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春よ、春よ

作者: けっき

 雪どけの季節に僕たちは出会ったね。早春の、晴れても薄い青空の下、君はまあるい頬の上の黒い瞳をキラキラさせて僕の姿を見上げていた。

 でもそれを思い出すのも今夜限り。

 僕はもう、散ってしまおうと決めたから。


 ◇


 千春、と、いくらか古風な名をつけられた少女はその名に相応しく古ぼけた一軒家に住んでいた。家の庭には樹齢百年とも言われる桜の老木が立っていて十軒隣からでも見事な枝ぶりが拝めたという。

 千春は家で一番幼い子供だった。兄姉がテレビやゲームに夢中になっている間、桜の根元で人形遊びをして過ごした。桜もよくよく少女の面倒を見るようで、ほんの時々、風もないのに枝葉をざわめかすことがあったそうだ。


 ◇


 桜の由来を少し話そう。少々不思議なこの桜、実はうんと若木の頃に、西洋かぶれの巫女の手でとある魔法をかけられていた。

 それは人語を解するようになる魔法。即ち若木には思考が与えられたのだ。

 植物とはいえ桜にも生来の意識はあった。だがそこに複雑な言語を扱う力が加わったことにより、桜は一気に人格と呼んでいい自己認識を得るに至ったのである。

 しかし桜は孤独だった。植木屋に甲斐甲斐しく世話されて自慢の庭木と称賛されても孤独だった。せっかく言葉を獲得したのに語るための口はなく、魔法をかけた魔女もとうに海の向こう側だったからだ。

 けれどもついに桜のうろを埋めてくれる運命の女が現れた。それが千春だ。

 千春は五つのときにこの街へ越してきた。一歩庭に入るや彼女は「今度の家には桜があるの!?」と喜んだ。弾んだ声には利発さが、赤らんだ頬には生命そのものの活発さがはっきりと刻まれて、いずれ誰より美しく咲き誇ることが予見された。

 桜はいつも春のほんのひとときしか人に顧みられなかったから、黒い幹と枝しかないつまらぬ時期の己に笑顔をくれた少女にたちまち心奪われた。

 桜の傍らで千春はごっこ遊びをし、お気に入りの本を読む。物語からふと目を上げて桜を見つめるその瞳。星を湛えた小さな宇宙が桜は何より好きだった。

 光差す美しい目は桜を遠くへ連れていく。それはどこでもない場所で、千春の中にしか存在しない世界だった。

 千春のほうも負けず劣らず桜のことが好きだった。待ち合わせした友達を待たせていても家を出るとき老木に目をやらない日はなかったし、花弁の舞い散る季節になれば大切な落とし物を拾い上げるように花のいくつかを摘まんだものだ。


 桜と千春は出会いの初めから相思相愛であった。

 人間のように足を持たず、玄関に鍵をかけるだけでは気軽に飛び出せぬ桜にとって、千春は世界そのものだった。


 ◇


「あなたやっぱり私の言葉の意味わかるでしょう? そうやって私にだけ枝を揺らすのはどうしてなの?」


 ◇


「ねえ、見て、草花図鑑を借りてきたよ。桜のことも載ってるんだ。ここに書いてあること全部わかったらもっとお話しできるかな? 私あなたのことが知りたい。あなたが話す言葉を聞きたい」


 ◇


「私に応えて枝が動くって人には言わないことにしたの。気味悪がられてあなたが切られちゃったら嫌だし。でもこれからもこっそりお喋りしようね」


 ◇


 セーラー服に袖を通す歳になってもふたりの蜜月は続いていた。二階の角に念願の一人部屋を貰った千春は窓を開け、すぐ側に迫る樹冠にそっと囁いた。喜びも、悲しみも、迷いも、不安も、将来の夢も全部全部。だから桜は誰より彼女を知っていた。千春の胸に小さく恋が芽生えたことも。


