08 めでたしめでたし。
かくして、よくわからないままはじまって終わったマリエルちゃん暴走事件は収束したのである。
めでたしめでたし。
――とは、もちろんならないわけで。
「お兄様、私、怒っています。私がどれだけ『けせら先生』の作品を愛していたか、いいえ、けせら先生ご本人を慕っていたのか、それを対価に勉強を押しつけたことのあるお兄様であるならおわかりであると思いますが」
「……はい、それについては申し訳ないと」
「それを! お仕事として斡旋したのはグッジョブだと思います。思いますけど、私に一言くらいあってもよかったのではありませんか?」
「仰る通りです。でもマリエル、さっき彼女と友人になると言ってはいなかったか?」
「それとこれとは別なのです! お友達になれたって、尊敬はしますし憧れもしますし崇め奉りもします!」
正座するイケメン兄と仁王立ちで不満を伝える美少女天使な妹。
なんというか、さっきまでの緊迫した空気からするととても平和な光景で素晴らしい。
でもまあ、知る限りこの兄妹には圧倒的に腹を割った対話が足りてなかった気がするし、いいきっかけにはなったのかもしれない。
それが自分のらくがきなのはちょっといたたまれないけど。
と、思ったところで傍らに立つ人物に視線を向けてなんとも言えない気持ちでため息をこぼした。
「………………」
お兄ちゃんを叱るマリエルちゃん。を、瞬き一つせずにガン見してるサラ先輩。もう、あれだ、そういう風にしか見えないけど、突っ込んでも多分意味ないだろうし、うん、害はないはずだし。だからこそこの人はマリエルちゃんの専属メイドさんが出来ているのだろうし。うん。
どのくらい時間が経ったのかはわからないけれど、まだまだ続くであろう説教を横目に、わたしも部屋に戻って一眠りしようかしら。なんて伸びをする。
「リディーナさん、あなたは明日の業務を変更して一日マリエル様についてもらえませんか?」
「……その心は?」
「あなたが傍にいるとマリエル様のいろいろな表情が引き出されるので大変眼福です」
「お断りします」
サラ先輩、もう隠しもしない方向でいくらしい。
そもそもわたしの担当って、掃除洗濯ばかりで貴族令嬢のお付きの仕事なんてやったこともなければなにをするのか想像も出来ない。あれかな、着替えの手伝いとかお風呂のお世話とか? さすがにハードルが高い。
マリエルちゃんが普段着ている服は多分なんか色々な作法とかあるんだろうし。
お友達であることと使用人であることはイコールにはならないので、業務中はきっちりメイドさせて頂く所存ではありますけど。職権乱用がすぎるんじゃないかしら?
「いえ、マリエル様のお世話は私がやります。そうではなく、ただ一緒にいて欲しいのです。おそらく今夜の騒動をあなたが収めたことで、使用人たちの中であなたがセルヴィス様の婚約者筆頭である。という噂に尾びれ背びれ胸びれをつけてまことしやかに囁かれるようになるでしょうし」
「事実無根なので否定して回ります! せっかく見つけたいい職場なのに、根も葉もない噂で無職になるのとかいやですし!!」
というかそんな普通のトーンでしゃべらないで欲しい、いくらセルヴィス様が人格者だとしても、そんな噂を聞けばこちらの待遇を悪い方向で見直すかもしれないじゃないですかー。
こちとらほんのりとそうかなー、そうかなー、と自覚しはじめている秘めた思いを、ひっそり殺して収めようとしているというのに。
貴族というものは婚姻によって家の力を強めるものだと前世読んだ創作物で言っていたし、後ろ盾もなにもない平凡人間がどうこうなろうというつもりもない。そもそも相手にもされないだろうけど。
いまでもわたしの目標は、手堅く堅実に自立すること。なのだから。
「そんなに心配しなくとも、その噂なら俺も把握している」
「えっ、てことはわたしクビになります?」
「……ならない。君はすぐにその心配をするが、元の世界ではそんなに当たり前のように解雇されるものなのか?」
マリエルちゃんのお説教が終わったのか、呆れたような顔を隠さないセルヴィス様が立ち上がりながらもわたしを見遣る。
その傍らを軽い足音を立てながら通り抜けたマリエルちゃんが、わたしの腰元に飛び込んできた。
「リディーナさん、ご迷惑をおかけしてごめんなさい。怪我はありませんか?」
