前編
夏のお話です。
古びた門に誰かがやって来る。
白い半袖のワイシャツを着て、黒い制服の長ズボンを履いている。
背中には大きいリュックを背負っていた。
夏真っ盛りな今日。
気温も朝からぐんぐん上がり、外は人出もまばらになっている。
少年が門の扉を開けて入って来た。
汗が顔中に伝っている。
腕も日に焼けて真っ赤になっていた。
庭を抜けて、玄関までやって来た。
ここの家主が育てている、花や夏野菜の鉢植えが置いてある。
日差しを浴びて輝いて見えた。
「あの」
少年が玄関の鍵を開けていると声が聞こえた。
「……」
周りには誰もいない。
少年は気づいていないのか、鍵を開け、ポケットに仕舞った。
「水をいただけませんか? 主人様が水やりを忘れてしまって……」
少年はそのまま、家に入ってしまった。
「……」
声の主が黙る。
すると、また少年が玄関の扉を開けた。
スニーカーからサンダルに履き替えている。
玄関横に付いている立水栓に近づいた。
蛇口を捻る。
繋がったホースから水が出てきた。
ホースの先をつまむ。
玄関先に置いてある鉢植えに向けて水をかけた。
小さな虹が生まれる。
辺りが少し涼しくなったような気がした。
鉢植えの花や夏野菜も気持ちよさそうに見える。
水が太陽に反射してキラキラ輝いた。
一頻り水を撒くと、少年は蛇口を捻る。
1つ息をつくと、また玄関から家に入ってしまった。
少年がいなくなった玄関で、人影が現れる。
「……」
小さな少女は玄関の扉をじっと見ていた。
―――
ガラガラッと玄関が開く音がする。
「ただいまー帰って来てたんー?」
優しそうな女性の声が聞こえた。
さっきの少年が台所から顔を出す。
「おかえり、ばあちゃん」
「早かったんねー穂高」
穂高と呼ばれた少年がうなづいた。
「先生が休講にした」
「あら、そー」
ばあちゃんが明るく言った。
この家には、ばあちゃんと穂高が2人で暮らしている。
ばあちゃんが鍋に水を入れてお湯を沸かす。
今日の昼ごはんは、そうめんだ。
穂高がめんつゆを水で割って氷を入れる。
「お父さんが米送ってくれるって」
「連絡来たん?」
「うん」
「ありがとうって言っといて」
穂高の実家はここから少し距離がある。
田舎すぎるあそこには高校がない。
今年の春に、進学するためにこの町にやって来た。
今は、ばあちゃんと住んでいる。
茹でたそうめんを居間で2人で食べる。
穂高が来るまで、ばあちゃんは1人暮らしだった。
じいちゃんは穂高が小さいときにいなくなってしまった。
こんな形で孫と暮らせるとは思っていなかったばあちゃんはすごく喜んでいた。
「ばあちゃん、今日急いで家出た?」
「うん? そーなんよ。バスに遅れるかと思って」
「間に合った?」
「バスには間に合ったわー、でも支度し忘れが沢山あってねぇ……洗濯機も回してない、花の水やりもしてない……」
「……」
だからか。
穂高が合点した。
「穂高が水やりしてくれたんねー。ありがとう」
「うん……」
穂高が庭を見る。
青空の向こうには夏らしい入道雲が見えた。
視線を下に移す。
知らない女の子が立っている。
紺色の浴衣を着て、黒いおかっぱの髪型だ。
「……」
穂高は気付かないふりをした。
視線を庭から、机に置かれたそうめんに移す。
一口食べて、横目で庭をもう一度見た。
女の子は立っていなかった。
―――
暑い。
夜になっても、ジトッとした暑さがまだ残っている。
風呂に入ったのに、寝る頃にはいつも汗だくだ。
2階の自室で夏期講習の課題も終え、団扇を仰ぎながら窓の外を見ていた。
遠くの街の明かりがよく見える。
赤や青にチカチカ光る明かりが、まだ人が活動していることを表していた。
田舎の実家じゃ見れない景色だ。
「綺麗だな……」
穂高がポツリと独り言を言った。
「そうだな」
男の声が聞こえた。
目の前をチラチラと小さな花びらが落ちていく。
穂高の隣に、誰かが立った。
腰まである薄いピンク色の髪に、薄いピンク色の着物を着ている。
