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第1章 沈みゆく灯のほとりで

目を覚ました瞬間、何かが残っている気がした。

夢を見た。それだけははっきりしていた。

ただの夢ではなかった。あまりにも静かで深くてやさしいのにどこか不穏だった。

そして何よりも記憶が鮮明すぎた


「また来てくれたね」


その声が耳の奥に、まだ残っていた。

ぼんやりとした頭で天井を見つめながら美緒は布団の中で息を吐いた。

あの声の主は、夢の中のカラス?黒い大きな鳥

森の中からこちらをじっと見て、確かに私に話しかけた。


しかも私の名前を知っていた。


「美緒、君はもうすぐ ”忘れられなくなる”」


あの言葉の意味はどうゆうことなのだろう?

時計を見ると、まだ午前5時を少し過ぎたところだった。


あと1時間は寝られるはずなのに、眠気はもうどこかに消えていた。






通学路の途中、見慣れたはずの街並みに妙な違和感があった。

街路樹が風に揺れているだけなのに、

その葉のひとつひとつがささやいているように見えた。


いや、見えただけじゃない。

「聞こえた」気がした。


(ひそひそ、聞こえているよね。気づいているよね、きっと)


小さな声。けれど耳に残る不思議な響き。


「・・・・・まさかね」


美緒は自分にそう言い聞かせて、足を速めた。


「美緒、おはよー」


土生(とき)が後ろから走ってきた。


「土生、おはよー」

「どうしたの、ぼんやりしているよ?」

「そう?いつもより早起きしちゃったから少し眠くて・・・」

「1限目、谷口だから居眠りしたらやばいよ~」

「ほんと、やばいかも」



教室ではいつもと変わらない一日が始まろうとしていた。

けれど、美緒の感覚はやはり違っていた。

クラスメイトの誰かの顔が、一瞬、夢でみた誰かと重なったように見えた。

名前も思い出せないその「誰か」の顔が、脳裏に焼き付いている。


あの草原にたたずんでいた・・・



「おい!早瀬、次の問題といてみろ」


次の瞬間我に返った

(やばい!どこ?)


「34ページ 5問目」


横で柊が小声で教えてくれた。

軽く会釈して小声でお礼を言った。


「サンキュー助かった」



昼休み

「1限目やばかったね~」

「うん、柊が教えてくれたから助かったよ~」


「私さあ~最近、ずっと不思議な夢ばかり見ていて

動物が話しかけてきたり、草木がささやいたり・・・妙にリアルなんだよね~」


美緒は思わず固まった。


「それってカラスみたいな黒い鳥が出てこない?」


「え?出てくる!黒いからカラスだと思ったけど違うんだよね~黒い鷹?って感じ

美緒、なぜ知ってるの?」


心臓が強く脈打った。


まさか、この妙な感覚、自分だけじゃない?




放課後、美緒は土生と一緒に校門を出た直後にどこからか視線を感じて足をとめた。

すると並木道の中の一本の枝にあの黒い鳥がとまっているではないか


「ねえ土生、あれって!」


そして美緒と目が合ったかと思うとそのまま飛び去って行った。


「え?なに?どこ?」

土生が振り返ると既に姿は消えていた。


「う、うん、何でもない。気のせいだった」

「美緒、今日は大丈夫? 寄り道しようと思ったけど、帰った方がよさそうだね」

「そうかなあ?ごめんね。帰るよ」


そう言って、美緒は足早に帰宅した。


その夜

眠りに落ちた美緒は、またあの場所にいた。


星が瞬く夜の森。空はどこまでも深く、風は言葉をささやいていた。

草花がざわめき、小さな動物たちが木陰を走り抜けていく。


すべての存在が、何かを話している。


そして、また現れた。黒い大きな鳥


「こんばんは、美緒。今日は少し奥まで来たね。」


「ここはどこなの?」


「夜の世界だよ。あなた達が「夢」と呼ぶ場所

でもこれは、夢なんかじゃない。本当のもう一つの現実。

私たちが毎晩あなたを迎えている。だけど・・・」


「だけど?」


「朝になると、君たちは忘れてしまう。そうできているんだ」


風が囁いた。木々がひそひそしはじめ、月の光が黒い鳥を輝かせた。


「でも、君は覚えているんだろ?

