07 おそらく、俺は、リディーナにもしものことがあったら、死ぬ
格好いいマリエルちゃんという新種の天使と出会った勉強会から、さらに二日。
まだセルヴィス様とは顔を合わせていない。
でも、お好み焼きの感想や近況を記したらしいお手紙はサラ先輩経由で頂いた。のが、ついさっきのこと。
今日のお仕事は屋敷裏手の掃き掃除だ。
だだっ広い敷地を一人で綺麗にするとなるとさすがに無理と言わざるを得ないけれど、昨日本邸周辺を綺麗に清掃したものの今日は風が強く葉っぱや枝はどうしたって飛んでくるので、目につく大きなゴミや枝葉だけを除去してね。という話なので、まあ一人でも大丈夫な仕事ですね。という感じだ。
そこまですごい無茶振りめいた仕事の振り分けはこれまでもなかったので、指示されたお仕事を粛々とこなすつもりではいるんだけど、問題はそこではないのです。
折れないようそっと持った手紙に目線を落としてため息を一つ。
「……サラ先輩、業務後に渡してくれたらよかったのに」
さすがに就業中に読むのは駄目だろうとポケットにしまってはみたけど、中身が気になって気になって仕方がなかった。ほうきとちり取りとを動かしてあちこちにぽつぽつと点在している枝や葉っぱを拾い集めながら、ついつい手紙の中身はなんだろうな。なんてそわそわしてしまう。
よくない。よくないぞこれ。
通販で待ちに待った本が届いているのをメールや通知で確認したけれど、仕事がなかなか終わらないときのような落ち着かなさ。
くっそう、なんだもうこれ、駄目じゃん。恋する乙女のそれじゃん。
ざっかざっかとほうきを動かして、綺麗に刈り込まれた芝を掃き進めながら自分の思考を整理していく。いやもうこうやってひとりのときに考え込んじゃうの、マリエルちゃんの魔力暴走の夜から日課みたいになってるけどね。
この世界に転生して、多分一番考えている。しかも真剣に。
わたしはセルヴィス様とどうなりたいんだろう、どうなっていきたいんだろう。
「……お礼を、言いたい。かな」
いまこうしていられることへの感謝を、何度だって。
今日も午後からはギルバートさんによる授業が待っている。
仕事が忙しいんじゃないかと毎日は辞退したけれど、セルヴィス様が立て込んでる件はギルバートさんとは関わりがないらしくて暇が出来るんだそうだ。
マリエルちゃんが参加したのは初日だけだったけれど、一般常識は自分が知っているものとそう変わりないことだけは理解したし、覚えきれない歴史や国はこっそり擬人化して覚えることにした。
まずは地理からということで、この国、ノイハイムにある主要都市とそれを統治する偉い人の名前を覚えるところからはじめている。
いつかわたしが王都へいったときにその辺りの偉い人を把握しておけば、そこまで問題はないでしょう。とのことだ。
まるでわたしがそのうち王都へ行くような口振りだったのが嫌な予感を増長させるけれど、興味がないわけでもないので観光目的なら一度くらいはいってみたいなあ。なんて。
そんな風に、学ぶ機会を作ってくれたことも、前向きに外の世界へ目を向けられるのも、全部この家に来られたからだ。
マリエルちゃんがわたしの手を捕まえて、セルヴィス様が受け入れてくれたから、わたしはいまこうして明るい未来への想像をすることが出来ている。
「うん、伝えたいのはお礼、かも」
あなたたち兄妹のおかげでいまわたしはこうしていられる。
これは紛れもない事実だった。
空腹をじっとやり過ごすことも、胸の中を通り過ぎる隙間風に希望をそぎ落とされるような感覚も、もうずっとない。
「………………やっぱり、手紙、読んじゃおうかな」
ちょっとだけ。
すぐ読んで仕事に戻るから。
そんな言い訳をしながら、エプロンのポケットに入れていた手紙を取り出す。
真っ白でシンプルな形の封筒をそっと開けば、罫線だけのやはりシンプルな便せんに几帳面で整った文字が並んでいた。
「……文字みただけでときめくとか」
顔がちょっと赤くなってる気がする。
セルヴィス様の文字だと思った瞬間、比喩でもなんでもなく胸がぎゅんと騒いだのだ。
