網羽虫の姫。暑さのイタズラ。
……、いつまで経っても、お声掛けが未だ無いとは。網羽虫の様なお方様だ。
婚礼とは名ばかり、おそらく今の住まいを考えると、人質として迎えられたわたくし。他国の評を慮って一応、『王太子妃』の座を与えられてはいますけれど。言葉が通じぬと思っているのか、昨夜開かれた晩餐会で、ヒソヒソと囁く声を思い出しますの。
網羽虫、言い得て妙ですわね。この虫は雄は木に止まり声を張り上げ鳴き、雌は声を持っていませんの。王宮儀典のひとつ、目下の者は、上の者に許しもなく、口を開くのは御法度。なのでわたくしは、だんまりを決め込んでおりましたから。
勿論、笑顔もみせません。当たり前でしてよ。わたくしが微笑むお相手は、隣に座られている殿下だけですから。
お式の時に眼を合わせた以外、わたくしの事をちらりともご覧になりません。昨夜とて何時もの様に、殿下から贈られた布地を仕立てて、装いを凝らしておりましたのに……。
まっ、政略結婚とはこういうことですわね。書物ではそう書かれてあります。戦争ともなれば、故事に習い首を跳ねて送り返す姫の事など、虫ケラとでも思ってらっしゃるのでしょう。なので先ずは夫と親しく話し、それから……と思っているわたくしは、だんまりのままに過ごしています。
わたくしに取り入り、わたくしをどう手駒に使うか、そう考えておられる宮廷人の思惑には、乗りませんことよ。
広い王宮の中でも、一番奥に設えてある建物に、居を用意されていたわたくし。朝夕のご挨拶に夫の元に出向かわない限り、ここに仕える者達以外、誰にも逢わぬ暮らし。まるで塔に閉じ込められたかと思いますの。しかし、ええ。
ええ、気楽でよろしくてよ。元、秘密の逢瀬に使われていたという、こじんまりとした瀟洒な館は、森の木々を模して植えられた緑の中に、ひっそりと佇んでおります。
祖国の離宮を思い出しましてよ。窓を開ければ緑の風が入る。社交界の賑やかさとは無縁ですけれど、わたくしの存在を気に入らぬ方々の視線とも無縁。心穏やかに過ごしておりますの。
気に食わぬ媚を売る人達に、笑顔をつくらなくてもよろしいのよ。
嘲笑を聞こえぬふりをしなくてもよろしいのよ。
のっぺり無表情の殿下と、仲睦まじいふりをしなくてもよろしいのよ。
ああ、幸せですわ。夜伽が無いのが不服なここに仕える彼女達の視線は、気にもなりません。お手つきを狙い、わたくしの侍女になった下級貴族の『あわよくばご令嬢』達は、アテが外れたご様子で、恨めしそうにチラチラ見てきますけど。
そう思っていたのですが、わたくしはどうしたらいいのでしょう。
――、チラチラ……チラチラと。ああ!見ないでくださいまし!もう!誰が通していいと言ったのです!