それは目覚めはじめたということ。昼の世界と夜の世界、その境界線が今揺れている。


その言葉を最後に、視界が真っ白になった。


美緒は息をのむようにして目を覚ました。


・・・・記憶は消えていない。


黒い鳥の言葉も、夜の森の風も、すべて鮮明に残っていた。


目を覚ました瞬間、美緒は自分の手に違和感を覚えた。

手の甲に、白く小さな線のようなものが浮かび上がっていた。


まるで夜の森で見たあの光の草が触れた場所――

ただの夢のはずなのに、痕跡が現実に残っている。


「……やっぱり、何かがおかしい何かおかしなことが起きている」


美緒はそのまましばらく手を見つめていたが、家族に見つからないように袖を下ろし、いつものふりをして学校へ向かった。




通学路の途中。


目に映る景色は何も変わっていないはずなのに、

空の色が、ほんのわずかに深く見える。

木の葉が囁く音が、耳元で意味を持ち始める。


(……忘れないで、私たちの声を私たちのことを・・・・・)


そんな気がした。いや――確かに、誰かがそう言った。

けれど、誰が?どこで?

私の頭の中がおかしくなっているんだろうか・・・



教室に入ると、誰かと視線がぶつかった。

柊――いつものように声をかけようとしたその時、美緒の脳裏に稲妻のように映像が走る。


(夕焼けの草原。風にたなびく影。柊に、似ている誰かがそこにいた)


「……? 美緒?」

「……あ、ううん、なんでもない」


現実と夢の記憶が、混ざりはじめている。これから何が始まるんだろう

どうなってしまうんだろう


授業はまったく集中でできなかった


昼休み。土生が、そっと美緒の机に近づいてきた。


「ねえ……今日も、見たよ。森の奥の方。水の鏡みたいな場所で、誰かが待ってた。」

「それって、誰……?」

「わからない。でも、“君はそろそろ気づく頃だ”って……。夢の中の住人だって。」


美緒は息をのんだ。


(それって……私と同じようなことを言われたってこと?)


私たち以外にも覚えている人たちが増え始めているんじゃないだろうか

ただの夢だったらいいのに



放課後。


校舎の影に、妙な違和感を覚えた美緒は、ふと視線を上げた。

風もないのに、窓の外の木の枝がゆれていた。


影の中に、誰かがいる――


いや、何かがこちらを見ている。

人?先生?


