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08 っぴ!!



 しばらく屋根の上でぎゅうぎゅうと抱きしめられていたかと思えば、そのまま抱き上げられてサラ先輩に引き続き高所からノーロープで下りるという荒業を決められたのが数分前のこと。

 肩にかつがれてるときと比べて、お姫様抱っこで視界が上向きだったので怖さは軽減されていたし、はしごでゆっくり下りるよりは多分ましだったろうから文句なんてないけれど、前振りくらいは欲しかったかなとは思いました。

 さておき。


「………………これは?」


 連れてこられたのは本日昼から来る予定だった勉強部屋で、用意されたままの椅子に座らされ、目の前の机の上には一枚の紙とペンが置かれた。

 座るわたしの傍らには、机の上にテストを置く先生のようなポジショニングで立つセルヴィス様。

 目の前に置かれた仰々しさえある高そうな特殊紙には、公文書にありがちなデザイン性溢れる大きな印が押されていて、一番目立つところには「婚約証明書」なる言葉が印字されている。

 そして下の空欄には先ほど読んだ手紙と同じ筆致で、セルヴィス様の名前が書かれていた。


「これは?」


 再びの問いかけに、セルヴィス様はあっさり婚約届けだな。と答えたけれど。

 

「え、この世界てごくごく普通の恋人関係すっ飛ばしてまず婚約するんです?」

「……そういうことも、ある」

「めちゃくちゃ濁す答え方じゃないですかー」

「嘘をつきたいわけではないからな」


 そうは言いつつ、保留を許してくれなさそうな気配は察している。

 いやでも急展開じゃないのかな、だって関係を改めましょうで一歩踏み出せたところだったのに、婚約。

 婚約ってなんだっけ、結婚しますの前段階。この世界においてはそれ以外に意味もあるのかな。

 わたしにとってのメリットやセルヴィス様にとってのメリットなんかも?

 聞けば多分答えてくれるだろうし、それにわたしも納得するだろう。そう思ったら、答えはすぐに出た。


「まあ、いっか。書きまーす」


 最初こそ婚約という言葉の強さに躊躇したけれど、わたしはとっくにこの人と一緒にいようと腹をくくってる。その関係に想定と違う名前がつくくらいなら別に問題はないかなって。

 名字はないのでセルヴィス様の名前の下にはリディーナとだけ記名して、これでいいです? と、証明書を差し出した。


「って、自分から書かせておいてびっくりしないでくださいよ」


 署名までしているくせに。

 ぽかんとわたしを見下ろす顔にそう言ってやれば、すまないと言いつつあっさりわたしの手から書類は回収される。


「そのつもりはある。という意思表示ついでにあわよくばとは思ったんだが、こうもすんなりサインしてもらえるとまでは考えていなかった」

「素直にぶっちゃければいいということでもなくてですね」

「ふっ、君のそういう打てば響く物言いはとてもいいな」


 突然の破顔にいまそんな面白い会話してましたっけ? と、聞けば、さらに楽しそうに笑われてしまう。解せぬ。


「………………早まったかな」


 サインした書類を視界に入れて呟けば、ふむ。と、セルヴィス様がそれをひらり揺らす。

 あれかな、気持ちが定まってないなら待つ。とか言ってくれるのかな。

 そんな想像はあっさりと裏切られてしまうらしい。


「残念だが悪い男に捕まったと思って諦めてくれ」


 スッとセルヴィス様の手から書類が消えた。魔法みたいだ。なんて、魔法がある世界の魔法を使える人相手になに考えてるんだわたし。


「これからも末永くよろしく、婚約者殿」


 あ、もしかして書類の受領まで済んでしまった感じです?

