするんだけどな。……ねえ、知っている? 夜の世界を覗いた人は、時に危険に晒される。――放っておくと、心を壊すこともあるのよ。だから、私たちが保護してあげる」


その笑顔は優しいが、どこか獲物を逃さない捕食者のような冷たさを隠していた。


美緒の背筋に寒気が走る。

「保護……?」

「そう。安全な場所で、夜の記憶を取り除くの。痛くないし怖くないわよ」


尊は唇をかみしめる。

――これは隔離だ。夜を知る者を消すためのもの。


二人はさりげなく視線を交わす。


「……ごめんなさい、よくわからないです。もう急いでるので」


そう言って立ち去ろうとした瞬間、背後から声がかかった。

「待って。……逃げると、君たちを守れなくなる」


空気が変わった。人々の視線が集まる街の雑踏が急に無音になったような感覚。


その時、後方の路地から低い声が響いた。

「こっちだ」


振り返ると、一人の影が手招きをしている。フードを深くかぶったその人物は、昼の光を嫌うかのように身を潜めていた。

「早くしろ。あいつらは“管理者”だ。あいつらに捕まったら終わりだ」


尊と美緒はためらう暇もなく、その影の方へ駆け出した。背後でスーツの男女の声が冷たく響く。

「……やはり夜を見た者か。追え」


路地の奥へ走り抜ける。胸の鼓動が速まる。フードの人物は軽やかに前を走りながら言った。

「昼の世界は表面上穏やかに見えても、夜を知る者は危険視される。君たち、無茶をしたな。夜に足を踏み入れたんだろ」


美緒は息を切らしながら問う。

「あなた……もしかして、夜を知ってるの?」


その人物はちらりと振り返り、鋭い瞳を見せた。

「ああ。俺は“昼に隠れた夜の残党”だ。……まず逃げ切れ。話はそれからだ」


路地に飛び込んだ瞬間、昼の世界の喧騒が背後で途切れた。

アスファルトが湿り気を帯び、排気の匂いと鉄の匂いが混ざる。狭い通路の両脇には古いビルの壁、足元には水たまりが点在している。


「こっちだ、急げ!」

フードの人物が先頭を走り、素早く角を曲がる。


美緒と尊は息を切らしながら必死に後を追う。靴音が水面を叩くたび、冷たい飛沫が足元に散った。


背後から鋭い声が響く。

「発見! 逃走を確認!」


振り返ると、スーツ姿の男女――管理者たちが、想像以上の速さで迫っていた。笑顔は消え、冷ややかな無表情。だが瞳は獲物を狩る猛禽のように光っている。


「くそ、速い……!」

尊は思わず声を漏らす。


「振り返るな! 走れ!」

フードの人物が叫ぶ。


路地は次第に狭くなり、鉄の階段や配管が入り組んで迷路のようになっていた。左手の壁に古びた看板があり、風で揺れて軋む。フードの人物はそれを軽く押しやり、狭い抜け道を迷わず選ぶ。