何がどうなっているんだろう




美緒が再び眠りに落ちたとき、彼女はこれまでとは異なる景色にいた。

そこは、夜空そのものの中だった。


足元に大地はなく、代わりに透き通った星の海が広がっている。

上下の区別があいまいで、空に浮かぶ島々が、重力の概念を忘れたようにゆったりと回っていた。


そのひとつひとつに、“夢を見ている人々”がいた。

誰もが静かに微笑みながら、空を泳いでいた。


まるで羽があるように、しなやかな動きで空を舞い、漂い、ただそこにいることを楽しんでいるようだった。


ある少年は空に浮かぶ雲の中をくぐり抜け、笑い声を響かせていた。

ある女性は、星の粒を手に取り、花のように開かせていた。

老いた男は、まるで吟遊詩人のように銀色の笛を奏でていた。


美緒は、気がつくと自分の身体も軽くなっているのを感じた。

空を足で蹴るようにして進むと、彼女もまた浮かび上がり、星々の中を泳ぐことができた。


胸の奥が、ふっと軽くなった。

どこからか、やさしい声が届く。

「ここは“癒しの領域”――夜の世界の深層。

忘れかけた本当の記憶や、まだ形にならない心の声が漂っている場所」


振り返ると、あの黒い鳥がまたそこにいた。

今度はその姿の周囲に、淡い光の羽が広がっているように見えた。


人でもなく、鳥でもない。境界の案内人としての姿だった。

地上のような森もある。


そこでは、不思議な動物たちと言葉を交わす人々がいた。

金色のたてがみを持つ狼が、誰かの横に座って物語を語っている。


巨大なフクロウが翼で子どもの背中をそっと包んでいた。

水のように透き通った猫が、草の間をすり抜けて、遊ぶように人の周囲をめぐっていた。


「僕はこの世界と昼の境界線の番人、才門」

才門の声が風と一緒に届く。


「昼の世界で存在意義を失いかけている者たちがこの層へ落ちてくる。そして癒され昼の世界へ戻っていく。もちろん記憶は消されているけどね。

ただ、癒されすぎると、戻る理由を失うこともある。

現実の痛みや喧騒が遠くなり、昼の世界に“居場所”を見つけられなくなるかもしれない」


「そうなったらどうなるの?」


美緒の問いに、才門は一瞬だけ視線を伏せた。

星々の海の光がその翼をかすかに揺らす。


「――消えるわけじゃない。けれど、“留まる”ことになる。」

「留まる……?」

「昼の世界と夜の世界、そのどちらにも完全には属さない存在として、この深層に留まり続ける。

時間の流れも、名前も、過去も、すべて曖昧になっていく。やがて、自分が誰だったかさえ思い出せなくなる。」


美緒はぞくりと背筋を震わせた。

「それって……死んでしまうのと同じじゃない?」


才門は首を横に振る。

「違う。肉体は昼の世界にある。けれど魂は、こちらで漂い続ける。

昼の世界では“魂の抜け殻”として生きることになるだろう。」


遠くで、金色の狼が誰かの足元に寄り添っている姿が見えた。

その誰かは笑っているようにも、泣いているようにも見える。

そして、その表情の奥に――空虚さがあった。


「……戻る方法は、ないの?」


「あるさ。」

才門の声は、風よりも静かだった。

「“理由”を見つけること。昼の世界で、自分がそこにいる意味を。

それを見つけられた者は、この場所から羽ばたいていける。」


美緒は、星の海の向こうで漂う無数の人影を見つめた。

――そこに、柊や土生の姿があったらどうしよう。

そんな考えが、胸を締めつけた。


才門はすでにいなくなっていた。

そして美緒は、遠くの空にぼんやりと浮かぶ“昼の世界”を見た。


その夜、美緒はまたあの星の海の深層にいた。

けれど、今回は遠くに見知った姿を見つけた。


「……柊?」


呼びかけると、彼は振り返った。

柔らかな光がその顔を照らし、昼間とは違う、安堵しきった笑みを浮かべている。


「……美緒。ここ、いいよな。」


その声は、昼の世界で聞くどんな声よりも軽やかで、温度があった。

彼の周りには光の花が咲き乱れ、金色の狼が横に座っていた。

狼は何も言わず、ただ柊の肩に顔を寄せていた。


「ここだと、誰も何も求めない。間違えても、黙っていても、ただ……そばにいてくれる。」

柊は狼の首を撫でながら、目を細めた。

その仕草は、昼の彼が絶対に見せない弱さを孕んでいた。


美緒は胸が痛くなった。

(柊……そんな顔、知らなかった。)



柊は、誰が見ても「完璧」だった。

成績は常に学年トップクラス。

バスケ部ではキャプテンこそ務めていないが、実質的なチームの軸で

先輩からは「お前がいれば安心だ」と言われ、後輩からは「柊先輩、次の試合のコツ教えてください!」と慕われていた。

授業が終われば部活、部活が終われば家で課題。

土日も練習や試合が入り、自分だけの時間はほとんどなかった。

家に帰れば、父からは「このまま一流大に行け」と当然のように言われ、

母からは「あなたは誇りよ、期待しているわ」と笑顔を向けられる。

それは愛情なのか、檻なのか――柊にはもうわからなかった。


たまにふっと空を見上げる時間があっても、次の瞬間には

「柊、プリントまとめてくれ」

「柊くん、文化祭の準備お願い」

「柊、お前にしか任せられない」

――そうやって、誰かの望む“柊”を演じ続ける日々。


助けを求めようにも、誰も彼が助けを必要としているなんて思わない。

だって、柊は優等生だから。

強くて、真面目で、いつでも笑顔で答えてくれるから。


(……俺は、いつまでこうしていられるんだろう)