「……人のいないところで出て来てよ」
「今はいないぞ?」
「ばあちゃんは?」
「主人さんなら、1階の居間でドラマ見てる」
「……」
「ここは暑いなー。実家の方が涼しいな」
ピンクの男が言った。
「行けばいいのに」
「またっ、そう言う」
穂高が団扇を男に仰いであげながら言った。
「アイス食べる?」
「いいね」
「桜は、何味がいい?」
桜と呼ばれた男が人差し指を顎に当てながら考える。
「そうだな、苺味にしようか……」
「すみません」
言いかけたところで声が聞こえた。
穂高と桜が声が聞こえた窓の外を見る。
おかっぱ頭の女の子が屋根の上に立っていた。
「……」
「ああ、どうした?」
絶句する穂高とは対称的に、桜が女の子に話しかける。
「ごめんなさい。急に」
女の子が誤った。
無視していたのに。
家に帰って来た時も、お昼ご飯にそうめんを食べていた時も、気づかないふりをしていた。
また、面倒になる。
「あの……」
女の子が穂高を見た。
「水、ありがとうございました」
「うん……」
穂高が頷いた。
「やっぱり、見えていたんですね」
「いつも、無視するから」
「……」
「女の子を無視するなんて酷い奴だな。穂高は」
「穂高さんというのですね」
女の子が窓に近づいた。
「私、朝顔です」
「玄関にいる朝顔だな」
桜が笑って言う。
「はい、桜さん。こんばんは」
「ああ」
「穂高さん、折り入ってお願いしたいことがあります」
「?」
「助けていただけませんか?」
「助けるってなにを……?」
「私たちです」
「水やりか?」
桜が朝顔に聞いた。
「違います。ええと……」
「明日、来ていただけませんか?」
―――
夏期講習が終わり、穂高が家に帰って来た。
大きな門をくぐり抜ける。
朝顔が門の前に立っていた。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
小ぃぃさな声で穂高が返事をした。
そそくさと玄関へ行ってしまう。
朝顔が追いかける。
「お忘れですか?」
「……」
穂高は首を横に振った。
「待ってて」
また小ぃぃさい声で朝顔に言う。
玄関に入り、扉を閉めてしまった。
朝顔が1人残される。
少し経つと、また玄関が開いた。
半袖のTシャツを着た穂高が出てきた。
「行ってきます」
穂高が家の奥に向かって叫ぶ。
「あいー」っと小さな声で返事が聞こえた。
穂高が小さい声で朝顔に聞く。
「で……どこ行くの?」
「神社に行きたいです」
「神社?」
「はい、家を出て右の道を真っ直ぐ行って……」
「門の大きい神社か?」
桜が出てきた。
目の前を桜の花びらがチラチラ落ちる。
「いいえ、そんな大きくありません……近くにありませんか?」
「?」
「私はここの庭にしかいたことが無いので」
「俺もそんなには知らないけど」
穂高がスマートフォンの地図アプリを開いた。
確かに大きい神社のすぐ脇にもう1つ神社がある。
「これかな……」
「行ってみようか」
桜が朝顔に言った。
「はい、連れて行ってください」
「連れて?」
「はい」
―――
真夏の空の下。
自転車が走る。
時刻は15時を回った辺り。
暑さが一番堪える時間でもある。
穂高が息を切らしながらペダルを漕いだ。
横を見ると、中学校のグラウンドがある。
いつもは野球部が練習しているが、今日はいない。
静かだ。
車道を走る車さえもダルそうに見える。
自転車のハンドルが重い。前のカゴに、鉢植えが入っているからだ。
少し動いただけで、大きく傾く。
穂高の目の前で朝顔の花が揺れる。
「頑張ってください」
朝顔がひょっこり出て来て言った。
「あ"ーい」
絞り出した声で穂高が言う。
大きな神社の周りは木々が生い茂り涼しくなっている。
穂高もようやく一息ついた。
気持ちいい風が通り抜ける。
穂高がもう一度、スマートフォンを開いた。
地図アプリで検索してみる。
もう近い。
向こうの曲がり角を曲がれば見えてきそうだ。
自転車をゆっくり進めて、道の角を曲がる。