「ここを抜ければ振り切れる!」


だが、その瞬間。

背後で乾いた音が響いた。

パシッ――と何かが空気を裂き、足元のコンクリートを弾けさせる。破片が頬をかすめ、熱さと冷たさが同時に走った。


「……撃った!?」

美緒が振り返ると、管理者の一人が手に奇妙な器具を持っていた。銃のようだが、光の筋が淡く揺れている。


「実弾じゃない。だが当たれば……気を失うぞ!」

フードの人物が声を荒げる。


尊の背筋に冷たい汗が流れる。昼の世界の管理者――彼らは夜の存在を知る者を“保護”という名で狩っている。


角を曲がった先で、路地は二手に分かれていた。右は開けた駐車場、左はさらに細く暗い通路。


「右に行けば囲まれる、左だ!」

フードが叫ぶ。


三人は左に飛び込む。通路はさらに暗く、足元には段差やゴミが散乱していた。背後では管理者の足音が追いすがる。


「無駄だ、君たちは夜を見た――我々の管理下に入るべきだ!」

冷たい声が響く。その声は優しさを装いながらも、確固とした命令の響きを持っていた。


尊が振り返ると、スーツの男女の顔に笑みが戻っていた。

「怖がらなくていい。すぐに楽になれる……」


その言葉に美緒の心がぞっと震えた。

「――誰が信じるもんですか!」


前方でフードの人物が足を止め、手をかざした。指先からきらりと光が漏れる。次の瞬間、古びた鉄の扉が音を立てて開いた。

「中へ! 急げ!」


三人は扉をくぐり、暗い階段を駆け下りる。後ろで扉が閉まる音。すぐに叩きつけるような足音が近づいたが、分厚い鉄がそれを遮った。


狭い地下の通路に出ると、息を切らしたフードの人物が振り返った。

「……間一髪だったな。あいつらは“夜を知る者”を集めて封じようとしている。君たち、相当面倒な相手を敵に回したぞ」


尊と美緒は肩で息をしながら、互いに頷き合う。恐怖と同時に、確かな決意が胸に宿った。


「……もう後戻りはできない。楓を救うには、この連中とも戦わなきゃいけない」

「そして……夜を知る仲間を見つける」


フードの人物の瞳がわずかに笑った。

「その覚悟、気に入った。……俺の名前は千景。昼に潜む夜の残党だ。君たちに協力してやる」



鉄の扉が閉まる鈍い音が路地に響き、後を追っていた管理者たちは足を止めた。

スーツ姿の男は肩で息をしながらも、表情を崩さない。女は端末を取り出し、素早く何かを入力した。


「……逃げられたわね。まさか“残党”がいるとは」

女は端末を閉じ、冷ややかに言った。


男はわずかに目を細める。

「千景か。厄介だ。あれは我々が排除できなかった“例外”だ。夜を経験しながらも、昼に適応して生き延びている。……つまり、夜の情報を昼に持ち込む危険因子だ。」


女は唇を引き結ぶ。

「夜の知識は感染する。見た者、聞いた者、触れた者――すべてが“境”を揺るがす。夜を知る者は、いずれ光の世界を壊す芽になる。……だから、我々が隔離しなければならない」


その言葉には一片のためらいもない。

「保護」という言葉の裏に隠された本質――それは徹底した管理と排除。


男はスーツの内ポケットから小型の装置を取り出した。レンズのようなものが中心にあり、淡い光が回転している。

「追跡は続ける。境を渡った者の“残滓”は昼の世界にも残る。……この装置は夜の残光を嗅ぎ取る。逃げられても無駄だ。」


女はうなずき、ふと口元を緩めた。

「それにしても……あの二人、ただの迷い子ではないわ。夜を抜けて戻った者はほとんどいない。」


「夜に触れた者は境界を侵す。境界が崩れれば……昼も夜も終わる。だから、我々が先に動かねばならない。」


女は視線を遠くに投げる。街は昼の光で満ちているが、その奥底には確かに影が潜んでいる。

「才門……夜の番人まで動き始めたようね。境が揺れている証拠ね。……これは、偶然じゃない」


男は端末を操作しながら淡々と告げた。

「次の段階に移行する。夜を経験した者はすべて回収対象だ。……たとえ子どもであっても」


その声音に、わずかな感情が滲むことはなかった。


二人は無言で歩き出す。背後には何事もないかのような昼の喧騒が広がっていた。だが、その表面の穏やかさの下で、夜を恐れ、夜を知る者を狩る者たちが確かに動き出していた。



昼の街の地下深く、一般の人間には存在を知られない施設がある。

そこは無機質な白い壁で囲まれ、天井には光源が均等に並び、影という影を消し去っていた。


管理者の男女は静かにゲートを通り抜け、廊下の奥へ進む。指紋と虹彩認証が重なる扉を抜けると、そこには広大な作戦室が広がっていた。壁一面のスクリーンには昼の都市の地図が映し出され、点滅する赤い光点がいくつも浮かんでいる。