だからこそ、夜の世界はまるで全身を包み込む温泉のようだった。

星の海に浮かび、金色の狼に寄り添われると、肩から何十キロもの重しが落ちる。


「ここでは、誰も何も求めない」

柊の声は、昼間とは違って柔らかく、かすかに震えていた。

「期待されないって……こんなに楽なんだな」


狼は何も言わず、ただ彼の膝に顔をのせていた。

その沈黙が、昼の世界では絶対に得られない救いだった。


柊の輪郭が、少しずつ光に溶けていく。

昼の世界に戻る理由が――薄れていく。


(……このまま、ここにいてもいいんじゃないか)


そう思うたびに、夜の世界の景色はますます鮮やかに、心地よく変わっていった。

彼の輪郭が光に溶けそうになっている。


このままでは昼の世界に戻れなくなる――美緒はそう直感した。


夜の世界から戻った翌日。

柊はいつも通り登校してきた。

けれど、美緒はすぐに違和感を覚えた。


「おはよー」

「……ああ、おはよ」


返事はあったが、ほんの少し間が空いた。

柊は笑っている。

でも、その笑顔がどこか「間に合っていない」ように見える。


授業中、先生に当てられた柊は答えを外し、

「やっべ、全然わかんねー」と軽口を叩いた。

それはいつもと同じ反応だったはずなのに、

その後の彼の視線は窓の外に向けられたまま、しばらく戻らなかった。


部活では、後輩のシュート練習を見ながらも声をかけない時間が増えた。

以前なら熱心にアドバイスしていたのに、

今はただ、少し離れた場所で見守るだけ。


休み時間。

友人に「この後ゲーセン行かね?」と誘われても、

柊は「悪い、今日はやめとく」と短く返した。

理由を聞かれる前に、席を立って廊下へ出ていった。


そして、美緒がたまたま廊下の端で彼を見かけた時――

柊は、ほんの少し目を閉じて立ち尽くしていた。

まるで、昼間の雑音を遮断するかのように。


(……夜の世界を思い出してる?)


そう考えた瞬間、美緒は背中がひやりと冷えた。

昼間の彼の足元から、

あの星の海の光がじわりとにじみ出しているような錯覚があった。


それから数日後。

美緒はまた、柊の変化に気づいた。


昼休み、柊は教室の隅で机に突っ伏していた。

「寝不足?」と声をかけると、ゆっくり顔を上げて笑う。


「いや……夜の方が、なんか落ち着くんだよな」


その言葉の“夜”が、何を意味しているのか、美緒にはわかってしまった。

けれど、聞き返す勇気は出なかった。



部活にも変化があった。

練習中に先輩から「おい柊、集中しろ!」と声を飛ばされても、

以前のようにハッとして動き出すことはなく、

「……悪い」と短く言うだけ。


後輩のフォームを直すために熱心に動いていた姿はもうなかった。

タイムアウトの合間、柊はベンチで空を見上げていた。

――そこに星があるはずもないのに。


成績にも少しずつ影が出始めた。

満点が当たり前だったテストの点数が、クラス平均よりわずかに上程度になる。

提出物を忘れる日も出てきた。

先生が「珍しいな、柊」と笑っても、彼は笑い返すことなく、ただ小さく肩をすくめた。


家の話も変わってきた。

以前は「親父がうるさくてさ」と軽く愚痴っていたが、

最近は「もう、なんでもいいや」と淡々と言うだけになった。

その声には、怒りも諦めもなかった。


まるで、昼の世界の重さが全部、どうでもよくなっているようだった。


(……戻る理由を、なくしていってる)