リディーナへではじまった書き出しでどうにも止まってしまう目線を四苦八苦しながら進めようとした瞬間、強い風が吹いてわたしの指先から手紙をさらって空高く飛ばしてしまう。
乱れる髪の毛を抑えながら手紙が飛んでいく方向を目をこらしてみていれば、本邸の屋根の上へといってしまった。
「うっそでしょ」
いやいや呆然としてる場合ではないな。
誰かに拾ってもらうわけにはいかないと、一瞬迷ったものの掃除道具を通行の邪魔にならなそうな脇へとよけて、どこか屋根上に出られる窓はないかと壁伝いに走って、みつけてしまった。
「はしご」
昨日使った物をしまい忘れたのか、はたまた今日使う物なのかはわからないけれど、おあつらえ向きすぎて逆にちょっと罠じゃないの? なんて思ってしまう。
ああでも、昨日は建物から敷地から大掃除したって話だから屋根上にもいったのかもしれない。
「っ……」
ごくりと生唾を飲み込んで見上げるはしごの先は、本邸の屋根まで届いているように見える。
わたしがしる限り二階までしかないはずだけれど、それよりはずいぶんと高く見える本邸の屋根は遠い。はしごを使ってこれをのぼるなんて無理無理って脳内では冷静なわたしが叫んでいた。
わかる、絶対怖いよこれ。しかもメイド服の下は普通に下着ですし?
多分サラ先輩とかに助けを求めれば手紙があるかくらい確認してもらえるとは思う。けど。
「……自分でも読んでないのに、誰かに先にみられるのは嫌かなあ」
お好み焼きのお礼と近況確認だそうですよ。
とのことらしい手紙は第三者にみられてもきっと問題ない内容なんだろう。でもそれはわたしに宛てたセルヴィス様の言葉で、文字なら。
「よしっ、いくぞ」
気合いを入れてはしごがぐらつかないのを確認してから右足をかけた。
下は見ず、スカートのことも考えず、無心で左右の足を交互に動かしていく。
いやこれ、思ってた以上に怖い。
上にいけばいくほど風が強くなってスカートが煽られる度にバランスを崩しそうになる。
「うわこわいこれまじでこわいとてもこわい高所でお仕事してるすべての人に尊敬を感謝捧げたいくらいこわいありがとうございますううう」
黙ってるとめちゃくちゃ怖くて無限に言葉がわいてくる。
地面にいたときだって風強いなあとか考えてたのに、そんなの非じゃなかったし、はしごのバランスも不安定になっていくのがわかった。わたしが上へ上へとのぼってるせいかもしれないけど。
怖い。
一回でも止まったら二度と動けなくなってしまう予感だけはあって、足だけは意地でも動かし続けたらどうにか屋敷の屋根が見えてきた。
「やった」
ゴールだと気が抜けてしまったのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
ただ、建物の終わりを意識したのとほぼ同時に身体がぐらりと揺らいだのは確実で。
「っ――」
咄嗟に伸ばした手が屋根の縁に届いて、無我夢中で全身で飛びついて自分でもどう動いたかわからないまま屋根の上にのぼっていた。
遙か下の方からはしごが倒れたものと思われる音がしたけれど、さすがに距離があるせいか芝に吸われてしまったのか、そこまで破壊力のある音が鳴らなかったのは幸いである。のかどうかはわからない。
……壁とか、壊れてないといいな。
頭の片隅で思ったけれど、それよりももっと重大な問題がある。
「戻れなくなっちゃったなあ」
とはいえ、はしごがそこに残っていたとしても戻れなかったような気もしている。だってのぼるのめちゃくちゃ怖かった。下りるのなんてもっと怖いでしょ絶対に。
もしあのまま、屋根につかまれずにいたら、わたしは今頃はしごと一緒に芝の上に転がっていただろうし、無事だとしてもそうでなくても大層いたたまれない気持ちになっていたに違いない。
「うん、大丈夫、最良ではないけど最悪でもない。大丈夫大丈夫」
それにここも、めちゃくちゃ傾斜のある三角屋根とかでなくてよかった。
バクバクと大音量と速い速度でリズムを取る心臓を宥めながら、バランスを崩さないよう四つん這いになって周辺を確認する。