「対象はこの区域で逃走。千景の関与を確認。」

女が端末を操作すると、一つの光点が強調され、追跡データが表示される。


その時、部屋の奥から低い声が響いた。

「報告を聞いた。……やはり“夜の影”が再び動き始めたか。」


二人は即座に姿勢を正した。そこに現れたのは、長身の男だった。白いコートを纏い、銀縁の眼鏡の奥の瞳は冷ややかだが、どこか疲労の影も覗かせている。

「長官……」

男女が口を揃える。


長官は歩きながらスクリーンを見やる。

「才門……夜の番人が境を越えようとしている。そして“鍵”を探している。それは夜だけの問題ではない。昼も巻き込まれれば、境界は壊れる。……この都市も崩壊する。」


女が問いかける。

「長官、対象者の処遇は? 夜を知る者、美緒と尊、そして千景……。」


長官は静かに答えた。

「すべて確保しろ。夜の影を持つ者は境界を乱す毒だ。保護という名の隔離だが、必要なら……消去も辞さない。」


尊や美緒の名前が無機質に告げられ、その場の空気がさらに冷え込む。


「昼の世界を守るためには、夜を完全に封じるしかない。境界の存在は表に出せない。人々が知らぬままに昼を享受できるのは、我々が影を背負っているからだ。」


男の管理者がためらいがちに言った。

「しかし、彼らはまだ子どもです。……必要以上の処置は……」


長官の視線が鋭くなる。

「情けは不要だ。夜は甘く囁き、心を侵す。子どもであろうと境を揺るがすなら、それは敵だ。」


言葉の重さに室内が静まり返った。


長官は端末に手を置き、別のスクリーンを呼び出す。そこには「境界安定維持局」と記されたロゴと、複雑なネットワーク図が表示された。

「我々の存在は知られてはならない。昼と夜の均衡を守る唯一の盾だ。……君たちは理解しているはずだ。」


管理者たちは深く頭を下げた。

「了解しました。対象の特定と確保を急ぎます。」


長官は背を向けながら、淡々と最後の言葉を落とした。

「境が崩れる前に全て回収しろ。……昼を守るために、影を切り捨てよ。」




狭い路地を抜け、千景は息を切らす二人を振り返った。尊も美緒も疲労の色を隠せず、額には汗がにじんでいる。昼の世界の光は安堵をもたらすはずなのに、その背後には常に管理者の影がつきまとう。


「ここだ」

千景が立ち止まったのは、ただの古びたビルの裏口だった。シャッターは錆びつき、落書きが無数に描かれているが、その目は鋭く周囲を探っていた。


千景はポケットから金属片のようなものを取り出し、シャッターの隙間に滑り込ませる。小さな音と共に、鍵のようなものが解け、重いシャッターが静かに持ち上がる。


「急いで」

三人は薄暗い通路を進む。足音がコンクリートに響く。階段を降りるたび、昼の喧騒は遠のき、代わりに冷たい空気が漂い始めた。


やがて辿り着いたのは、広い地下空間だった。無数の古い配管やケーブルが天井を這い、壁には簡易的な機材やスクリーンが設置されている。そこには十人ほどの人影がいた。老若男女が入り混じり、皆どこかで見たことのない鋭い目をしている。


その中の一人、灰色の作業着を着た中年の男が千景に歩み寄った。

「戻ったか。……後ろの二人は?」


「夜を抜けて戻ってきた。管理者に狙われている」

千景の言葉に、周囲の視線が一斉に二人に集まる。尊は無意識に美緒をかばい、美緒は怯えながらも視線を逸らさなかった。


「……夜を抜けた? 今の時代に?」

誰かが低くつぶやく。


千景はうなずき、少しだけ声を落とした。

「しかも、才門の影が動いてる。境が揺れてる証拠だ。昼も安全じゃない。」


中年の男は深く息を吐いた。

「境界安定維持局が動いてるという噂は本当か……。」


「本当だ。……二人は見られた。保護対象じゃなく“排除対象”になる前に力をつける必要がある。」


沈黙が落ちる。だがその中で、一人の若い女性が前に出た。小柄だが瞳は強く、背には携帯端末とケーブルが下がっている。

「名前は?」


「尊、美緒」

千景が答えると、女性はわずかに微笑んだ。

「ようこそ。ここは“境の外”を知る者の拠点。……簡単に言えば、昼と夜の狭間を生き抜いてきた者たちのネットワークよ。私たちの存在を知った時点で、もう元には戻れない。」


尊も美緒も息を飲む。


「でも心配しないで。ここは安全。少なくとも、あのスーツ連中よりはね。」

女性は軽く端末を操作し、壁のスクリーンに都市の地図を映し出した。赤い点が複数、そして青い点が少数光っている。

「赤は管理者、青は私たち。都市は思っているよりも複雑よ。あなたたちの力があれば、道が開ける。」


千景は二人の肩に手を置く。

「ここでしばらく息を整えて。……だけど、忘れないで。彼らは必ず追ってくる。」



隠れ家の空気は外の世界とまるで違っていた。コンクリート打ちっぱなしの壁に古い配管が走り、天井からは裸電球がぶら下がっている。どこか退廃的なのに、不思議と落ち着く匂いが漂っていた。