美緒は気づいた。

柊の目は、昼間にあっても夜の世界を見ている。

そしてその光景は、彼を確実に昼から遠ざけていた。


柊の変化は、日に日に鮮明になっていった。

部活を休む日が増え、授業中も窓の外を見ている時間が長くなる。

笑うことはあっても、それはどこか遠くから響くような笑いで、

教室にいるはずなのに、彼はもう別の場所にいるようだった。


(……このままだと、本当に夜に留まってしまう)


そう考えるたび、美緒の胸はざわつく。

けれど同時に、あの星の海と静かな風を思い出してしまう。


夜の世界。

何も求められず、何も押し付けられない場所。

柊が金色の狼に寄り添い、穏やかに息をしていた姿。

あの時の安らぎは、確かに美緒の中にも残っていた。


(助ける……? でも、あそこは柊にとって救いじゃないの?)


現実に引き戻せば、またプレッシャーと期待に押しつぶされるだけ。

笑顔の奥に影を抱えて生きる彼を、見続けることになる。

そんな世界に、無理に戻すのは本当に正しいのか。


放課後、下駄箱の前で柊とすれ違った。

「美緒、今日は……行く?」

短い言葉に、意味は言わずとも分かってしまう。

“夜”へ、という誘い。


答えを返そうとした瞬間、美緒は息を飲んだ。

柊の瞳の奥に、あの星の光が揺れていた。

それは、昼の世界のどんな光よりも優しくて――甘い。


(……私も、行きたい)