「その……妃にどうしても知らせたい事があり……」
婚礼を済ませて、離れて暮らす清らの三月がとうに終わり、薄紅の花が散り、木々が緑に生い茂る季節が来ておりました。
床を共にするのなら、月が開けたら直ぐとお妃教育で、そうお聞きしておりましたが、わたくしに興味が無いのか音沙汰無し、お近づきになる為に、お茶会をとお誘いしても音沙汰無し。
これは本格的に、嘘の様な戦争が近いのか、それともわたくは好みではないのかしら、そう思い始めていたのですわ。嫁いで来てから、一年にもならずに運命を知るとは、少しばかり憐れと感じておりました。
「突然で悪かったとは思うが……」
ふぐ……己が情けなく、涙が出てきますの。どうせなら綺麗に着飾った時に、いえ、せめて普段着をしっかり着込んでいる時に、お目にかかりたかっった。
ふぅぅ!卑怯でしてよ!不意打ちとは。一国の王子として、男としてどうなのですの!わたくしは恨みがましく思う事しか出来ません。肌を見られてますわ!ここそこに、熱を感じますもの。
「あの、その……。あ……、暑いね、うん。そう、ようやくそなたの館が出来てね……。驚かそうと妃の国から職人を呼び寄せて、式の前からこっそり工事に取り掛かっていたのだけど、ちょっと手間暇かけさせてしまって……、その、あれだな。待たせて悪かった、顔を上げなさい」
ほら!王族だと言うのに、しどろもどろになられて。何処を見ておられるのかしら、わたくしはきゅっと身を固く肌を隠しながら、聞き捨てならない事を耳にしました。
はい?何ですって?わたくしの館?ここではなく?わたくしは恐る恐る顔を殿下に向けました。
「そう、三月が過ぎた。お互い身の潔白は証明された。夫婦になるんだよ。そう、先は使いを出してが、正しい行動だったな。うん。そなたの館の完成が嬉しくて、嬉しくて、急いで知らせたかったから、その……すまない」
椅子に座る私の前で、恐れ多くも、立ったままで頭を下げられる殿下。どういう事なのかしら?知らぬ扉が開かれましたわ。
――、その日は朝から、かき混ぜるように木々貼り付き鳴く虫の声が殊更、賑やかでしたの。幾日も幾日も雨が降りません。日々積み重なる様に暑くなって行きます。
木々に囲まれているとはいえ、風が無ければ蒸し風呂の様な暑さ。テラスに涼みに出ても、丸く重さを持った空気の塊が胸の中にたまるばかり。クラクラときそうですの。
こんな時は人払いに限りますわ。幸いに、この辺鄙な館に訪れる物好きはいらっしゃいません。なのでわたくしは部屋にて涼を取ります。
侍女に大きな盥に水を貼らせます。国から持ってきた、薄荷油を数滴落とします。酸っぱい木の実の飲み物、蜂蜜。それらの準備が整うと、国から連れてきたリリーがドレスを脱がせてくれます。そう命じてますの。
下着、レースのシュミーズの姿になります。リリーはドレスを抱えると、部屋から出ていきますわ。わたくしの楽しみが始まりますの。
靴下も靴も脱いで素足になります。小さい時を思い出します。離宮には泉がありました。その畔で、お母様はよく夏の宴を開かれたものです。
本来なら外に出て同じ事をと思うのですが、何しろお知り合いが殿下のみの今の暮らし。ご招待するお客様がいらっしゃいません。
野外にてお茶会をと、のっぺり夫に招待状を出してもよろしいのですけど……、お断りになられるのは、分かりきった事。なので無駄な事はいたしません。
それにしても、月満ちてわたくしの身の清らかさは、証明されてますのに。朝夕のご挨拶に行っても、手を取りもされません。辺り一辺倒のご挨拶をして、急ぎの仕事があるからと、退出されます。
……、まぁ、どうでもいいことでしてよ。とりあえずこうして生きておりますし、一応何不自由無く大事にもされておりますし。
閉じこもり暮らしておりますが、わたくしは王太子妃。遊んで暮らして良い立場では御座いません。将来があるかないかは分かりませんが、朝の時間には、日々ここに来る賢者に教えを請い学んでおります。こうした何もない時には、本を開いて知識を深める事も。努力は惜しみません。
無知だといざと言う時に動く事が出来ませんもの。なので暑い午後の下りには、涼を取りながら、書物を読むことにしております。盥の側には椅子が置かれております。腰を掛け足を水に漬け、はしたないですが、下着姿で頁をめくりますの。