 口の端をあげるちょっと悪そうな笑みにこんな顔も出来たんだなあなんて、正直ちょっと見惚れていて反応が遅れた自覚はある。

 ぼんやりしてる間に、髪の先をさらりと捕まえられて屈んだセルヴィス様が口唇を落とした。


「って、え、なっ、な」


 びっくりしたけど椅子の背もたれに乗せられた手が、わたしがそこから逃げるのを許してくれない。

 えっ、椅子ドン? いやでもドンはされてない、でもわたしの心臓がどん! って言ったからやっぱり椅子ドンだなこれ。


「可愛い顔で見つめられていたからそういうことだと思ったんだが、違ったか?」


 色気ーーーーーーー!!

 セルヴィス様の口唇が触れたのは髪の毛だけだけど、眼前で目を伏せてこちらをうかがう表情は男の人なのにひたすら艶めいていた。

 わたしが色気取り締まり警察なら即刻逮捕だわこんなん! いや待ってお巡りさんプレイとかそんなの考えちゃうだめな脳ミソ止まって!

 ひとりてんやわんやするわたしと、あっさり色気をしまって笑いを噛み殺すセルヴィス様。

 ……もしかしなくても、これ。


「からかいました?」

「本心ではあるが、リディーナの反応がよすぎて」


 隠さない笑いに、そりゃあ笑顔がみたいとは思いましたけどこういうことじゃねえ! とばかりにわたしは拗ねた。とてもわかりやすくだ。

 というかなにを言っても綺麗に打ち返されてしまいそうな予感があったのもある。

 ぷいとそっぽを向くという反抗になんらかのアンサーを期待したわけではもちろんなくて、どちらかと言えば時間稼ぎの意味合いが強い。

 腹はくくったけれど、こういういかにもな接触をすんなり受け入れられるほど、場慣れてもないし羞恥心も消えてはいないのだ。


「揶揄って悪かった。というか、俺自身自分にこんな一面があったことに驚いている」

「そんな風にはみえませんけど」


 むしろ、全力で遊ばれているような気さえする。

 どうしていいかわからないまま一度はじめてしまった拗ねてる振りを続けつつ、このやり取り自体も恥ずかしいな? って気づいてどう終わらせるか悩んでいたら、わたしを閉じ込めていたセルヴィス様の腕が離れたかと思えば、床に膝をついて目線を下からすくい上げるようにして合わせてきた。

 大きなてのひらが膝の上に置いていたわたしの手をそっと包んで、そう言えば、許可を求められずにこうして触れられたのはさっきが初めてかもしれない。

 そうか、気持ちを伝えて受け入れてもらうってこういうことなんだ。

 手を伸ばしたら無条件に受け入れてもらえて、自分も受け入れることを許し合える関係。

 どこかくすぐったくて、嬉しくて、照れくさいような気持ちで見下ろすセルヴィス様の表情が、きらきらと明るいのはだからなのかもしれない。


「リディーナに受け入れてもらえて浮かれているんだ」

「……」

「どうしたら機嫌を直してもらえるだろか。俺に叶えられることなら出来るだけのことをするから許して欲しい。そうやって落とし所を探して困るところも可愛くみえてしまうんだが、それでもやっぱり笑顔がみたい」

 

 こっちの思考が全部バレているらしいいたたまれなさと、理解されている嬉しさは両立するみたいだ。

 だったらそれに乗っかってしまえばいい話なんだけど、そもそも照れ隠しからはじまったこれに対して許しと言われても困ってしまうわけで。

 だっていま、して欲しいことなんて――。


「あ」


 一個思いついて、意趣返しになるかもしれないな。なんて思った。いやでもさすがに調子に乗りすぎかも? なんて心配が頭の片隅をよぎったけれど、現状ほかに思いつくことはなかったし。


「なんでもって言いましたよね。出来ることというのは物理的に可能で法に触れなければ大丈夫ってことでいいですか?」

「もちろんだ」


 無警戒且つノータイムでなされた返答は、わたしへの信頼の証だろうか。

 それとも恋人への甘やかしか。


「それじゃあ、一個だけ」


 わたしからのおねだりに、嬉しそうな顔をしたはずのセルヴィス様の表情が渋いものに変化したのは、なかなかに楽しい変化だった。やっぱりやられっぱなしは嫌ですしね。ね?