助けたいはずなのに、同じ場所へ惹かれてしまう。

その矛盾が胸の奥で絡まり、美緒は何も答えられないまま、ただ視線を逸らした。


星の海は今夜も静かだった。

美緒は浮遊する光の花の間を漂いながら、奥へ奥へと進んでいた。

そこに、金色の狼の隣で座る柊の姿を見つける。


「……柊」

彼はゆっくり顔を上げ、微笑んだ。

昼間よりも穏やかで、重さのない表情。


その横に、もうひとり――見覚えのある影があった。

「……土生?」


土生は裸足で星の粒を踏みながら、美緒に手を振った。

「やっぱり……来てたんだ」


近づくと、彼女の周りには透き通った水の猫が何匹もまとわりついていた。

その毛並みは月光を映すように淡く光り、

土生が撫でるたびに、柔らかな水音が響いた。


「どうして、ここに……?」

美緒の問いに、土生は少し笑ってから、ゆっくり視線を落とした。


「……家って、居場所じゃないんだよね。私にとって」

「……」

「姉は優等生で、何でもできて、両親も、姉のことしか見てない」


淡々とした声。けれど、その奥には長く抑え込まれた寂しさがあった。


「私は……何をしても“まあまあ”って言われるだけ。

 怒られないし、褒められもしない。

 私がいなくても家は回るし、誰も困らない」


水の猫が、土生の足元で静かに丸くなった。

まるでその言葉を受け止めるかのように。


「だから、ここに来ると……安心するんだ」

土生は小さく息を吐く。

「……この子たち、ね。最初は警戒してたけど、今はいつもこう」

土生は猫の背を撫でる。

指先が水をすくうように沈み、柔らかく光が揺れた。


「昼の世界では……私、いなくても困らないんだよね。

 怒られもしないし、褒められもしない。

 空気みたいな存在。いてもいなくても同じ」


美緒は何も言えなかった。

土生の声は淡々としていたけれど、その奥に沈む重さが分かってしまう。


「でも、この子たちは違う。

 私がここに来ると、駆け寄ってくるんだ。

 撫でてほしそうにして、膝に乗って……」


足元で、ひときわ小さな水の猫が喉を鳴らすように水音を立てた。

土生はそっと抱き上げ、頬を寄せる。

猫の身体はひんやりしているのに、不思議と胸の奥が温まる。


「この子たちにとって……私は、必要なんだって思える」

土生の瞳がゆっくりと細められ、星明かりを映す。

「ここにいていいんだって……初めて思える」


柊が黙ってその言葉を受け止めている。

美緒は、その穏やかで危うい光景から目を離せなかった。



昼の光が、土生にはやけにまぶしかった。

教室のざわめきも、窓の外の蝉の声も、すべて遠くの音のように聞こえる。


「土生、これ……昨日の宿題」

同じ班の子がプリントを差し出す。

「あ、うん……ありがと」

土生は受け取ったが、目を通すこともなく机に置いた。


最近の土生は、授業中もノートをあまり取らなくなった。

ペンを持っていても、窓の外ばかり見ている。

目は何かを追っているようで――そこに「ここ」にはない何かを見ていた。


放課後、美緒が廊下で声をかけた。

「土生、今日部活ないんでしょ? 一緒に帰らない?」

「……ごめん、用事ある」


そう言って足早に校舎を出て行く。

その背中は、何か急かされるようで、でも軽やかでもあった。


数日後、美緒は偶然、夕暮れの公園で土生を見かけた。

ベンチに座る土生の膝の上には、見覚えのない小さな猫――

……いや、猫に似た何かがいた。

毛並みが淡く透け、光を吸い込んでいる。

それは現実のはずなのに、どこか夜の世界の匂いがした。


土生はその猫を撫でながら、誰にも見せたことのない穏やかな表情を浮かべていた。

「……やっぱり、君がいてくれるから、大丈夫」

その呟きは、美緒の耳には届かないほど小さかった。


翌日から、土生はさらに変わった。

笑顔は増えたが、それは人とではなく、何か目に見えない存在と分かち合っている笑顔。

授業中、ふと窓の外に手を伸ばす仕草。

放課後の足取りは、家ではなく――夜へと続く道を選んでいる。


美緒は気づいていた。

土生はもう、昼の世界に心を預けていない。


(……このままじゃ、戻ってこれなくなる)