細い道だ。
車は通れない。
この道を進めば、たどり着けそうだ。
少し進むと、シャラシャラと音が響いてきた。
「?」
不思議に思いながら進むと、だんだん音は大きくなってくる。
ガラスが当たるような音だ。
鳥居が見えた。
あそこに違いない。
シャラシャラと聞こえる音も、神社から聞こえる。
鳥居の横に自転車を止めて、敷地を覗き込んでみた。
風鈴だ。
鳥居をくぐってすぐ、頭上にいくつものガラスで出来た風鈴がぶら下がっていた。
風が吹くと、一斉に揺れる。
シャラシャラと聞こえる音も、近くで聞くとジャラジャラと聞こえた。
穂高が鳥居をくぐり抜けた。
「一礼するんだぞ」
桜が小言を言う。
「ああ……ごめん」
穂高がもう一度、鳥居の前に立ち直し一礼した。
桜と朝顔も隣で一礼する。
3人で鳥居をくぐる。
気温が少し下がったような気がした。
地図アプリで見た時は、小さいと思ったが、実際に入ってみると中々の広さがある。
参道の横にある広場で小学生くらいの男の子たち4人が野球をしていた。
木が覆い茂っている。
木陰になって、遊びやすいのだろう。
風が抜ける。
「涼しい」
桜の花びらが後ろに飛んで行った。
朝顔が飛んで行った桜の花びらを見て尋ねる。
「桜さんはどうして姿を見せていられるのですか?」
「今はもう、夏なのに」
「俺は特別」
桜がニヤッと笑って言った。
「?」
朝顔が不思議そうにする。
参道を3人で歩いて拝殿までやって来た。
「あ……お金ないや」
穂高がポケットに手を入れる。
「気持ち、気持ち!」
桜が笑いながら言った。
穂高が拝殿の真ん中にぶら下がっている鈴緒を振る。
天井近くの本坪鈴がガラガラと鳴った。
両手を合わせ、目を閉じる。
「ようこそ、いらっしゃいました」
横から急に女性の声がする。
「!」
穂高はびっくりして体を仰け反らせた。
誰もいない。
「どうした?」
桜が聞いてきた。
「いや……」
穂高が辺りを見渡した。
やっぱりいない。
桜と朝顔、木陰で遊んでいる野球少年たちしかいない。
「?」
今まで気がつかなかったが、参道の両端に朝顔が咲いている。
青や紫色の花がこちらを向いていた。
かなりの数がある。
穂高が小さい声で言った。
「……朝顔咲いていたんだ」
「ああ、そうだな」
「気づいてた?」
「いやー、今、気が付いた」
今、歩いてきた道なのに、気づかないことがあるのだろうか。
参道の朝顔は時折、吹く風に揺れる。
笑っているみたいだ。
「え……」
誰か立っている。
参道の朝顔の横で、
着物を着た女の人が。
「ええ!!?」
さっきまでいなかった。
急に現れたのだ。
穂高が大きな声を出した。
野球少年が驚いて穂高の方を見る。
しまった。
穂高はまた拝殿の方に体を向けた。
スマートフォンを見るフリをする。
桜と朝顔は他の人には見えない。
自分だけだ。
ずっと悩んできた。
誰にも見えない"花"が見える事を。
変なものが見えても気付かないフリをしてきた。
「どうした?」
桜がまた聞いてきた。
「見えなかった?」
穂高が小声で聞く。
「何が?」
「女の人」
「あれが、朝顔です」
朝顔が言った。
「え?」
「だって君が……」
「私も朝顔です。あの人も朝顔です」
朝顔が真面目な顔で穂高を見る。
「!」
急に手にひんやりしたものに掴まれた。
振り返る。
さっきの女だ。
黒い髪の間から笑顔が見える。
白い顔、黒い目が穂高を見る。
「久しぶり見ました。私が見える人間」
「っ……」
「こっちに来て、一緒に遊びましょう」
女が穂高の手を引っ張った。
「ちょっ……」
「!」
後ろから桜の花びらが舞い込んできた。
大量に溢れ出てくる。
目の前が桜吹雪で真っ白になった。
「桜? 夏に?」
女が怪訝な顔をする。
「辞めとけ」
穂高を後ろから桜が引っ張った。
女の手が穂高から離れる。
「逃げよう」
桜が右脇に朝顔を抱え、左手で穂高の手首を掴んだ。
参道を一気に走りだす。
「遊ぼうよ」
女が追いかけて来た。
晴れているのに、真夏なのに、