 決行はすぐにとはいかず一週間ほどの猶予と、内容のハードルの高さからセルヴィス様からもお願いを聞いて欲しい。なんて交換条件を求められてしまった。

 お詫びとはなんだったのか。

 まあ別に、こちらもお願いを聞くのはやぶさかではなかったので、内容も聞かずはいとすんなり頷いてしまったんだけど。

 わたしの返事を聞くなりセルヴィス様は一緒に来て欲しいとわたしの手を取って、さっさか勉強用の部屋を出てしまう。

 手を繋いで邸内を歩くのは誰かにみられたらと思うと恥ずかしかったけれど、誰かに見咎められることなく進んだ先はわたしも初めて訪れた一般使用人立ち入り禁止エリアのさらに奥。

 マリエルちゃんの部屋や執務室は二階にあるんだけど、二階廊下の奥にある扉の先に階段があって外からは見えなかった三階へ連れて来られたのだ。

 こんなところ、あることさえしらなかった。


「ここ、どこです?」


 階段の先にある扉を開けたらあまり長くない廊下が続いて、少し離れた位置にドアがふたつ並んでいた。

 そのうちの一つ、手前にあるドアをセルヴィス様が開けて中に入るよう促される。


「リディーナには、今日からこの部屋を使って欲しい」

「え」


 ぱちりと明かりが灯されたそこはマリエルちゃんの部屋と似た雰囲気の、でもちょっとだけドア数が多い広い部屋だった。奥に大きな窓があって、左右には扉が一つずつ。

 全体的に緑系統の、可愛らしいデザインで揃えられたアンティーク調の家具やベッドには正直心踊るものがあるけれど。


「ここは?」

「代々、当主の妻が使う部屋だ。あちらのドアは俺の寝室とつながっている」

「っぴ!!」

「……ぴ?」


 びっくりした驚いて変な声が出た。

 え、寝室? え?

 一気に全身が熱くなったのがわかったし、二の句を継げずにはくはくと口を開閉するばかりのわたしを宥めるように、セルヴィス様が殊更ゆっくりと言葉をつなげてくれた。


「リディーナの許可なくあの扉は使わないし、気になるようなら家具かなにかで塞いでおくから、そんなに可愛い反応をしないで欲しい」

「うっ、え、すみませ。なんかちょっと、自分でも過剰反応かなとは思うんですけど」


 我ながら奇行が過ぎるというか、まだなんか違うのあるだろって思うんだけど。

 もうちょっと時間が経てば慣れたりして、余裕ぶった対応も可能だと信じたい。信じてるよもう少し未来の自分。

 いやでも冷静に考えたら、将来的にこの顔面力のセルヴィス様が傍にずっといたとして、余裕を持った対応が出来るようになるの? わたしが?

 

「ここで生活してもらうこととメイドの仕事は今日限りにして欲しいことが、俺からの条件だ」

「こっちのお願いよりも条件が多いです」


 とは言いつつ条件云々の前にそうなるんだろうなという予感というか、予想は出来ていた。

 セルヴィス様から好きだと言ってもらえてから、貧相な自分の恋愛脳を駆使してありとあらゆる可能性を考えたんだから。


「でも、わたしも、社長の奥さんが自分と同じ業種で一緒に働きまーすって言われたらやりにくいと思うので、辞めるのも、仕方ないかなって」


 人手が足りてない風でもないし、わたしの仕事自体誰でも代われるものだった。

 残念な気持ちはあるけど、婚約届けにサインをしたのはわたしの意思なので受け入れるしかない。


「その代わりというわけではないが、パンフレット作成などの依頼の方は継続して続けてもらうつもりでいる。仕事に使うものに関してはこれまで通り執務室で作業してもらうが、この部屋では自由に絵を描いてもらってかまわない」