壁に近い部分は傾斜があるけれど基本的にはフラットに近い屋根は、瓦のような石のような素材で出来ていて、それが整然と並べられていた。そのうちの一つに紙が挟まってひらついているのが見えて、がくつく脚を叱咤してどうにかつかまえることが出来てほっとする。
ちょっとしわがよってたり折れてるけど、無事だ。
次は移動経路。
はしごは無理だし見える範囲に人気もないから助けを呼べない。呼んだとて自力で下りるのも厳しそう。
「どっかに、窓とか、ないかな。よくこういう洋館って天窓とかあるけど」
ぐるりと見渡してみても、換気のためか煙突かわからない石で組まれたような筒がみえるけど、さすがに入れたとしても入りたくはないな。うん。
「誰か通るまで待つか」
午後に勉強部屋へわたしが現れなければ、ギルバートさん辺りが探してくれるだろう。きっと。少なくとも一晩夜明かしとはならないはず。……多分。
使っていたほうきやちりとりは人が踏んで転ぶようなところには置いてないし、迷惑はかけないだろうとわたしは自業自得すぎる現状を受け入れることにした。
生家で閉じ込められていた日々を思えば、外の空気も吸えるしそこまで悲観的にもなれないよなあ。
おとなしく部屋まで我慢すればとも思ったけど、そこはもう後悔するより先に読もうぜ。読んじゃおうぜ。みたいな欲求、あるじゃない。
明日は朝早く起きなければならないときに限って神がかった創作者さんをみつけてしまい、上から下まで作品を読み漁って全部読んだ頃には朝が来てたとか。そういうやつ。
まあ、反省は常にしてるので。
取り敢えず、落ちにくそうな石の筒の辺りまで移動するとそこに体重を預けて腰かけたわたしは、大きく深く息を吐いた。
「よし、読む」
気分は神様の新刊を読むときに似ている。
でもそれならば身を清めて深呼吸してから開くくらいの余裕は持てていたから、やっぱり気持ちの置き所が違うのかもしれない。
だからいま、こんなところにいるわけだし。
「……」
開いて、一文字一文字じっくりゆっくり胸の内側に取り込むように目で追う。
中身はサラ先輩に聞いていたままの、セルヴィス様の言葉にしたらきっとこう書くんだろうと想像していたものとさほど変わらないものだった。
お好み焼きは作る行程で見た外観こそちょっと驚いたけど、食べたら美味しかったこと。また食べられたら嬉しく思うこと。他の料理を作るときは隠さず呼んで欲しいことは繰り返し念押しされていて、ちょっと笑ってしまった。
いま忙しくしている仕事がもう少しで落ち着くから、その後はまたわたしと過ごす時間を作りたいので会う許可を求めてくるのは、やぶさかではないので。普通に直接言ってくれたら頷くのになあ。なんて。
最後は君に会いたい。だなんて、赤面ものの言葉を臆面なく綴る人なのだ。あの人は。
「……」
紙一枚分の言葉は胸の中いっぱいに満ちて、それは多分幸福というものなのだと思う。
照れくささはあったって嫌だったことがないのだ。
――あたしだったら大好きな人と一緒にいられたら嬉しいです。
そんなマリエルちゃんの言葉が脳裏をよぎる。
わたしだってそうだよ、そのはずなんだよ。
思うけど、じゃあわたしはどうしてセルヴィス様の手を素直にとることが出来ないんだろう。
誠実な人だってしってる、あんなイケメンなんだから他に目移りして~とか、そういう心配してるわけでもない。
多分、だから、これはわたしの問題で。
「余計にわかんないな。なんでだろ」
告白を受けてもう一週間経つ。
いや、まだ一週間かな。
セルヴィス様は不在でもマリエルちゃんからはけっこうなプッシュを受けているから、もう毎日考え続けているのだ。答えが出せないだけで。
いや、答えは出てる出てる。
出せないのはわたしの一歩だけだ。
「…………ん?」
うだうだと考えているうちに眠ってしまっていたらしい。
手紙をぎゅっと握りしめたまま、わたしは石の筒にもたれた状態で目を覚ました。
強い風を浴びていたからか身体が冷えてふるりと震える。記憶よりも太陽の位置がかわってだいぶ遠くになっていた。
つまり。
「わーーーー、わたしってば肝が太ーーーーーい」
自分に呆れるわ。
これじゃあ探されてたって気づかないじゃんばか!
