第7章
「いいよ、遠慮しないで上がって」
「あ、すいません」
昨日のうちに片づけておいた、わたしの部屋。ボクサーの写真が貼ってある以外は、普通の女の子の部屋だ。とわたしは思っている。ダンベルやゴムチューブはベッドの下に押し込んだ。
「今日は映像を観るだけ。体は使わないから安心して」
「あ、はい」
脚を引きずって、ここまで階段を上がってくるのにも苦労していたユーリちゃんは少し安心したようだった。やっぱり一日寝ただけで回復するわけがない。
「ミリオンダラー・ベイビーっていう映画、知ってる?」
「あ……知らない、です。すいません」
「いいよ、じゃあ今から一緒に見よう。字幕がいい?吹替がいい?」
「え……あ、えっと」
「映画あんまり観ない?」
「はい」
「じゃあ、吹替でいいかな。退屈かも知れないけど、最後までちゃんと観て」
若くない女性が、連日ボクシングジムで黙々と練習している。俺は女を教えない、と拒んでいた老トレーナーもついに根負けして、二人はコンビを組む。快進撃を始める。二人の出自には共通点があった。同胞だった。
辿り着いた大舞台のリング、女性は試合中の事故で全身不随、寝たきりになる。彼女の親族が遺産目当てに押しかける。彼女は医療を拒み、舌を噛んで死のうとする。老トレーナーは葛藤の末、自らの信仰に背き、彼女に薬物を過剰投与して、病室を去る。
「……どうだった?楽しいお話だった?」
ユーリちゃんは何か言おうとしたが、言葉が見つからなかったのか、しばらくわたしを見た後、俯いた。
「じゃあ、今度は演技じゃない本当のボクシングを観ようね」
わたしはディスクを取り出し、「ボクシング衝撃ノックアウト集」をデッキに入れた。
ダメージの大きい最悪のタイミング、角度でパンチを叩き込まれた一流のボクサーたちが意識を失い、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
後頭部をマットに叩きつける。
リングの外まで転げる。
試合終了のゴングが鳴っても、意識は戻らない。
「うっ」
目をむいて失神した黒人選手を見た時、ユーリちゃんから声が漏れた。可愛い顔が引きつり、青ざめていた。
「おー、今のは最悪のカウンターだね。踏み込んだとこに貰っちゃった」
「あ……あの」
「ん?どうしたの?面白くない?」
「あの、わかりました」
わたしは映像を一時停止させた。ユーリちゃんが話し始める。
「レナさんは、ボクシングが危ないものだっていうことと、だから私みたいなのにはできない、っていうことを、教えてくださってる……んですよね?」
「んー、それは違うかな」
わたしは座ったまま体の向きを変え、ユーリちゃんに正対した。眼を見た。
「車の運転なんかと一緒。ボクシングは自分が死ぬかも知れないし、殺すかも知れない。ルールの中でやったなら、リングで人が死んだって誰の罪にもならないの。でも、もしそうなったら、悲しんだり困ったりする人がいる。それは残された人たち。わかる?」
「……はい」
「強さに憧れるのは勝手だけどさ。わたしだって立派でも何でもないから。リングの外で人を殴ったら、正当防衛でも認められない限り犯罪なんだよ。本当は。知ってるよね?」
「はい」
「伝わってるみたいだから、映像観るのも終わりにしよう。これだけのことを知って、ちゃんと考えて、それでもボクシングみたいなバカなこと本気でやりたい、って言うんなら、また明日ジムに来ればいいよ。今は女の人でもダイエットとかでボクシングかじったりするけどね、うちで教えてるのは遊びじゃない。安全な殴り合いなんて、ないの」
「はい。……あ、あの」
わたしがさらに追いつめようとしたもんだから、二人の声が被った。
「あ、ごめんごめん。いいよユーリちゃん、話して」
「すいません、あの、私みたいなのに時間をとってくださって、ちゃんと向き合って、ちゃんと教えてくださって、ありがとうございました」
「うん。わかってくれたみたいで、こっちも嬉しいよ」
「私、今日一日、ちゃんと考えてきます。それで明日、答えを出して、またジムにご挨拶に来ます」
「え?うん、わかった。じゃあ明日ね」
え?まだ選択肢が残ってるの?終わったと思ってた。頑固と言うか。