第10章 昼の世界の維持局登場
異常検知。
それは午前十一時四十二分、境界安定維持局第六監視棟の深層端末に小さく赤い警告灯が灯った瞬間に始まった。
「反応位置、郊外第三区。三名、座標は……該当個体確認。識別コード:柊、一致」
報告の声が室内に響く。
高良沙耶は短く息を吐き、無言で上着を羽織った。
端末の光が彼女の眼鏡に反射する。
「また“戻った”か。……予想より早いな。」
傍らで記録端末を持っていた加瀬祐一郎が、小さく眉を寄せた。
「本当に、即時収容が必要でしょうか? 彼ら、まだ……」
「まだ何だ?」
高良の声は鋭く、静かに空気を切った。
「夜」の記憶を持ち帰った者が、どれほどの災いをもたらすか――それを彼女は知っている。
彼女の視線の奥に、遠い過去の閃光と悲鳴が過ぎる。
「……命令は変わらない。感情を挟むな。」
沈黙が落ちた。
加瀬は、端末を胸に抱えたまま、かすかに首を縦に振る。
「了解しました」と口にしながら、声はわずかに震えていた。
外は、雲ひとつない昼の空。
風が乾いている。
――夜の世界とはあまりにも違う。
彼は思った。
あの子たちは、あの暗闇の中で何を見て、何を捨てて、やっとの思いで戻ってきたのだろう。
それを、また檻に戻すことが「正しい」と言えるのだろうか。
出動命令が下る。
六名の部隊が黒い車両に乗り込む。
車のドアが閉まる音が、乾いた昼の光に吸い込まれていった。
「対象は三名。優先確保は柊。」
無線越しに加瀬の声が響く。
加瀬は静かに息を吐き、視線を落とした。
柊という名を聞くたびに、胸の奥に小さな痛みが走る。
彼の目を思い出す。夜明けの色を宿した、あの目を。
車窓の外を流れる街並みが、やけにまぶしい。
まるで世界の方が、彼のためらいを見透かしているかのようだった。
風が、真昼の空を渡っていた。
屋上のフェンス越しに見える街並みは、やけに平坦で、どこまでも現実的だった。
柊は手すりに指をかけ、黙って下を見下ろしていた。
「……どうして、こうしていると全部夢みたいに思えるんだろうな。」
その声に応じるように、背後でドアが軋む音がした。
振り向くと、風に髪を揺らしながら土生が立っていた。
シャツの袖を少し捲り、いつものように軽い笑みを浮かべている。
けれど、その笑みの奥には、どこか怯えた色が滲んでいた。
「夢なんかじゃないよ、柊。だって……私たちまだ、覚えてる。」
彼女は自分の胸のあたりを押さえた。
「夜の森の匂いとか、夢のような出来事も全然消えていない。」
柊は頷いた。
風の中に、あの世界の“優しさ”が混じっている気がした。
風が止み、遠くの街のざわめきが聞こえる。
「美緒は・・・」
と言いかけたところで、柊はふと、校門の方に視線を向けた。
校門の前に、黒い車が三台、静かに並んでいる。
昼の光を反射する艶のない装甲車。
ドアが開き、黒い制服の人物たちが降りてくる。
白い紋章――境界安定維持局だ。
「……来た。」
土生の声が震えた。
柊はフェンス越しに見下ろしながら、息を詰めた。
スピーカーがノイズを発し、校内放送が割り込む。
“管理局です。生徒の皆さんは教室に戻ってください。校舎外への移動は禁止です――”
声が歪み、途切れる。境界安定維持局が通信を制御したのだ。
「逃げ道、考えてある?」
「実験棟の非常階段から裏門に出られるわ。」
土生の即答に、柊は苦笑した。
「さすが、準備がいい。」
「女の勘ってやつね。」
軽口のようで、どちらも笑わなかった。
フェンスの外、管理局たちが校舎の入口に配置され、
加瀬が先頭に立ち、無線で何かを命じている。
その姿が、昼の光にやけに冷たく映えた。
「……行こう。」
柊の声に、土生が頷く。
二人はフェンス沿いを走った。
風が髪をはためかせ、靴底がコンクリートを叩く。
階段へ続くドアを開けた瞬間、下の階から金属音が響いた。
廊下に白煙が広がる。
閃光弾。
光が弾け、鼓膜を刺す高音が炸裂する。
「管理局だ! 二人とも動くな!」