ゆっくり慎重に屋根の縁へ近づいてみたけれど、ひとの気配はまるでなかった。なんならはしごも片付けられていている。
「やっちゃったなあ」
はしご片付けてるときなら、声をかけたら気づいてもらえたかもしれないのに。
空が赤く染まりつつある辺り、けっこうな時間ここで眠っていたらしい。たしかに最近は寝不足気味だったけど、さすがに屋根の上で熟睡ってどうなのよ。
「って、ここからだと下の町もよくみえるんだなあ」
いつかセルヴィス様に連れていってもらった丘の上とも違う目線だった。
太陽が山にじわじわ沈んでいき、山の稜線を光らせている。山から落ちる影が遠くから町へと近づいてくる速度が速くて、なのに空は真っ赤に染まり、雲は茜色に色づいているのがただただ綺麗で目を奪われる。
「……きれい」
この景色をもし隣でみてくれたらあの人はどんな反応をするだろう。
綺麗だと笑うんだろうか、それとも見慣れていると冷静に返すのだろうか。
どちらでも、綺麗だと目を奪われるわたしを馬鹿にすることなくそっと許容して見守ってくれるような気がした。
「セルヴィス様」
ぽつり、声が出た。
どうしよう。どうしよう、どうしよう。
いま、とてもあの人に会いたい。
胸の奥に強い衝動が沸いてどうしようもなくて、でも、わたしはいまここから動けない。動けないけど。
「そうだ、上階ならバルコニー? ベランダ? とかあった気がする」
じっと待ってるなんて無理で屋根の縁伝いに移動を開始する。
だってそうしないとダメな気がしたから。
風はまだ強いけど、怖いけど、いま動かないとダメだ。
屋根から身を乗り出してバルコニーに足から下りれば、多少怪我はするかもしれないけど死にはしないはずで。
「あった」
外からみただけだから誰の部屋かわからないけど、すみませんちょっと不法侵入させてください!
そんなつもりで下りようと体重移動しようとしたときだった。
なぜか、屋敷の外を全力疾走しているセルヴィス様と目があった。
珍しく焦ったような様子で、汗までかいていて、目を丸くしながらわたしをみている。
「……リディーナ?」
「はい、そうですけど」
距離的に聞き取りづらいはずのセルヴィス様の声は、不思議と耳にすんなり届いた。
ていうか、違うか。なんでそんなところに? の方か。
「あ、えっと、ちょっと大事なものを風に飛ばしてしまって、はしごあったんでのぼったところまではよかったんですけど、はしごを倒してしまっておりられなくなっちゃったんです。なので、はしごを再設置してもらえたら――」
なんとか、自力でおりよう。
めちゃくちゃ時間はかかるだろうけど、なんならこの下のベランダ? 的なスペースからかけてもらえたら下りる距離も少ないしいけるのでは?
なんて、謎の自信を持っていたときだった。
「リディーナ、そこから動くなよ。じっとしてろ」
「え?」
もちろん。動きませんというか動けませんというか。
そんなこちらの内心など知らないだろうセルヴィス様が、目にも止まらぬ速さで地面を蹴り、屋敷の壁を蹴り、わたしの目の前に下り立った。
え。どういう身体能力をされてるんです? サラ先輩といい異世界の人みんなこんな感じなんです? わたしもそれ出来るようになります?