けれど、夜の世界での土生の笑顔を知っている自分が、それを強く止めることもできなかった。


放課後、柊と土生と三人で図書室にいるときだった。

土生は貸出カードをいじりながら笑った。

「この本、夜の世界で出てきたやつに似てる」

柊は顔を上げ、目を細める。

「分かる。あの時の色……あれは忘れられない」


二人の間に、夜の世界の記憶がふっと立ち上る。

それは美緒にとっても懐かしいものだが、同時に胸をざわつかせる。

――その話題は、現実の誰とも共有できない秘密だ。

秘密は絆を深める。でも、現実から離す鎖にもなる。


その後、柊と土生は二人だけで帰る日が増えた。

美緒が声をかけても、「今日はちょっと用事があって」と笑い、手を振る。

その笑顔の奥には、昼ではなく夜に属する者同士だけが分かり合う合図があった。


やがて美緒は気づく。

二人の変化は、昼の世界では周囲に薄く溶け込み、夜の世界では色濃く息づいている。

昼は影を潜める時間。夜は生きる時間。

――その比率が、少しずつ反転してきている。


ある日、柊がふとつぶやいた。

「昼って……こんなに息苦しかったっけ」

それに土生が笑って答える。

「夜を知っちゃったからだよ」


美緒は言葉を飲み込んだ。

返事をすれば、その輪に完全に踏み込むことになる。

黙っていれば、二人はますます遠くへ行ってしまう。


そして、その夜――

美緒の夢の中で、遠くの水面を渡るように、二人の笑い声が響いた。

それは誘うようで、同時に引き裂くようでもあった。



美緒は水の鏡のような湖に立っていた。

湖面は空とつながり、そこに星々が落ちてくる。

その中央で、土生が両手を広げ、空を仰いでいた。


「……美緒。見て、全部、私のものみたいだよ。」

彼女は笑っていたが、その目は熱に浮かされたようだった。


「昼だと、私、ただの“明るい子”でしかないんだよね。でもここは……私を全部わかってくれる。」

水面から透明な猫が跳び上がり、土生の肩に飛び乗る。

猫は何も言わず、ただその頬を舐めた。


「ねえ……帰らなくてもいいよね? 昼のことなんて忘れて、ずっとここにいられたら……」

その言葉が湖面に響き、波紋が広がった。

波紋の中で、土生の足が湖底へ沈んでいくように見えた。


美緒は思わず叫んだ。

「だめ! 土生!」

その声が届いたのか、彼女はゆっくりと美緒を見た。


「……美緒も来ればいいのに。きっと、全部忘れられるよ。」

その瞳は、昼の世界をもう見ていなかった。





昼休み。

教室のざわめきの中で、美緒は柊の席を見た。


彼はノートを開いたまま、ペン先を空中で止めている。

視線は窓の外の空に向かい、瞬きもせず、何かを見ているようで何も見ていない。


「……柊?」

美緒が声をかけると、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「……ああ、美緒か。」

声は穏やかすぎて、逆に温度を感じない。


「さっきの問題、答え……」

美緒が言いかけた瞬間、彼は微笑んだ。

けれどその笑みは、心の奥では何も動いていない“形だけ”のものだった。


「……もう、そんなのどうでもいい気がして。」

そう呟いて、また空へ視線を戻した。


胸が冷たくなる。

(柊……戻ってきて。)


放課後、土生が廊下の端に立っていた。

人混みの中でも、彼女の輪郭だけがぼやけて見える気がした。


「土生?」

近づくと、彼女は美緒を見たが、反応が一瞬遅れた。


「あ……美緒。ねえ、今日って何曜日だっけ?」

「……木曜日だよ。どうしたの?」

「そっか……木曜日か。なんだか、昼と夜が繋がってきちゃって……よくわからなくなるんだ。」


土生はそう言って笑った。

でも、その笑顔の奥に“現実への執着”がほとんど残っていないのがわかった。


彼女の手首には、小さく淡い光の痕が浮かんでいる。

まるで夜の世界の欠片が、昼に滲み出してきたみたいに。


美緒は二人を見つめながら、息を詰めた。

(このままじゃ、二人とも……昼の世界から消えてしまう。)


昼のざわめきが、やけに遠く感じられた。

その音の向こうで、木々が囁く声が聞こえる。

(連れてく……ここはもう、君たちの場所じゃない……)


美緒は机の端を強く握りしめた。

――何としても、二人を取り戻す。



放課後の図書室は、もう閉館のアナウンスが流れ始めていた。

窓の外は夕焼けがゆっくりと紫に沈み、木々の影が長く伸びている。


美緒は「夢」「心理学」の棚を何度も見返していた。

(……やっぱり、それらしい情報なんてないか。)


ふと、棚の隅に一冊だけ古びたスケッチブックが立てかけられているのを見つけた。

図書館の本ではない。背表紙には、かすれた字で「地図」とだけ書かれていた。


手を伸ばそうとした、その瞬間――別の手が同じスケッチブックに触れた。


「……あ。」

目が合った。


黒髪の、背の高い男子生徒。

制服の胸元に、隣町の高校のバッジがついている。

彼は一瞬、美緒の顔をまじまじと見つめ、口元に微かな笑みを浮かべた。


「君も……見えてるんだな。」


その瞬間、美緒の視界がぐらりと揺らいだ。

図書室の空気が薄れ、代わりに星の海と、青白い森が一瞬だけ広がる。

男の背後には、夜の世界でしか存在しないはずの“銀色の階段”が、確かに見えた。


「この地図、夜の世界のルートだ。」

彼はスケッチブックを開き、ページを美緒に見せる。

そこには星空の下に広がる森、光の川、そして“黒い鳥の止まり木”までが描かれていた。


「……どうしてこれを……」

美緒が問いかけると、彼は窓の外を一瞥し、静かに言った。


「俺は弟を取り戻したい。君は?」


「私は友人と取り戻したい。でもどうしていいのかわからないの」


「私、早瀬美緒あなたは?