尊と美緒は、長机の前に座らされ、蒸気の立つマグを手渡された。中身は甘いハーブティーのような香りがする。

「ほら、飲んで。緊張を和らげる作用がある。変なものじゃないわ」

先ほどの小柄な女性が微笑む。


部屋の奥では、十数人の仲間たちがそれぞれの作業に没頭していた。スクリーンで地図を眺める者、何かの装置を組み立てる者、資料をめくる老人。誰もが昼の世界では普通の人間には見えないだろうが、その目には覚悟と疲労が滲んでいた。


「ここにいる全員が、夜を知った者……なの?」

恐る恐る美緒が口を開く。


「ええ」女性はうなずいた。

「ほとんどがかつて夜に迷い込み、戻ってきた者。中にはそこで何かを失った者もいる。」


「失った……?」尊が反応する。


その時、奥の机から老人が顔を上げた。深い皺が刻まれた顔は穏やかだが、瞳は鋭い光を帯びている。

「夜は贈り物のようであり、罠のようでもある。人はそこで忘れるか、奪われる。だが、帰ってくる者には“何か”が残る。それが境界を揺るがす力となるのじゃ。」


美緒はハッとした。

「じゃあ……私たちにも……?」


老人は頷き、尊と美緒をじっと見つめる。

「君たちの目は、もう昼の光だけでは満たされぬ。夜を知った者は、心に影を持つ。それは弱さではない。時に境を渡る鍵となる。」


「鍵……?」尊は眉をひそめる。


すると千景が口を挟んだ。

「夜と昼の世界は分かれているようで、完全じゃない。昔はもっと行き来できたらしいが、今は境界が厳しく管理されている。……あのスーツ連中、境界安定維持局がな。」


若い男性がパソコンの画面を叩きながら続ける。

「やつらは表向きは存在しない組織だ。でもな、夜の世界を“異物”として扱ってる。だから夜を知った人間も、消される。」


美緒の顔が青ざめる。尊は拳を握った。


「じゃあ……どうすれば?」


女性は穏やかに笑った。

「簡単。力をつけること。夜をただ恐れるんじゃなく、理解し、使う。夜には昼では得られない“感覚”や“技”がある。あなたたちにはそれを学ぶ素質がある。」


尊は思わず美緒を見た。美緒も同じように彼を見返す。その瞳には恐怖だけでなく、確かな光が宿っていた。


千景が椅子から立ち上がった。

「今夜から訓練を始めるよ。夜の世界は敵だけじゃない。……君たちがその影を使いこなせば、追う側を出し抜ける。」


老人は静かに微笑み、最後に付け加えた。

「忘れるな。夜は試す。選ぶのはお前たちだ。」



夜の闇を模した地下室は、静寂に包まれていた。照明は落とされ、足元だけをぼんやり照らす薄い青光が床に線を描く。そこに尊と美緒、千景、そして数人の仲間たちが立っていた。


「ここは夜の世界を再現した訓練場。正確に言えば“断片”を呼び出す装置よ」

若い女性が壁際の端末を操作すると、空間が揺らぎ始めた。壁が消えたように感じ、地下室のはずが深い森の中に立っている錯覚が広がる。空気がひやりと冷たく、どこか湿り気を帯びていた。


「まずは感じること。夜は目に見えるものだけじゃない。音、匂い、気配……全部が信号になる。」


千景が尊と美緒を交互に見つめた。

「お前たち、それぞれに夜が触れた痕があるはずだ。尊は守る意志、美緒は感じる力。それを試す。」


低い合図音と共に、訓練が始まった。


最初に現れたのは影の獣だった。獣の形をしているが輪郭は曖昧で、視界の端で揺らぐ度に大きさが変わるように見える。仲間の一人が声をかける。

「動くな。ただ、観察しろ。」


美緒は息を飲み、目を凝らした。恐怖を押し殺し、影の流れを追う。その時、胸の奥で何かが共鳴する感覚があった。耳の奥で響く微かなざわめき。

「……あそこ、来る!」

彼女の声に合わせて獣が飛びかかった瞬間、尊が反射的に動いた。


尊の体は思ったよりも軽く動き、獣の進路を塞ぐように腕を突き出した。その瞬間、影がぶつかる音はなく、むしろ霧散するように消えていった。仲間たちがざわめく。


「やっぱり……」千景が口元を緩めた。

「尊、お前は夜を跳ね返す“壁”を作る。無意識の防御だ。美緒、お前は感じ取る“耳”だ。方向と意図を掴む力がある。」


次に現れたのは、夜特有の囁き声だった。意味の分からない言葉の連なりが耳元をくすぐる。美緒はそれを聞き分けるように目を閉じる。言葉の中に、一瞬だけ、知っている音があった。