サワサワと開け放たれた窓から、熱持つ風が入って来ますが、我慢できない程では御座いません。刺繍を刺さたドレス一枚脱ぐだけで、どれ程涼しい事か。一人きりだこそ、出来る楽しみ。そう思い読み進めていたのですが。
網羽虫のかき混ぜるように鳴く声、気だるい声。それらを聴いているうちに……、わたくしは、本側に寄せられている円卓の上に置くと、ついウトウトと船を漕いでいたのですわ。
暑さを取り込んだ熱風が、怠惰を誘ったのでしょうか、飾られた香草の花の涼やかな甘い香りが、わたくしを迂闊に誘ったのでしょうか。あられのない姿で、うたた寝をするなんて。後悔先に立たずとはまさにこの事。己の迂闊さに呆れ果てております。
ドレスも重い髪飾りも外して、レースの下着姿で、しかも裾を濡らさぬ様に、膝までたくし上げて……、なんという、破廉恥な姿な時に来られるなんて。それもまだ日が高い午後の時に。
――、恥ずかしくて恥ずかしくて、そして誠に情けなく。咄嗟に裾を足元に落としましたが、下着姿なのは変わらぬ事。
これもそれも暑いのが、いけないのですわ!そうですわ!この暑さがわたくしに、イタズラを仕掛けて来たのです。
「暑いからね、うん、今日は特別……、その、涼しそうでいいね」
しっとりと水を吸い上がる裾が重く感じます。ペタペタと脚にまとわりつく白の布。黙ったままでは失礼かと思い、こくんと頷くにとどめます。
「ご相伴していい?」
は?怪訝に思いますと……。
「上着を脱いで、ああ、下も脱ぎたいけど……、それはまだ早い時間だな。止めておこう。うん、靴はいらない」
まあ!なんて事でしょう……。違う意味で恥ずかしくて、何をどうしたらどうしたらいいのかしら。殿下も、重ねておられた装束を脱ぎ捨てると、靴を脱ぎ捨て、裸足になられてチャポンと、盥にお入りになられたのです。
……早い時間って!何!何をお考えに!
こちらは下着姿で分が悪いのですわ!あう、あう……、お妃教育で知ったあんな事やこんな事が……、勿論、知識だけですが。そりゃその事はとても大切ですわ。跡継ぎを産むことは、わたくしの大切なお役目ですもの。でも待ってくださいまし!
その……心の準備が……湯浴みも身支度も、そ、その!そその!その様に熱い目で見ないで下さいまし!そのまま逃げ出したいのをぐっとこらえます。
「婚礼でヴェールを上げた時に、雨上がりの澄み切った空の色のようなその瞳に、見惚れたんだ。なんてかわいいと思った。美しいと。そのままにと、神の御前で不謹慎にも思ってしまった。だから工事が遅れたのかな、愛する妃の為に相応しい館と、注文を付けすぎてしまった……、避けていたのは、そのつまりね、我慢していたというべきかな」
はうう。そのままに?何ですの?そして『殿方の我慢』とは。視線や立ち姿から、妖しいエーテルみたいな物をわたくしに向かって放たれてますの。どぎまぎとして動けません。
椅子から立ち上がるべきか、それとも!思い付いてベルを鳴らしてみました。いつもならリリーがすっ飛んで来ますのに、今日に限って誰も来やしません!職務怠慢でしてよ!
チャポン!男の子の様に足で水を跳ね上げる殿下。わたくしを熱く見て、笑顔で手を差し出されて。
外からは網羽虫の、気だるい午後の鳴き声。日がまだ高う御座いますの。差し出された手を取れば、どうなるのでしょうか。
取らなければ……、おそらく殿下とは二度と、私的で逢うことはないでしょうね。
取れば……、ああ!この様な身なりで!殿下の目が物語っておりますの。
……、夫婦なのだから良いではないか。
と……。何がよろしいのですの!嫌ですわ!その、殿下がお嫌では無くて、せめて最低限の身支度を整えて……。そう願うのは無理やもしれません。
暑くて、熱くて、窓から入り込む風は、とろりとした熱を帯びてます。その暑さが、わたくしを窮地に貶めております。
わたくしは、頬が燃えるように朱に染まっております。目の前の殿下も、わたくしと同じ熱持つ色を、して微笑んでおられます。
愛してるよと、初めて殿方に言われましたの……。ああ!わたくしのバカバカ馬鹿!せめてドレスは着たまま……はうぅ……。木漏れ日の様な瞳の色に見つめられて、わたくしは陥落寸前!
そして、それから……
その日は、それはもう、暑くて、暑くて……、網羽虫が賑やかに時雨れておりましたわ。
そして初めて二人で過ごした、熱い熱い、熱く感じた、午後のひとときでしたの。
終わり。
毎日暑くて暑くて、蝉時雨を聞いていると余計に暑いのです。