「ちょっとびっくりするような運ばれ方はしたけど、うん、多分大丈夫だと思う」
ぎゅううと抱きついてくるマリエルちゃんを役得とばかりに抱き返して撫でていれば、強烈な視線を感じてしまう。確認しなくてももう誰かはわかるので、マリエルちゃんに集中しよう。見たら絶対に突っ込んじゃうし。
わたし、そんな突っ込みとかするタイプではなかったはずなんだけどな。
「……多分、わたしの知る限りはそんなホイホイ解雇されないはずですけど、この世界というか、身近なサンプルが生家だったので。解雇されてたのかはわからないんですけどわたしのご飯持ってきてくれてた人、多分けっこうな頻度で変わってたので」
ああ、そうか。
ここでまた一つ、新たな気づきを得た。
「わたし、そういえば、この世界の常識とか当たり前をしらないままなんですね」
このお屋敷で働いていても作業は基本一人だし、マリエルちゃんにあれこれ教えてもらったりもするけれど、この世界のオモシロ雑学がメインでたとえば法律であったり、この世界の人が当たり前に知ってるだろうこともわたしにとっては知らないことばかりだ。
なんとなくでやってはこれたけど、多分そのうちめちゃくちゃ困りそうな気がする。
「なら、俺が教えよう」
「はい?」
「君には色々仕事も任せているし、一般常識を知らない女性の教育を外部の家庭教師に頼むわけにもいかないからな」
「いっそ本当にお兄様の婚約者になっていただいて、貴族教育の一環でという名目にされては?」
「はいい?」
マリエルちゃん? どういうことなのマリエルちゃん?
小首をかしげていいこと思いついたとばかりに笑みを浮かべる姿は可愛いけど、言っていいことと悪いことがありましてよ?
「リディーナさんをお義姉様とお呼びできるのは美味しいなと思いました。お友達兼お義姉様でダブルで嬉しい」
「マリエルちゃん??」
そんな理由で大事なお兄様の結婚相手に推薦してはいけないと思います。
「するしないは別にして、カコモチと婚約結婚する貴族というのは多いんだ。最初に説明していた通りカコモチには貴族と同等の権利が与えられているし、その技術を取り入れたいと関係を持ちたがる家も多い。あとは単純に保護して生活を共にするうちに恋愛感情が芽生えたりすることもあるな」
「…………なるほど?」
でもそれは一般論で、わたしたちには当てはまらないお話ですよね?
なんて思いながら聞いていれば、腰に抱きついたままのマリエルちゃんがそっとわたしの服の端を引っ張ってきた。
「お兄様、あたしのこともあってまだ婚約者がいないんです。もうとっくに結婚していてもおかしくない年齢なのに。どうです? お兄様、顔も性格も悪くないと思いますし、お友達兼可愛い義妹も出来ますけど」
「…………どういうセールスなの」
ちょっと心が揺れちゃうからやめてやめて。
こういうのはその場の勢いで即決してはいけませんし、アピールも駄目です。
「……一応わたしも、恋愛結婚に夢を見てる口でしてね。そもそもセルヴィス様も困っちゃうだろうし、マリエルちゃんが言うとその気もないのに検討はじめそうだからやめよう?」
やんわりと伝えてみれば、悪戯っ子みたいな笑顔が返ってきた。
「恋愛なら、いいってことですか?」
「……可能性のひとつとしてね。やっぱり好きになって、好かれて、家族になりたいって難しいけど夢見ちゃうじゃない。でもわたし、この世界では半端者だし身元も保証されてないから。そういうこと考えてる場合でもないっていうか」
現状それは無理なので、いつかの未来にでもそういう相手と出会えたら嬉しいけど。
「じゃあ、お兄様がリディーナさんのことを好きになったら可能性も?」
「――」
そうだね。
うっかり言葉にしかけて我に返った。
ありえない、ないです無理です想像すら出来ない。
というかちょっと待とう、今日はちょっと色々ありすぎて思考回路がふわふわしている気もするし、変に考えちゃいけない案件だこれ。
冷静になれ。
そう自分に言い聞かせていれば、疲れているのだろうマリエルちゃんが可愛いあくびをこぼした。
魔力暴走というのはよくわからないけど、彼女も、セルヴィス様もきっと疲れているだろうし、解散した方がいいんじゃないのかな。
「冗談はともかく、今日はもう休んだ方がいいんじゃないかな。マリエルちゃん、目が半分閉じちゃってきてる」
半目でも可愛いけど。