「……誰かの名前を……呼んでる?」


仲間の一人が目を見開く。

「普通は聞き流すはずだ。拾えるとは……。」


尊は眉をひそめた。

「美緒、無理するな。危険じゃないのか?」


「危険だけど、力でもある。夜は声を届ける。人や場所を探すのにも使えるかもしれない。」千景の言葉は真剣だった。


最後に、二人を試す課題が課せられた。森の中を進み、散らばる“光の欠片”を集める。欠片は夜のエネルギーを可視化したものらしい。


美緒が感覚を研ぎ澄ますと、欠片がある方向がふっと分かる。尊はそれを守りながら進む。道を遮る影を彼が弾き飛ばすたび、光はより鮮明になった。


やがて二人はすべての欠片を集め、端末の前に戻る。


女性が静かに言った。

「初めてでここまでできるなんて……二人はやっぱり特別ね。夜の世界に選ばれた理由がある。」


千景は腕を組み、少し笑う。

「これなら管理者相手にも時間を稼げるかもしれないな。」


尊と美緒は視線を交わした。恐怖はまだある。だが、それ以上に確かな手応えが心に残っていた。



青白い光の森を進む尊と美緒。その空気はどこか不気味な静けさを帯びていたが、仲間の指示に従い光の欠片を探す作業は順調だった。


だが、その時――空気が変わった。

突然、視界の端に黒い縦の裂け目が浮かび上がり、そこから暗い靄が漏れ出した。まるで空間そのものが破れたかのようだった。


「……何だ?」尊が眉をひそめる。

端末を操作していた女性が驚きの声を上げる。

「訓練システムに異常……? 制御がきかない……これは、外からの侵入!?」


靄が渦を巻き、森の中に広がった。次の瞬間、影がうねるように形を取り始める。訓練用の幻影とは違い、その動きは滑らかで、生々しい。


「下がれ!」千景が叫んだ。

影の中から現れたのは、四足の獣のようなシルエット。しかし輪郭は常に崩れ、何層もの闇が重なり合っている。目の部分だけが白く光り、息をするたび冷気が走った。


仲間の一人が小声で呟く。

「……夜の実体だ。境界を超えた……あり得ない。」


訓練生たちがざわめく間もなく、影獣は地面を裂き、美緒の方へ突進してきた。


「美緒!」

尊は反射的に前に出て腕を広げた。体の奥底から熱い衝動が走り、影がぶつかる瞬間、透明な膜のような壁が張り巡らされた。轟音と共に衝突し、衝撃波が走る。しかし壁は完全ではなかった。影の一部が壁をすり抜け、美緒の足元をかすめる。


その瞬間、美緒は鋭い耳鳴りを感じた。影の中から声がする。

――探してる……境を……壊す……鍵……

誰かの囁きが頭の奥で響いた。


「……今、声が……!」美緒が目を見開いた。

「美緒、聞こえるのか? 何を言ってる!」尊の声も緊張で震える。


千景が冷静に指示を飛ばす。

「全員退避! ここはもう安全じゃない! 尊、美緒、お前たちは後ろだ!」


仲間たちが出口へ走る中、影獣は執拗に二人を追った。まるで狙いが彼らだけに絞られているかのようだ。


最後の関門、隔壁の前で千景が短剣を構える。

「ここで足止めする! 尊、お前の壁を最大限に使え!」


尊は深く息を吸い、壁を張る意識を集中させた。光が走り、影を一瞬だけ押し返す。その隙に美緒は再び声を拾う。

――鍵を……持つ者……境を超える……昼も夜も……


美緒の顔は青ざめていたが、その瞳は決意を帯びていた。

「……あれ、私たちを探してる……」


隔壁が閉じると同時に影は爆ぜ、空間の裂け目も閉じた。室内は静けさを取り戻したが、全員の心拍はまだ速かった。


端末の女性が蒼ざめた顔で言う。

「……境界、外から侵入されるなんて……管理者も気づくかもしれない。」


千景は唇を噛んだ。

「これはただの訓練じゃなかった……誰かが、いや“何か”が動いてる。」


尊と美緒は互いの手を握りしめた。恐怖の中で、確かな確信が芽生え始めていた。

――自分たちはただの巻き込まれた者ではない。夜の世界において、何かを背負わされた存在なのかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