「えっ、本当ですか? ありがとうございます! 嬉しい!」


 手に職を継続出来るのが嬉しくてセルヴィス様に飛びついてから、腕に密着する形で抱きついていたことに気づいて離れようとしたけれど、するりと腰に繋いでいない方の手を回されてしまった。

 優しくて甘い拘束に、付き合いたてのカップルだってこんなひっついたり常時手を繋いだりしないんじゃないかな。するのか。わかんないけど、抱きしめられると身体が硬直して心臓がうるさくて落ち着かない気持ちでいっぱいになってしまう。

 

「うううう、これもう完全にばかっぷるがやるやつじゃないですか」

「いまこの場には俺たちしかいないし、多少浮かれたっていいだろう? リディーナが嫌なら控えるが」

「……嫌じゃないけど恥ずかしいんです。わかってて聞くのいじわるですよ」


 見えてなくたって顔が笑ってるのはしってる。からかうようなのじゃなく、屈託のない嬉しそうなやつだろうことも。

 確かにわたしはセルヴィス様の笑った顔が好きとは言いましたが、もうちょい小出しでお願いするべきだったな。

 ずっとずっと、胸が騒がしい。

 好きな人と気持ちを確めあえたら落ち着くのかななんて二次元知識で思っていたけど、人によるんだっていま強く実感してる。

 慣れる気が、しない。

 でも、まあいいか。

 そんな恥ずかしさを上回るくらい、嬉しいと思っている自分がいることに気づいてるから。

 宙ぶらりんにしていた片腕を持ち上げてセルヴィス様にめいっぱい抱きついてやれば、びっくりしたように息を呑む気配が伝わった。


「わたしだって、嬉しいです。でも、約束は守ってもらいますからね」


 この部屋に移ること、仕事を減らすこと。

 その対価はきっちりもらうと宣言すれば渋々みたいな返事が降ってくる。

 一週間は待つけれどそれ以上は駄目です。

 そう念押しすることだって忘れない。


「俺自身やったことがないし、どうなるかもわからないがいいのか?」

「はい。駄目なら自分でやるだけですし」

「……そっちの方がよくない結果になりそうだな」

「それはわたしに失礼だと思いますけど?」

「君は自分自身に関しては割と適当に済ますだろう? 我慢すればいいとか、気にしなければいいとか、それを思えば俺がやった方がいい気がするんだ」


 否定出来ないのがちょっといやだな。

 ひとまず一週間という期限に頷いてくれたセルヴィス様は、自分の自由にさせて欲しいことと、結果に対しわたしからの苦言苦情は受け付けないことも追加してきた。


「どんどん条件増えてくる……」

「俺の精神的負担を思えばこそだな」


 そこまでしんどいなら撤回しようかと思ったけれど、どこか楽しげにわたしをみているのでまあいいかと納得したところまではよかった。

 もうお気づきですね? こんなお願いするんじゃなかったって後悔するのは、いつだってわたしなんですよちくしょう。






 そこからきっちり一週間後、セルヴィス様は約束を守ってくれた。

 指定されたのは掃除が楽だという理由でわたしがサラ先輩に連れ込まれた浴室、脱衣所みたいなところにあったリクライニング出来る椅子を持ち込んで、その下にはビニールみたいなものが敷かれている。椅子に座るわたしはといえば首までぴったり覆った大きな布で椅子ごとくるまれていた。

 そう、散髪です。

 自分でやろうかとも考えたんだけど、多分とても仕上がりが大変なことになるなと思ったので誰か器用そうな人にお願いできたらなと思っていたのだ。

 町の美容室みたいなところとかも候補にあげつつ、最終的に日常会話の中でカコモチだってバレたらよくないなと思って除外したのである。なにせわたしはまだまだこの世界の常識に疎いままなので。