「僕は 藤堂尊だ。よろしく」


夕焼けの最後の光が二人を包み、次の瞬間、現実の音が戻ってきた。

だが、美緒の胸はもう高鳴っていた。


(……私一人じゃない。)



人気のなくなった旧道を、美緒と尊は黙々と進んでいた。

街灯は途中で途切れ、暗闇が先に口を開けている。風の匂いも変わり、どこか湿った甘い気配が漂い始めていた。


「……このあたりだと思う」

尊が小声で言う。彼の手にある地図の端は湿り、夜気に晒されて薄墨のようににじんでいた。


美緒は唇をかんだ。

境界が近い――背筋に冷たさを感じたそのとき、背後で乾いた石を蹴る音が響いた。


「誰……?」

振り返ると、小さな人影が道の端に立っていた。


月に照らされた顔を見て、美緒は息を呑む。

「……楓ちゃん?」


彼女は肩で息をしながら、それでも真っ直ぐに美緒たちを見ていた。

「やっぱり……お兄ちゃんを助けに行くんでしょう? 私も連れていって!」


「ダメ!」

美緒は強い声を出してしまった。

「ここは普通の場所じゃないの。危険すぎる。あなたまで……」


「誰?」

尊が楓をみている

「私が助けたいと思っている友人の妹なの」


妹は震えた唇をぎゅっと結び、言葉を重ねる。

「昼にいたって何もできない! お兄ちゃんが苦しんでるのを見てるだけなんて、もう嫌なの。……ずっと見てたの。お兄ちゃんが期待に押しつぶされて壊れていくのを」


美緒は言葉を失った。

隣町の男子生徒が困ったように視線を落としつつも口を開く。

「彼女・・・本気だよな」


それでも美緒は迷った。守り切れる自信なんてない。

しかし、妹が涙をこらえてはっきりと言い切る。

「ここで置いていかれるくらいなら……私、一人でも夜に行く」


そんなことをさせたら楓まで夜にのみこまれてしまうかもしれない。

美緒ははっとして、妹の両肩をつかんだ。

「……絶対に、私から離れないで。必ず守るから」


妹の目が潤み、頬を赤らめて頷いた。




三人は並んで道の先に進む。

街の音が遠ざかり、風が止む。

電灯が最後の一つを越えると、そこから先は異質な空気だった。


空は濃い紫に染まり、星の配置さえ昼と違う。

舗装された道は割れ、黒い草がひび割れから顔を出している。木々はねじれて幹を軋ませ、影が地面を這うように動いていた。


妹は美緒の手を強く握り、足を止めた。

「……ここが、夜の世界?」

「多分そうだと思う。私も起きている状態で行くのは初めてだから・・・戻れなくなるかもしれない。……でも行くんだ」


美緒が一歩踏み出し、尊が続く。楓は震えながらも、二人の背に必死でついていった。



霧が立ち込め森の中を突き進む

森の奥は深く静かだった。

虫の声はなく、葉のざわめきだけが耳に刺さる。

どこかで水が滴るような音が続き、地面には昼の世界にはない赤黒い苔が広がっている。


そのとき――木々の間に、二つの光が現れた。

金色の瞳。

じっとこちらを見つめている。

いつの日か昼間に感じた視線に似ている


楓が短く息を呑み、美緒の背に隠れる。

尊は反射的に棒切れを拾い上げた。


影から現れたのは、一匹の狐。

その毛並みは白銀に淡く光り、まるで月の雫をまとったように見えた。


狐は低く鳴いた……しかしその声は、確かに三人の心に直接届いた。

『人間が……ここに来るとは珍しい。お前たち、“闇に呑まれた者”を探しに来たのだな?』


美緒は息を飲み、前へ出る。

「……柊と土生を、そして彼の弟を助けに来たの」


狐はしばし三人を見つめ、やがて静かに目を細めた。

『ならば案内しよう。この世界は歪み、もはや我らだけでは正せぬ。……だが、お前たちに希望があるのなら――力を貸そう』


森に冷たい風が吹き抜け、狐の毛並みが揺れた。

こうして、三人と一匹は森の奥へ奥へと向かっていった。





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