 セーラー服を脱ぐ歳になると千春は桜にほとんど何も話さなくなった。たまに窓を開けて溜め息をつく彼女に桜は必死で枝先を揺らしてみせるが生返事。今度はどんな若草が彼女をたぶらかしたのやら、痩せてやつれて植物学の勉強にも身が入らない様子である。新生活が始まるや桜と千春は今までになく遠ざかった。

 桜は毎日悲しかった。いっそ散ろうかと思うほどに。

 桜は毎日悲しかった。心に誰がいてもいいからこちらを向いてほしかった。

 翌年の桜は懸命に花をつけた。咲けば桜は否応なしに目に入る。千春一家は総出で庭に花見に来て、口々にその華やぎをほめそやした。


「綺麗ねえ、本当に綺麗」


 まるでもう二度と拝めぬ宝物のように潤んだ瞳に見つめられ、桜の心は複雑だった。

 花の季節だけ花のいたことを思い出す、大勢の人間と同じに彼女もなってしまったのだろうか。

 大学での勉強は僕への夢を却って醒ましてしまったのか。言語を解する樹木などないと。


 ◇


 千春が倒れたのはそれからすぐのことだった。

 桜は見た。普段は衣服に隠されていた、病的に痩せ細った彼女の身体を。

 桜は見た。門前でサイレンを止めた白い車と白衣の隊員を。

 一家全員救急車に乗り、帰ってきたのは父と兄と姉のみだった。彼らは大きな荷物を抱え、深刻な表情で自家用車に乗り込んで、病院のあるらしいほうへと消えていった。

 桜はすべて理解した。千春が帰ってこないこと。悪い虫がついたのは彼女の内臓だったこと。花開くはずだった蕾はこのまま萎れてしまうこと。

 桜はひとり立ち尽くした。無人の家の無人の庭で。

 桜の前に妖しい女が降り立ったのはその夜のことだった。


 ◇


「桜よ桜、いい色になったねえ」


 しわがれた声が闇に溶ける。桜の根元にいつの間にか黒づくめの老婆が一人立っていた。百年前、この樹に魔法をかけた魔女だ。


「あたしはずっと桜のホウキが欲しくてねえ。お前さん、人の言葉を覚えたからには欲望だって覚えたろう? 願いを一つなんだって叶えてやるからあたしのものになっておくれ」


 勝手に過ぎる台詞を吐いて老婆は桜に身をすり寄せた。けれども桜は拒まなかった。けらけらと面白がるような魔女の笑いがすべてだった。


「あんたがあたしを呼んだんだろう?」


 ◇


 千春はハッと目を開いた。こんなところにも桜が咲いていたのねと、パッとそこだけ鮮やかなよその庭に眩しく目をやる。かつて千春の家にもあった古い木を思い出しながら。

 花もさかりの春の日に散歩なんてしていると急にあの木の面影と出くわして惑ってしまう。

 余命宣告を受けていた千春の癌が綺麗に消え、ついに帰宅を許可された五月、庭に見慣れた桜はなかった。家族の誰も庭木に構う余裕などなかったせいだ。桜は天狗巣(テングス)と呼ばれる病魔におかされて完全にだめになっていた。

 天狗巣とは木にできた瘤から異常な量の小枝が伸び、花が咲かなくなる病気だ。その形状から西洋では魔女のホウキと呼ばれている。

 千春の桜はいくつもホウキをこしらえていた。天狗巣は切り落とした枝からも伝染るから結局桜そのものを葬らなくてはならなかった。

 今あの家には木の生えていた痕跡すらない。あとも残さず千春の桜は消えてしまった。

 この寂しさを、己に開いた大きなうろを、どんな言葉で形容すべきか千春にはわからない。桜が彼女に「千度も春が巡り巡るように」願ったことも知る由もない。


 それでも彼女は春が来るたび、桜が咲くたび、老木を偲ぶだろう。

 確かに同じ時間を過ごした誰かのことを。

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