柊は土生の手を引いて、別方向の階段へと駆け出した。
煙の中をすり抜け、ガラス窓を肩で押し破ると
昼の風が吹き込んできた。
土生の額に汗が伝い、息が荒い。
「こっち!」
彼女が指差したのは、実験棟へと続く渡り廊下。
柊は頷き、背後を振り返と、追ってくる影――黒い制服。
銃を構える音が聞こえた。
弾丸が壁をかすめ、火花が散る。
「くそっ……!一般人に銃を向けるなんて!」
柊が唇を噛む。
だが、すぐ後ろから、静かな声が響いた。
「……止まりなさい。」
振り返ると、そこに加瀬祐一郎が立っていた。
銃を構えているが、狙いは二人ではなかった。
その瞳は、迷いと痛みを含んでいた。
「ここで止れ。これ以上行ったら、本当に戻れなくなる。」
加瀬の声が震えていた。
「戻ったところで、拘束して僕らをどうするつもりなんだ!檻に収容するんだろ。」
柊の返した言葉に、土生がきつく頷いた。
彼女の目の奥には恐怖と、それを押し潰す決意があった。
ほんの一瞬、風が吹いた。
加瀬は銃を下げ、囁くように言った。
「……走れ」
次の瞬間、高良の怒声が校内に響く。
「加瀬、撃ちなさい」
弾丸が二人の頭上の蛍光灯を撃ち抜き、火花が散った。
柊は土生の手を強く握り、走り出す。
光と煙が交じる中、二人の影が渡り廊下を駆け抜けていく。
昼の世界の中で、たったふたりだけが“夜の欠片”を抱いて逃げていた。
――光がまぶしかった。
怜はまぶたの裏に焼きついた白を払いのけながら、ゆっくりと上体を起こした。
天井の木目。風の音。時計の針の乾いた音。
見慣れたはずの自室なのに、何かが違う。
部屋の隅に置かれた机。
教科書が開かれたまま止まっているページ。
それは、自分が消えた日と同じままだった。
――夜の森の匂いが、まだ鼻に残っている。
怜は制服に袖を通し、玄関へ向かった。
兄の姿はない。
「……兄さん?」
返事はなかった。
家の中は静まり返り、時計の音だけが響いている。
靴を履き、ドアを開ける。
まぶしい昼の光が、刺すように視界を覆った。
ああ、帰ってきた。
確かに“こっち”だ。
そう思った瞬間、背筋を冷たいものが走った。
通りの向こう、黒い車が一台、ゆっくりと止まる。
車体の側面に、白い紋章。
境界安定維持局だ。
ドアが開き、制服姿の女と男が二人降りてくる。
先頭には、冷たい目をした女・高良沙耶。
その後ろに、加瀬祐一郎が続いた。
高良は怜を一瞥しただけで言った。
「確認。帰還対象、怜。確保に入る。」
その声に血の気が引く。
怜は反射的に後ずさった。
靴底がアスファルトを擦る音。
体が勝手に動いていた。
「待ってください!」
加瀬が思わず声を上げる。
「まだ彼は何も――」
高良は短く首を振る。
「夜の残滓を持ち帰った時点で危険対象だ。迷うな。」
怜は背を向けて走り出す。
角を曲がり、細い路地へ。
呼吸が荒くなる。頭の奥で何かが脈打つ。
走りながら思う。
(どうして、僕を……? 僕は、ただ帰ってきただけなのに!)
後方で車のドアが閉まる音、通信の声。
「対象、北方向に逃走! 拘束ユニット、展開!」
路地の壁面に、透明な光の幕が現れた。
見えない網のような光が、怜の前に立ちふさがる。
管理局の“封鎖フィールド”。
「くそっ……!」
怜は反射的に左の塀を蹴って跳ぶ。
だが、腕を掴まれた。
冷たい手。電流のような痛みが走る。
高良が呟く。
「麻痺弾、使用許可。」
加瀬が制止しかけたが、彼女の目がそれを封じた。
銃口が上がる。
怜は一瞬、息を呑む。
その刹那、白い閃光が彼の視界を覆った。
「兄さん、美緒さん、たすけ・・・て・・・」
音もなく倒れ込む。
視界の端で、青い空が滲み昼の光がやけに遠く感じた。
加瀬が駆け寄り、膝をつく。
怜の肩に触れ、震える声で言った。
「こんな子どもまで……本当に、これでいいのか……?」
高良は無表情のまま答えた。
「昼を守るとは、そういうことだ。」
車の扉が閉まり
怜の意識が闇に沈んでいった。




