第5章
「レナ、いい素材連れてきたじゃないか」
不意に声がした。元、日本と東洋太平洋ウェルター級王者でわたしの父、佐藤礼一だ。やはり父はうちのジャージが似合う。プロで二十七戦やったにも関わらず、頭も意外にまとも。
「あーお父さん、ただいま」
「あの子、いけるな。ボクシング」
「え?はあ、たしかに体格は良いかも知れないけどさ、ボクシングは身体能力じゃないでしょ」
「眼だよ。眼。おまえも見ただろ、あの表情。狼みたいだった」
「いるかなー?あんな可愛い狼」
「世界……獲れるかも知れんな」
「はあ?ちょっとちょっとお父さーん、現実に戻ってきてよ。ほら」
「おまえもだ。あの子の才能を見れば、おまえもやる気になるよ。大事に育ててあげなさい。任せるからな」
「お、おう……」
急展開すぎて困った。残念なことに、父の目は確かなんだよね。正直言うと、わたしもユーリちゃんを抱き上げた時から気づいてはいた。身体的な素質は間違いなくある。
仕方ないのでわたしは受付のカウンターに座り、鞄から教科書を出して復習していると、五分ほどしてユーリちゃんが息を切らせながら戻ってきた。ジャージの上下で。学校指定の。
「すいません、遅くなりました」
「……ユーリちゃん、服、それしか持ってなかった?」
「すいません」
ユーリちゃんはちょっと苦々しい表情のまま俯き、耳を真っ赤にした。恥ずかしいようだ。可愛い。左胸に茶古と刺繍が入っている。
「いや、大丈夫だよ別に。わざわざ新しいの買うなんてもったいないし」どうせすぐ辞めるんだし。
「うーん、そのままじゃ髪が邪魔だから、束ねよっか」
わたしはカウンターに置いてあった輪ゴムを差し出した。お礼を言ってぺこっと頭を下げ、ユーリちゃんは髪を後ろで束ねたんだけど、この子、やっぱり可愛い。顔の輪郭がはっきり出てもすごく整ってる。尚更、殴り合いなんてさせたくない。
「じゃ、縄跳びからね。はい、これ。わたしも着替えてくるから、それまで跳んでて」
「あ、はいっ」
ユーリちゃんは戸惑いながらも跳び始めた。まあまあ上手い。でも、慣れてないと縄跳びだけでも十分きつい運動なのだ。わたしは会員さんたちに挨拶しながらジムの中を通って、勝手口から出た。隣接する佐藤家でティーシャツとジャージの下に着替えを済ませ、またジムに戻ってきた。
ゆっくり着替えたのもあり、五分ほど経っていた。ユーリちゃんは息を切らせて縄跳びを続けていた。汗が滲んでいる。そりゃ、いきなり慣れない縄跳びだもんね。
わたしが戻るまで跳び続けるように言ってあるから、わたしがこのまま柱に隠れていれば、じきに疲れきって跳べなくなる。そのタイミングを見計らって声をかけ、言いつけを破ったから破門ね。お金は要らないから帰って。と言えば終了。簡単な話。
そう思って、隠れたままさらに五分ほど経過。ユーリちゃんは縄に引っ掛かることが明らかに増え、はあはあ肩で息をしている。足元には落ちた汗が溜まってきている。
もう少しかな、とさらに三分経過。右足が痙攣し始め、ユーリちゃんはよろよろ倒れた。さあ行こう、とわたしが陰から出ると、すぐに立ち上がったユーリちゃんは残る左足でまた跳び始めた。苦しさで首が曲がってるし、呼吸が乱れすぎて異様な雰囲気。
ちょっとかわいそうな気がしてきた。もう縄跳びは許してあげようかな。まだユーリちゃんには気づかれてなかったけど、歩いて行って声をかけた。
「ユーリちゃん、お待たせ。ちょっと休んでいいよ」
「はあ、はあ、げほっ、す、す……すいませぐぼっ」
吐く予感がしていたので、わたしは予め用意しておいたバケツをユーリちゃんの顔に差し出し、空いた左手で背中をさすった。
「あらら、大丈夫?まだこれウォームアップだから、練習はこれからなんだけど。もう無理?」
苦しげに涙を浮かべて体をひくつかせ、びちゃびちゃ嘔吐するユーリちゃんを見て、わたしは憐れみと快感を覚えた。