ばかみたいな言葉の羅列が頭の中でぐるぐる回っても、そのどれだって音として口には出てこなかった。
高所であることなんか意に介した様子のないセルヴィス様は、額から汗を流しながらそっとわたしの前で膝をつく。
「……君が、屋敷からいなくなったと聞いて慌てて戻ったんだ」
わたしの目線を正しく読んだらしいセルヴィス様が、抑揚の薄い声をぽつりと落とした。
真剣な眼差しはわたしから動かさず、じっとなにかを確かめるように忙しなく動いている。
そこではじめてわたしは、自分の認識の甘さや呑気さに気がついた。
この人がこんなにも汗だくなのはわたしのせいなのだと。
「……心配をかけてごめんなさい」
「リディーナが無事であればいい」
心底から漏らされた言葉は本心だろうけれど、わたしの迂闊さで迷惑をかけてしまったのは紛れもない事実で。
「だが、今後なにか物を飛ばされても自力で取ろうとはしないで欲しい」
「そうですね、そうします」
はしごをのぼっていたときの恐怖を思い出して、心底から同意した。
うっかり落ちて頭を打っていたらきっとわたしは死んでいるし、そうなればはしごを残していた人にも迷惑をかけるだろう。
なにより、わたしを友達だと誇らしげに笑うマリエルちゃんや、汗だくになってまで探してくれる目の前の人を悲しませてしまうだろうから。
「おそらく、俺は、リディーナにもしものことがあったら、死ぬ」
「え――」
冗談を言って空気を変えようとしているのか。
そんな気持ちで顔を上げて、違うって気づいた。
怖いくらい真剣な顔をしたセルヴィス様のぎゅっと握られた拳がかすかに震えていた。なにか強い感情を抑えつけるみたいに。
「すまない。こんなことを言って困らせるのはわかる。だが、そういう人間がいるということを覚えていて欲しい。君は君自身が思うより勇敢で度胸があってそういうところを俺は好ましく思うけれど、同じくらいそれが怖いと初めて思った」
「……お仕事でなにか、ありました?」
わたしがいなくなってしまっただけでここまで焦るとも思えなくて、咄嗟に口からこぼれ出た問いに、虚を突かれたような顔をしたセルヴィス様の瞳が、迷うように揺らぐ。
マリエルちゃんに責められたときこそ弱り切った顔をみせていたけれど、それとも違う、抱きしめたくなるような、頭を撫でてあげたくなるような、寄る辺ない小さな子がみせるような表情だった。
「あのですね、好きです。わたし、セルヴィス様のことが」
遠い山の縁みたいに、セルヴィス様にも夕日が届いて後光がさしたみたいだと思う。この国の宗教観はまだ学んでないけどこれは言っちゃ駄目なやつかな。
綺麗な人なのに、格好良くて、ちょっとおっかないところもあって、でも可愛い。
魅力のデパートかな?
好きだと素直に口に出せた今ならそう思う。
「いま……」
「さっきここで寝ちゃってて、目が覚めたとき見えた景色がすごく綺麗だったんです。それみてたら色々考えてることどっかいっちゃって、シンプルに好きって気持ちだけでも取り敢えずいいかなって、腹が括れたというか」
「このタイミングでか?」
はーと大きな息を漏らしたセルヴィス様が固く握っていた手を開いて、自身の顔を覆った。
やっぱりこのタイミングはなかったかな。
お説教の気配も感じていたし。
でも、セルヴィス様をみていたら言いたい気持ちがむくむくとわいて出て、胸の中をどんどんと叩くように主張してきて、どうしようもなくなってしまったんだ。
「会えてうれしかったので」
えへへと笑って後ろ頭をかいたのは完全に照れ隠し。
正直な気持ちを言葉にするのはやっぱり照れるし顔が赤くなってそうな自覚もあるけど、まだ空に赤味と存在感を残してくれている夕日が誤魔化してくれたらいい。
なんて。
「……きみに、触れても?」
そっとささやくような問いかけの真意を探るようにセルヴィス様を見遣る。
また手を取られるのだろうか、もしかするとここから安全に下ろしてくれるつもりなのかもしれない。
そう思って、頷いた。
途端、伸ばされたセルヴィス様の手がわたしの腕をつかんで、そのままぐいと身体を引かれてしまう。
「っ」
大きな身体がわたしの全身を覆うようにして、抱きしめられた。
体格差を理解していたつもりだったけれど、思っていた以上にセルヴィス様の身体は大きくて、すっぽりなんて言い回しがぴったりなくらいで。
ぎゅうっとされてはいても力加減されてるなとはわかるのに、衣服越しでも密着すると男の人の身体なんだってことがよくわかった。
それに、あったかい。
身体が冷えていたのがよくわかるくらい、セルヴィス様の熱いくらいの体温が移ってくるのが心地いいのに、胸の奥が騒いで落ち着かない。
