第2章 境に揺れる光と影
狐の尾が左右に揺れ、小径を照らす淡い光はどこか心地よさすら感じさせる。だが、その道はやがて二股に分かれていた。
右の道は光が続き、かすかな花の香りが漂っている。左は薄暗く、霧が立ち込めていて先が見えない。
狐は迷いなく右の道へ歩き出した。
『こちらだ。柊や土生もこの先に――』
だが、その時。
「こっち!」
楓が突然、美緒の腕をぐいっと引いた。
「え、ちょっと待って!?」
美緒は体勢を崩しながらも楓に引きずられる。尊が驚いて声を上げたが、楓は振り帰ることなく美緒を引っ張っていった。
「お兄ちゃんを助けるなら、こっちしかないの!」
狐が低く唸る。
『その先は危うい……』
しかし楓はもう走り出していた。
霧が足元から立ち上がり、空気が冷たく湿る。楓の背中が白いもやの向こうにぼやけていく。
「楓、待って!」
美緒の声は霧に吸い込まれた。
焦りながら追いかけるが、霧はどんどん濃くなり、足元すら見えにくくなる。気づけば尊の足音も狐の尾の光も消え失せていた。
「……嘘でしょ……?」
心臓が早鐘を打つ。霧の中で美緒はひとりになっていた。
その時――。
ふっと、影が揺れる。白い霧の中、黒い影が形を取る。
翼をたたみ、鋭いくちばしのような顔立ちをしたその鳥は、次第に人間の姿に変わっていった。そして静かに美緒を見下ろしていた。
「……迷子か。夜は優しいが、道を知らぬ者には残酷だ」
低い声。けれど、不思議と冷たくはない。
美緒は息を整え、問いかける。
「楓を惑わせたのはあなた? 尊も狐もあなたの仲間なの?」
才門の嘴の端がわずかに動いた。
「仲間? 楓は兄を救いたいと夢で懇願したから、チャンスを与えただけた。あの少年も、あの狐は違う。それに夜は裏切らない……裏切るのは、昼の方だ」
「昼……?」
才門は視線を霧の奥に向ける。
「おまえたちの世界は光で満ちているように見えるだろう。だが、光が強ければ影も濃くなる。焦燥、嫉妬、孤独、恐怖――昼はそれを見ないふりをする。すべて、夜に押しつけてきた」
その声には怒りが滲んでいた。
「ずっと俺は境を守っていた。昼と夜を分け、影を抱え込み、昼を成り立たせるために……。だがもう限界だ。昼はあまりに多くの影を生みすぎた。夜は膨れ上がり、ひび割れ、もうすぐ崩れる」
美緒は唇をかんだ。才門の瞳には、悲しみではなく、静かな決意が宿っている。
「だからあなたは……昼を壊そうとしているの?」
「壊す。そうだ。昼は無自覚に人を苦しめる。笑顔の下で誰かを押し潰し、光の中で泣いている者を見ようともしない。……なら、いっそすべての境をなくす。昼も夜も呑み込み、一つにする。それが俺の選んだ答えだ」
才門は一歩、美緒に近づく。翼の影が彼女を覆った。
「だが、おまえは――何を選ぶ? 昼を守るのか? 柊や土生を昼の世界に戻したいのは彼らのためじゃなく自分取り残されて寂しいからじゃないのか?」
美緒の胸がざわめく。
「……私は……」
その先の言葉は霧に溶けた。
霧の中を歩く音がした。
才門の影が消えたあと、静けさはむしろ重く、美緒は自分の鼓動の速さを感じていた。
「……尊? 狐?」
返事はない。だが、微かな足音と葉の揺れる音が耳に届く。
「美緒!」
声が霧を裂いた。尊が駆け寄り、安堵の表情を見せる。
「よかった……楓が急に走って、君も消えたから」
狐もすぐに姿を現す。尾の先に光を宿し、霧を押しのけるように揺らす。
『おまえ、顔が青いぞ。何かあったな』
美緒は深く息を吸い込み、二人を見つめた。
「……才門に会ったの。あの黒い鳥……夜の番人だって言ってた。彼は……昼を壊そうとしてる」
尊と狐の表情がわずかに曇る。
「昼を……?」尊が眉を寄せる。
『あの鳥、境の管理者だと聞いていたが……壊す側に回ったか』
美緒は頷き、才門の言葉を思い出しながら続ける。
「昼は光の世界に見えて、その裏でたくさんの影を生んでる。押し込められた影が夜を苦しめてるって……だから、昼も夜もなくして、一つにするって」
狐が尾を低く垂らした。
『……それは夜の崩壊と同じだ。境が消えれば、人の世界も持たない。才門がやろうとしているのは救済ではない。破壊だ』
「だから止めないと」尊の声は硬かった。
「でも……楓が、才門に操られてる。兄を助けるためだって……」
尊は険しい表情で霧の奥を見据えた。
「楓は兄を助けたい一心で……だけど、その先に才門がいる。操られているのなら、なおさら急がないと」
狐が低くうなった。尾の先の光がかすかに揺れる。
『あの道は夜でも特別だ。影が濃く、記憶や思いが形になる。楓が抱く恐怖や願いを、才門が利用しているなら……』
「……彼女の中の不安が具現化するってこと?」美緒は息を呑む。
『そうだ。夜は人の心を映す鏡でもある。彼女が揺れれば揺れるほど、あの鳥の力は増す』
尊が決意を固めたように頷く。
「なら、俺たちで楓を支えなきゃいけない。奪われる前に」
美緒はぎゅっと拳を握った。
「楓は悪くない。ただ……必死なんだ。だから止めたい。――兄を助けたいなら、違う方法があるって伝えたい」
狐が二人を見渡し、尾を大きく振った。光が一瞬強まり、霧の中にうっすらと道筋が浮かび上がる。
『時間がない。才門は昼を壊そうとしているが、そのためには“鍵”が必要だ。……それが、楓の兄かもしれん』
「鍵……?」尊と美緒の声が重なる。
『夜と昼をつなぐ器――それが人の魂であるなら、楓の兄の存在は境を揺るがすほどの価値を持っている。才門はそれを利用しようとしているのだろう』
胸の奥が冷たくなる感覚。美緒は楓の必死な表情を思い出す。
「……だから彼女を選んだんだ」
尊は拳を握りしめる。
「なら、なおさら守らないと。楓も、兄も、昼も夜も」
狐が再び道を示す。
『行くぞ。迷えば飲まれる。走れ、人間の子ら』
三人は霧の中を駆け出した。
霧の奥から、微かな声が響く。
「……お兄ちゃん……どこ……?」
楓のかすかな声。けれど、その響きはどこか遠く、哀しみに満ちていた。