暗く、寒く感じる。
そんなに長く無かった参道が今は長い。
ゆっくり女が進んで来る。
白い顔がこっちを見ている。
ジャラジャラ聞こえてきた。
鳥居が見えてくる。
風鈴が風に乗り揺れている。
短冊が暴れていた。
「――」
声が聞こえない。
風鈴の音でかき消される。
3人が鳥居をくぐり出た。
一気に静かになる。
太陽が容赦なく照りつけている。
追ってきた女の姿は見えない。
狭い道に穂高が乗ってきた自転車が1つ置いてある。
「ごめんねー」
「あ、すみません……」
狭い道に手押し車を押してきたお婆さんとすれ違う。
穂高の頬に汗が伝った。
風鈴がシャラシャラと鳴っている。
―――
晩ごはんを食べ終え、穂高は風呂に入っていた。
夏の風呂の設定温度は39度、それでも熱い。
頭にタオルを乗せ、今日の神社で起きた事を考えていた。
「穂高さん」
急に朝顔が窓から顔を出した。
「どわあ!!!」
びっくりした穂高が大きな声を出す。
頭に乗せたタオルが落ちてしまった。
「なーにしたーん?」
居間からばあちゃんの声が聞こえる。
「なんでもない!!」
穂高が大きな声で返答した。
窓から出てきた朝顔を見る。
「な、なに……?」
小さな声で聞いた。
「今日の神社の事です」
「う、うん」
「あの人を助けてほしいのです」
「……あの女の人を?」
「はい」
「あれって幽霊じゃ……」
「あれは朝顔です」
「……君と同じ?」
「そうです。同じ朝顔です」
「種が分かれて、別々になりましたが」
「同じなんです……あの人は私」
「……」
「……と言ってもなぁ」
助けろと言われてもピンと来ない。
映画に出てくる幽霊のような怖さがあったが、特段困っているようにも見えなかった。
それに……自分に何ができると言うのだろう。
「私たちが見えると言うことは"花守"なんですよね?」
「はなもり?」
「お願いします」
朝顔が窓からいなくなってしまった。
風呂場が静かになる。
穂高は風呂から上がった。
―――
パジャマ用のTシャツに着替えて、ばあちゃんのいる居間にやって来た。
ばあちゃんはテレビを見ている。
穂高は居間を通り過ぎて、台所に入った。
冷蔵庫を開けて麦茶の入った冷水筒を取り出す。
コップに入れて飲んでいると――
「ありゃまー」
ばあちゃんの抜けた声が聞こえてきた。
なんだろう、と穂高が居間に戻る。
ばあちゃんの視線の先はテレビ。
「速報」と赤い四角に白い文字で書かれていた。
「ほら、ここの近所だよ」
「小学生の子がいなくなってしまったんて」
「え……」
テレビに映っているのは、まさに今日行った、あの神社。
LIVE映像なのか、暗い境内に警察や報道陣が立っているのが見える。
「速報」の文字の隣には「行方不明の小学生」の文字。
テレビの画面を食い入る様に見る穂高にばあちゃんが聞いた。
「穂高ここ知ってるん?」
「……今日……ここに行って……」
「……そうなん? 小学生の子いた?」
「野球してた子が……」
頭の中で、あの女が出てくる。
「遊ぼう」と言っていた。
自分の事が見える人間を久しぶりに見たと。
それは、紛れもない穂高のことだ。
でも、
でも、
あの野球少年たちの中に同じ様な子がいたら?
――「遊ぼうよ」
鼓動が速くなる。
――「助けていただけませんか?」
穂高が踵を返した。
ばあちゃんが反応する。
「どうしたん?」
「ばあちゃん、ちょっと出て来てもいい?」
「……夜の神社はダメだよ」
「……」
「変なもんが来るよ」
「……分かった」
2階にある自分の部屋に飛び込む。
桜がベットの上で胡座をかいていた。
「おっ どうしたんだ?」
慌ててやって来た穂高に驚いた。
「今日行った神社に行きたい」
「え? 真っ暗だぞ?」
「今じゃないと……」
「落ち着け、どうしたんだ」
桜が穂高を諭す。
「……今、ニュースで……あの神社で、遊んでた子どもが行方不明になったって……」
「……それは……」
「行かなきゃいけない」
桜が頭をかいた。
「分かったよ」