マリエルちゃんくらいしか接触なんてしたことないけど、うわあだめだ照れる恥ずかしいこれどうするのが正解なの腕の位置、腕の位置はどこですか。
「……った」
小さな、小さな声でセルヴィス様が呟いた言葉は、聞き間違えでなければ「よかった」だった。
しっとり汗ばんで湿気ってさえ感じる体温がきっとその意味の答えだ。
「――先日、町で君に声をかけた男たちはある犯罪組織の末端で、この国で女性や小さなこどもを誘拐して自国に連れ帰り売り捌くつもりだった」
「え?」
「この町は表向き国境に近いだけの旅の中継地でしかないし、警備も手薄だと考えたらしい。目についた人間に声をかけて人気のない場所へ無理矢理誘い出し、薬物で意識を奪って誘拐するつもりだったと」
「そ、れは」
単なる旅の恥はかき捨て的なナンパかと思いきや、なかなかえげつない犯罪計画に絶句してしまう。
それから、セルヴィス様が忙しくしていた理由も理解出来てしまった。
「本当に、ご心配をおかけして申し訳ありませんでした!」
タイミングが色々悪すぎた。本当に悪すぎた。
それだけはとても理解したので誠心誠意平謝りするしかない。
「って、笑ってません?」
密着しているからこそ伝わる小刻みな振動に気づかないわたしではない。
というか、首筋をくすぐる黒髪の感触が落ち着かないのでそろそろ適正距離に戻って欲しい。こちとら好きな異性にひっつかれて涼しい顔や態度を維持できるような余裕なんてないのだ。
そんなこっちの気持ちをしってかしらずか、くつくつと低い笑いを喉奥でかみ殺している。
もういっそ指さして腹抱えて笑ってくれ。
「……どうせ笑われるんなら、顔見せてください。わたし、セルヴィス様の屈託なく笑ってる顔けっこう好きなので」
なんか、可愛いし。
言ってももちろん聞いてくれなかったので、なんとなく悔しくなってどうしていいかわからなかった手をセルヴィス様の頭に乗せて撫でてみた。わしゃわしゃーって犬を撫でるみたいなやり方で。
不敬だろうけどいまさらだろうし、セルヴィス様は怒らない。そういう確信もあった。
「……頭なんて撫でられた記憶はないが、君にされるなら悪くないな」
あっさり、そんなことを言われてしまう。
意趣返しのつもりが肯定されるとは思わなくて、ちょっとバカップルめいたやり取りにも気がついて、いたたまれない気持ちがわき出ても仕方がないだろう。
「というか。そろそろ戻りませんか? ここ、屋根の上ですし」
「寒いか?」
問われ、首を横に振る。
すっかり日も沈んでしまって確かに外気温は下がっているけれど、セルヴィス様に包まれているからか不思議と寒さは感じていない。
「……なら、もう少しだけ」
「ででででもここ屋根ですし、屋内、とかの方が」
甘えるみたいに肩口をぐりぐりされるのには、正直きゅんどころかぎゅんとなにかが胸に刺さってたまらない気持ちになるのだけれど、ここ外だしって理性の方か勝って言えばぎゅうと抱きしめてくる腕に力がこもった。
「俺は男で、リディーナは女だ」
「そうですね?」
同性同士の恋愛にときめきを覚える方ではあるけれど、現実としてわたしたちは異性同士だ。でも、それがなんだろう。
「……俺は俺自身に、特別かわいいと思っていて恋愛関係を受け入れてくれた相手に対して、殊更我慢を強いる気持ちはない」
ええっと、それは。
わかるようなわからないような。そんな気持ちで首をかしげれば決定的な一言が爆弾のように落とされる。
「児戯めいた接触では我慢が効かなくなる」
「ふわっ!?」
とてもとても艶やかないい声で囁かれて、背中にぞくぞくとした寒気にも似た震えが走った。
いや待ってでも確かにそうですよねセルヴィス様がそういう意味で安全安心なんて、心のどこかで思ってしまっていた自分に慌てて待ったをかけた。
「もちろん無理強いはしないが、そういうことだと理解して発言には気をつけて欲しい」
「……ふぁい」
反省します。
経験値皆無とはいえさすがに迂闊すぎたと頷けば、慰めるようによしよしと頭を撫でられる。
「昔こんなことを言った人がいた。この国で初めて女性が王位を継いだときの伴侶でカコモチなんだがな、男は狼だから年頃の女は気をつけろ。と」
「伊能忠敬どころか近代日本人じゃん!」
咄嗟に突っ込んでしまったわたしに、一瞬の間のあとセルヴィス様が笑いだした。隠しもしない大笑いに目を真ん丸くしていたら、やっぱり君もカコモチなんだななんて言う。
……この世界、カコモチ向けジョークみたいの蔓延してるんだろうか。
両想い発覚したばかりとは思えない空気感に遠い目なんかをしてしまって、それから結局わたしも笑った。
なにせ、好きな人が笑顔だったので。