 この一週間でわたしの経歴なんかも、カコモチであることは触れずに世間知らずであることを上手く誤魔化せるようにと話し合われた。

 結果、出来た設定がこうである。

 わたしはとある貴族の令嬢だけれど魔力のなさゆえに家族から冷遇されていて、そんな境遇をしったボートウェル兄妹の厚意でこちらに身を寄せるようになった。

 けれどただで世話になるのは嫌だと働かせてもらう内に、セルヴィス様と気持ちを通わせて婚約者になりました。というストーリーが仕立てられたのです。

 嘘をつくときは本当のことを織り混ぜるといいとはいうけど、カコモチ部分を伏せただけでまあまあ実話に沿っていたのはちょっと笑ってしまった。

 マリエルちゃんとは例のクソばばあ案件で意気投合したことになってるので、そこだけちょっと変わるんだけどね。

 …………なんてことを全力で考えているのにはわけがある。


「痛いとか、姿勢を変えたいとか、あればすぐに教えてくれ」

「っ、ひゃい」

 

 セルヴィス様の指先や吐息や体温が、首筋や耳に触れる感覚を意識しないためです。

 髪の毛をまとめるために動く指先がくすぐったくて、やたら近く感じる体温が生々しくて、なんかもう自分で適当に切ればよかったなってことばっかり考えていた。

 しかもここ、ふたりきりで密室だし。

 セルヴィス様は細身のズボンに白いシャツを腕まくりしているだけのシンプルな服装で、今日のために町の床屋さんに髪の切り方をレクチャーしてもらったらしい。

 忙しい人にそんなことまでさせたことを後からしって、土下座する勢いで謝罪したわたしです。今後はもうちょっと考えてから発言しよう。

 ていうかね、目線の近くで動く腕が思ったより大分逞しくてね、もうね、なんかだめ。だめです。

 シンプルで身体に沿った装いとかもなんかめちゃくちゃ目のやり場に困る感じで、ひたすら全力で違うことを考えてやりすごしたいのに、知ってか知らずかセルヴィス様は逐一声掛けをしてくださる。