ほっぺのあたりをちょっと撫でればくすぐったそうに身をよじってふにゃんと笑う。
スマホがこの世界に実装されたなら、最高画質の動画で残したい。
「……リディーナさん、いっしょにねません?」
ほやほやした舌足らずな声のお誘いには正直ぐらりとくるけど、それはいけない。ご当主妹君と同衾朝チュンはわたしの立場ではあり得ない許されない。多分。というかこれは外堀だな。ダメ絶対。
吹っ切れてすっきりした様子なのはいいけれども、油断も隙もないな。
「一緒には寝られないけど、明日、もう今日かな。改めてちゃんと会おう。色々話せてなかったお詫びも兼ねて」
「本当ですか? 絶対ですよ!」
眠そうな表情から一転ぱっと目を輝かせたマリエルちゃんだけど、やはり疲れと眠気には勝てなかったのだろう。ゆらりと傾いだ小さな身体をサラ先輩が抱きかかえるようにして受け止めた。
「マリエル様、リディーナさんは明日一日マリエル様と一緒に過ごしてもらいますので、安心してお部屋へ戻りましょう」
わたしにした俵担ぎではなく、きちんとした抱っこでマリエルちゃんを抱え上げたサラ先輩の言葉に、何事かを返してマリエルちゃんの身体はくったり力を抜いた。
「では、私もこのまま下がらせていただきます」
「ああ、ゆっくり休んでくれ」
セルヴィス様に一礼をし、わたしには朝準備ができ次第マリエルちゃんの部屋へ来るよう告げて、サラ先輩は執務室を出て行ってしまう。
……大丈夫だよな、サラ先輩。
意外な一面がみえてしまってちょっと心配になってしまったけれど、セルヴィス様がなにも言わないのだから平気に違いない。
「それじゃあ、わたしも部屋に戻りますね」
お疲れさまでした。
そう一礼して部屋を出ようと思ったのに、指先を捕まえられてしまった。
誰に? って、室内にはもうわたしとセルヴィス様しかいない。
「言動が面白いところ、年下であるマリエルに対して誠実なところ、会話の節々で言質を取らせないようにしている実は抜け目のないところ」
「え?」
「責任感があり、こちらの意図を的確に読み取ろうと努力してくれるところ、確固たる自分の意思を持っているところ、美味しそうに甘味を食べている表情は可愛らしいし、屈託なく俺を褒めてくれたところは正直胸をくすぐられた」
「セルヴィス、様?」
突然なんだ。なんだこの雰囲気。
暗い部屋の中で真剣な表情が真っ直ぐわたしを見据えていた。
なんだこれ、まるで。
「君にとっては、恋と呼ぶにはまだ足りないかもしれないが、俺は君のことを好ましく思っている」
「なっ、なななななな、な、に?」
「率直に言えば口説いている。その気がある。ということだな」
しれっと告げられたワードはあまりにも予想外で、いやいやいやと後ろに下がりたいのに存外強い力がそれを許してもくれなかった。
「くどっ!? 別に、わたし、そんなことしてもらわなくても、行く先なんてないんで当面こちらにご厄介になるつもりですけどっ?」
「それはもう確定事項にしてるからいいんだが、なにかある度に解雇に怯える様をみるのも可哀想だし、いつ出て行ってもいいと思われているのも腹立たしいものがあるなと、そう思ってしまったんだ」
捕まったままの指先がするりと持ち上げられて、そこに生暖かい吐息が触れる。
口唇が触れるギリギリのところで、それは止まったけど。
「っ――」
いやいや待ってなんで急にこんなことになってるの。
「マリエルが婚約者にと言ったときに、君が俺の隣にいる姿を想像したらいいなと思ったんだ。ふたりで町を歩いたときのような屈託のない笑顔で傍にいて欲しいと。そう思ったら、そういうことなんだろうと気づいた」
「あ、の、ちょ」
「リディーナ嬢。いや、リディーナと呼んでも?」
セルヴィス様との距離が一層近づいて、耳元に囁かれる。
低く濡れた声に背中から腰にかけて電気でも通ったような痺れが走った。
それでも彼の身体は、わたしの指先を捕まえるだけでそれ以上の接触はしてこない。
「っ、っ、っ、た、タイム! で!」
咄嗟にバックステップで距離を取れば、今度はするりと指先が解放された。
指先がじんじんと熱を持っているように熱くて、かばうように胸に抱き込んではみたけれど、それでも全然熱が引いていかない。
「あっ、あのっ、いったん持ち帰って検討させてもらいたいんですけどっ」