 美容室とかだと美容師さんとの距離感を気にしたことないのに、なんだろ、あ、セルヴィス様めちゃくちゃいい匂いするんだよな。香水とかかな。

 思考があちこちに飛びまくるままにしていたら、後ろは切り終えたのか前に回り込んできたセルヴィス様の思いの外真剣な顔と見合う形になる。


「こら、あまりうつむくな」

「…………無茶を言う」

「君の願いだぞ?」

「そうなんですけど、考えが足りなかったなって反省してます」

「そうなのか? 照れるリディーナを色々な角度から眺められて、俺は思っていたより楽しいな」


 精神的ドSじゃないですかやだー。

 最初こそおそるおそるだったハサミの音は次第に軽快なリズムを刻むようになり、ハラリハラハラと髪の毛がケープに落ちて滑る音が耳に届く。

 セルヴィス様の気配が皮膚に触れるたびに揺れそうになる身体を気合いで押し込めて、せめてマリエルちゃんでもいてくれたらと思ってしまったり。

 婚約を決めてすぐにセルヴィス様と一緒に報告にいけば、わたしが一瞬行方不明になってたことは彼女には伝わってなかったようで、ただただ手を叩いて喜んでくれた。

 きゃっきゃとはしゃいでくれるのが嬉しくて、可愛くて、いまからお義姉様と呼ぶのをうっかりスルーしかけてしまうくらい。


「よし、出来た」


 セルヴィス様のかけ声にマリエルちゃんで埋めていた意識を戻す。

 顔回りについた髪の毛を筆のようなもので落としてくれたセルヴィス様が、ケープを外して手を差し出してくれた。


「鏡の前までエスコートさせて頂けますか?」

「……よろこんでー」


 うう、顔というか姿形全部と声がいいよう。

 しゅっとしたシンプルスタイルとてもドキドキしてしまうよう。

 心臓が休まる暇がまったくないのでいつかわたしの心臓活動過多で止まっちゃうんじゃないかしら。なんて。

 思いつつ浴室のとなりにある広くて多機能っぽい脱衣場の鏡の前に立った。


「……なんということでしょう、腰のあたりまであった髪の毛が背中くらいに。って、あんまり変わってないじゃないですか」


 もっとざっくり切って欲しいっていうべきだったかな。文句は言わないようにの前置きの意味を、ここでわたしは正しく知った。


「……リディーナの髪を切るにあたり、マリエルに助言を求めたんだが」

「なんかオチがみえてきました」

「リンクコーデ? をこれからもしたいし、下手に切ったときに短いと取り返しがつかなくなるからと、切る長さを制限されたんだ」

「予想通りすぎて新世界の神にもなれない、髪だけに」


 忘れてはいけない。この人はわたしのことを大切にしてくれるだろうけれど、大層なシスコンであることを。

 マリエルちゃんがそう言うなら仕方ないなと、思ってしまうわたしもわたしなのだけど。


「それに、リディーナの髪にこうやって触れるのが好きだから。短くするのは嫌だと俺自身も思うんだ。もちろん君の希望が一番だからまだ短い方がよければ、腕のいい女主人がいる店へ案内しよう」


 さらりとわたしの髪を一房手にとって口づける様は王子様みたいで、いやわたし王子様属性ないんですけどね? なんて無駄な抵抗をしてみたり。


「……いいです、このままで。セルヴィス様に気に入ってもらえてるんなら、多少じゃまくさくても長いの維持しようって気持ちにもなれますし」


 繰り返しになるけど、わたしはこの人が笑っているところをみるのが好きなのだ。

 アレンジとかは出来ないにせよ、くくったりしておけばなんとでもなるし。

 寝てるときに身体の下に入り込んだ髪の毛を引っ張っちゃうのだけはどうにかしないとだけど。


「ありがとう。では、この長さに合わせて新しいドレスを新調したいから希望を教えてくれるか? わからないことがあればマリエルに相談してくれてかまわない」

「え、ドレス? 要りませんけど……」


 あ、嫌な予感。

 一瞬だけセルヴィス様がみせた困ったような表情に、こちらも緊張してしまう。

 ドレス。ドレス?

 それって多分異世界でだって日常生活には必要ないよね? パーティでもする?


「君との婚約を急いだ理由のひとつでもあるんだが、年に二度貴族のところに身を寄せるカコモチは例外なくそのどちらかかどちらともか王都へ顔を出すことになっていてな」


 こちらの気乗りしない気配を察してか、ちょっと歯切れ悪くされる説明はこうである。

 カコモチが貴族のところにいたとしてその知識だけを利用し、カコモチを劣悪な環境で軟禁または労働させる者もいたらしい。

 そのため、国の方できちんとした扱いをしてるんですか? という確認をするための会を開くんだとか。

 虐待や冷遇などされている場合は国で保護するため、基本的にカコモチ本人だけが招かれるのだけれど、婚約者という立場であれば会そのものには参加出来ずともお城までは同伴出来るそうで。


「お城?」

「そう、王城だ。国王に謁見して挨拶を交わすらしいが詳細は俺も知らないんだ」

「無理無理無理無理! そんなかしこまった場にいかないといけないなら、わたしの前世の話は狂言ってことにして頂いてもいいくらいです!」


 ぶぶぶっと首を高速で振るけれど、セルヴィス様は眉を落として困った顔で告げる。


「俺も出来るだけリディーナの意思を優先してやりたいが、カコモチ本人が不参加を望んでいると言って自分の罪を隠そうとする者もいるからと、これだけはどうもしてやれないんだ」

「ええー」


 確かに王都へ観光とかいつかいけたらいいなとは思ってたけど、やっぱりあれはフラグだったんだな。

 多分、ギルバートさんもこのことはご存知だったんだろう。


「気休めになるかはわからないが、マリエルも一緒に行くことになっている。前回開催のときは目覚めたばかりで不安定だったからと参加を見送ったが、君が来てからは目をみはるほど安定しているからふたりでなら問題ないだろうということでな」

「なるほど」


 だからドレスもマリエルちゃんと話をするのだなと、裏の理由も読めた気がした。

 うん、きっと煌びやかなドレスを身に纏ったマリエルちゃんは可愛いだろうな。それを楽しみに行くのなら、まあ、いいのかな。逃げられないみたいだし。


「マナーとかそんなの全然しらないけど大丈夫ですか?」

「王へ攻撃的でさえなければカコモチは礼儀作法を問われない。貴族出身でないものもいるわけだからな」

「なるほど」


 それを聞けば少しだけ気が楽になる。

 ……なるかな?


「お世話になってますし、ここにいられなくなるようなことがあったら嫌なので。わかりましたって言っておきます。でも、ドレスはシンプルで布面積が多いやつでお願いしますね。そんな華美なものは似合わないと思うので」


 精々わたしはマリエルちゃんの引き立て役になろう。そう決めて伝えれば、不思議そうな顔をされた上に首をかしげられた。


「リディーナはなにを着ても可愛いだろう?」


 このひとは、これを心から言っているから困る。嬉しいけど、嬉しいんだけど。


「まあ、初めてのドレスのデザインはマリエルに譲るが、結婚式のときには俺の好みも反映させることを了承してもらったから」

「あ、交渉したんですね」


 それならまず、そういう催しがあることをわたしにも知らせて欲しかったけど、って、あれ。


「……結婚式、ですか?」

「するだろう? さすがに今日明日は無理だし準備期間も要るが、リディーナがそうなっていいと思ってくれたタイミングですぐ出来るようにしておきたいからな」


 こともなげに言いよる。

 想いを伝えられても関係を一足飛びで進める勇気はまだないので、まだ婚約で甘んじていて欲しいけれど。


「……セルヴィス様のそういう、わたしのペースにあわせようとしてくれるところ、好きですよ」


 もらうばかりなのも嫌なので、せめてくれる気持ちの何割かでも返していけたらいい。てらいなく好意を口にするのはまだ照れるから、少しずつにはなってしまうけど。

 切りたての髪の毛をするりと撫でたセルヴィス様が、つないだわたしの手を持ち上げて指先に口唇を落とした。

 少し濡れた柔らかい感触にびびびと電気でも走ったみたいに身体が跳ねる。セルヴィス様も気づいたのか笑うような吐息が触れてさらに跳ねる。

 ……陸に上げられた池の鯉じゃないんだぞ。

 からかわれてるんじゃなく、恋しいと、可愛いと、その黒い瞳は言葉にせずとも雄弁に語っているから、文句は呑み込んだけど。

 うそです。文句なんて、ない。

 こんなすごい人がわたしを好きになってくれて、大切にしようとしてくれることが、泣きたくなるくらい嬉しい奇跡だってことくらいわかるから。

 

「ドレスを作るときに、ここに似合う指輪も贈らせて欲しい」

「…………セルヴィス様も、おそろいでつけてくれるなら」


  スローペースになるけれど、わたしなりの速度でちょっとずつ進んでいけるようにしたいので。

 どうか受け入れてくださいなんて言わなくたって、優しい笑顔のこの人は一緒に歩いていってくれるだろうから。


「パーティでも、なんでも、どんとこいですよ」


 完全強がりではあるけれど、頑張りたい気持ちは嘘ではないので。


「なので、ほんっとう、よろしくお願いしますね」

「こちらこそだな」


 知らないことだらけの世界で小さなハプニングや事件はこれから何度もあるだろうけれど、末長く、セルヴィス様とずっと一緒に笑っていけたらいいなと思うのです。

 こんな風に、わたしの異世界生活は日常になってずっとずっと続いていくのだ。




おしまい

最後まで読んで頂きありがとうございました!

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