みっともなく声が震えてしまったのは、経験がないからか。
わたしの様子にいっそ腹でも抱えて笑ってくれればいいのに、熱を帯びた瞳は柔らかいものを愛でるように優しくて、呼吸の仕方さえわからなくなってしまいそうだった。
「出来ればこのまま頷いてもらいたいところだが、逃げたり避けたりしないでもらえるなら多少は譲歩しよう。俺もマリエルを抑えるのにかなりの魔力を消費したせいで、感情の制御がうまく出来ていないところもあるしな」
「……魔力って、使うとそういうの、あるんですね?」
「精神力の強さが魔力制御とイコールといっていいくらいだからな。だからまだ精神的に未熟なところのあるマリエルは、暴走しやすくなる」
「逆を言えば、気持ちが安定していけばあんな風に暴走しなくなるってことですね」
とはいえ、そうなるための手段なんていまはまだぱっと浮かばないけど。
「そういうところだよ」
「……なにがです?」
「リディーナを好ましいと思った最初にきっかけかもしれない。君の境遇だってなかなか大変だっただろうに、すぐにそうやってマリエルのことを一番に考える」
「……っ」
「感情がすぐ表情にあらわれるところは可愛いけどな」
許されるなら大声でからかわないでくださいって、そう叫びたい。
でも、わたしはもう知っているんだ。
変なからかいや冗談でないことくらいは。
この人はいつだってどんな相手にだって誠実で、わたしを揶揄うために、こんな性質の悪い冗句を口にしたりしない人だと。
わたしだって、そういうところがいいなあって思ったり、したのだ。
思春期特有の憧れに近い淡い恋心を楽しんで、それで満足するだけのつもりだったのに。
真っ赤になっているだろうわたしをじっとみつめていたセルヴィス様が、その形のいい口唇をふっと持ち上げた。
「本当に、真剣に検討してもらえるのなら待とう。ただじっと待つのは性分じゃないから、口説くことは続けさせてもらうが」
「…………手加減とか、して欲しいんですけど」
追撃がえぐいです。
こんなところで仕事が早い男の人ムーブしないで欲しいんですけど。対マリエルちゃんのポンコツ具合は見る影もなくて、もうなんかキャパオーバーして涙目になってしまいそうだ。
「君が可愛いことをする限りは、無理だな」
首をかしげて真顔で言い切りやがりました?
どこの少女漫画のヒーローなの。本当手加減して欲しい。わたしも無理。
「さしあたって、部屋まで送らせてもらっても?」
「外堀! ダメ! 絶対!!」
大声出さないとダメだこれ。
勢いで部屋から出れば背中に届くのは押し殺したような笑い声。
この人、こういうところがあったのか。
善人だと思ったのに、とんでもないドS。
そりゃあ優しいだけで領地運営だのなんだのは難しいんだろうけど。
「それじゃあ、今日は本当にお疲れさまでした! おやすみなさい!」
勢いのまま大声で言い切って扉を閉めて、そのまま駆け足で本邸を出る。
律儀に挨拶を忘れない、そういうところがたまらないんだ。
そんな声がドアの隙間からこぼれた気もしたけれど、気のせいだって思うことにしよう。
この顛末は自分でももう火を見るよりも明らかだけど、もうちょっとだけ抵抗させて欲しい。だって照れるし恥ずかしい。
リディーナ、十七歳。
自立を目指して地に足ついた異世界転生生活をしたいだけだったはずなのに、一筋縄ではいかなそうな気配にただただ戸惑うしか出来ません。
なんとかなる。なんとかなる。
口の中で何度も何度も呪文のように呟きながら足早に女子寮の自室へと戻った。
オレたちの戦いはこれからだ!
そんなテンションで明日からの日々に思いを馳せてみたけれど、仕事の早い雇用主と天使で意外とちゃっかりしている美少女な友人の包囲網から逃げられる気がしない。……逃げたいわけでもないんだけど。
でも、いまはまだ。
突然の展開に布団をかぶって唸ることくらい許して欲しい。
予想通りというかなんというか、共通の目的のために手を組んだ兄妹の包囲網によって、羞恥と照れから来る抵抗なんてほぼないものとなり、一週間後にはしっかりきっちり言質も取られ正式な婚約を交わしてしまうことになるんだけど。
それはまた、機会がありましたらと言うことで。
異世界転生してそこそこ不幸な目にはあったけど、最終的にしあわせだからそれはまあよかったかなと、そんな風にわたしは思ったのだ。
おしまい