空っぽの夢
極普通の、一般的な家庭。父と母の理解ある保護者が居て、兄弟姉妹が居て支え合って。楽しい食卓を、幸福を噛み締める時間があって……
それは何の変哲もないものだけれど。
もし、実現すれば……どれだけ幸せだろうか。
私はいつもこれを思う。
〜♪〜♪
目覚まし時計の音が静かに鳴る。
その音で怒る人間を起きないように──今はもういないけど──その習慣で、未だに静かに音を刻む事しか許されない時計の頭を押し、動きを停める。
衝撃で倒れた時計が虚しく倒れ、最後の余韻を響かせる。
静寂に支配された室内の中で、自分を覆っていた布団を剥ぎ、ベッドから上半身を起き上げさせる。
窓を隠すカーテンを勢いよく開けて、日光を全身に浴びながら勢いよく腕を伸ばし、固まった身体を解す。
「んんん〜〜〜〜!!!」
現在時刻6時半。
昨日は10時過ぎぐらいに寝たから身体の疲れも取れきっている。少し寝すぎだったのか、眠気はあまり身体から抜け出さない。
ほんの少しボーッとしたら、ゆっくり立ち上がってベッドの横に置かれていた花柄スリッパを履く。安物だが三年近く愛用している愛着ある物。
ほんの少し糸がほつれてたり、布がめくれているが買い換えずに使っている。
部屋の外から見える景色は、マンション六階から見える静かな市街地の風景のみが広がっている。
私が住んでいるマンションはそれなりに広く、私とお兄ちゃんが二人で暮らせるスペースがあり、ローンなども高くはなく学生でも死力を尽くせば払えるレベルのもの。
安い理由は、別に事故物件でも何でもない。
最初はそれを疑ったけど、なんでもここら一帯の地主が安く提供してくれているらしく、その恩恵を私達は喜んで受け入れている。
だって、そうしないと住む場所ないし。
頼れる親戚筋なんて皆無だし、みんな私達を敬遠して接触なんて一度もない。これもかれも原因はわかっているのだけど、最早解決の術はない。
このマンションの一室を貸してくれた優しい地主のお婆さんには、けっこう長生きして欲しいな。
……こう思ったのは、初めてかもしれない。
「ん……今日はパンだね、好き」
自室のドアを開けて、パジャマのままリビングに行けば、焼いたパンの香ばしい匂いが漂ってくる。
匂いにつれたまま中に入室すれば、待っていたとばかりに1人の青年が私を見る。
「おはよう、■■」
「おはよ〜、お兄ちゃん」
私の名を呼び、朝の挨拶をしてくれたのは、朝ご飯を用意……というか家事全般をこなしてくれているお兄ちゃん。頼れる唯一の肉親。
鴉の濡羽のような黒色が、真面目な社会人のように清潔感のある髪としてオールバックに整えられ。
感情を読ませず、然し優しそうな印象の糸目。
身長は175cm前後、程よくついた筋肉。
キッチリとした黒スーツに身を包み、紅茶を手に取り新聞を読む姿は美しい。
「……そんな凝視してどした?」
「し、してない!!」
やっぱり嫌いだ!察しが良すぎる……
「わーい、パン好きー」
「まず顔洗って来い」
「はーい」
そういえば何でスーツ着てるんだろう。
まだ大学生なのに……就活、かな?
洗面所に移動して泡を被って顔を洗い、軽く歯も磨いて、うがいをしてから戻って席に着く。
机に並べられたパンの前に座って、手を合わせていただきます。
「いただきます」
「めしあがれ」
スーパーに売ってる食パンに地主のお婆さんから貰った特性の林檎のジャムを塗って、口にほうばる。
美味しい。
私が来る前から点いているテレビ画面には、大人達がつまらない議論を交わしている。
諸島の領土問題、汚職公務員、大国の崩壊、隣国との競走……そのどれもが私には関係性はなくて、一欠片も興味を惹かないものばかり。
あ、私には遥か遠い届かぬ世界という話ってだけで社会情勢を批判して嘲笑う訳では無い。
ただ思考を放棄しただけです。よくわからんし。
そう自虐的な思考を巡らせていると、ソファの上で静かに新聞を読み終えて、渋い顔でそれを無残に破り始めていたお兄ちゃんが、何かを思い出した様で私に話しかけてきた。
…もうお兄ちゃんは朝ご飯を食べ終えていたらしい。一緒に食べるという概念は無いのだろうか?
あと読み終えた後に内容が気に食わなかったり、その日の気分で気軽に新聞破るのやめない?お兄ちゃんは反社会的勢力なの?組みしてないよね?
「そうだ■■。日曜だから、高校も休みだろ?」
「うん。休みだよ?」
「じゃあ久々に二人で出かけるか?」
!!
「……えっと、バイトとかは平気なの?」
「平気平気。奇跡的に今日は全店舗、俺のシフトは休みの色で染まってるからね」
「おぉ。ホントに奇跡的。じゃあ何処行くの?」
「そらもちろん……」
そう言いながら、立ち上がってキッチンに向かい、冷蔵庫を私に見えるように開けるお兄ちゃん。
空っぽだった。
「今日の昼飯がまずない」
「早く行こう……」
死活問題だ。お昼ご飯が食べれないのは辛い。
お兄ちゃんの計画性を疑う事は基本的に無いけど……なんでこんなに早く減ったんだろ?
思い当たる節のな私が首を捻っていら、呆れた様子で嘆息するお兄ちゃんがその糸目で私を睨む。
「どっかの誰かが夜な夜な忍び足で冷蔵庫触ってるらしいな?」
「っ!?」
ギクッ。
………………………イヤ、ワタシジャナイワ。
「ネズミかな?」
「へぇ、こんな可愛いネズミがいるんだなぁ〜」
「いや優秀な泥棒かもしれない!」
「そっかー、へぇ〜?」
「ちょ!お兄ちゃん!!…ごめ、ごめん!ごめんなさい!!」
兄が頭をわしゃわしゃしたり、頬の触り心地を楽しみながら引っ張ったりとお仕置をしてくる。
最後は抵抗した反動で思いっきり頬を引っ張られて千切れかけてしまった。
……自業自得とは言え、頬がヒリヒリする。
「はぁ……全く。食べたいのなら言えよ。夜食ぐらい作るし……」
「そんなに頼りきりになりたくない……」
「じゃあ俺が作れる料理を覚える事から始めよう」
え………。…………え?
私、そんな両の手で数えきれないお兄ちゃんのレパートリーを覚えるなんて無理よ……
一生はかからないけど、一年はかか……いや三年は必要かな!?
……それなら、尚更やれって話なんだけども。
自分自身で作るより、信頼出来る人が作った食べ物の方が美味しいよね?そうだよね?
人のお金で食べるご飯程、美味に感じるものはないでしょう?
だからさ……?
そんな冷たい目で私を見ないでよお兄ちゃん!?
私の部屋は、至って普通だ。
東の壁にはガラスケースが敷き詰められ、私の買って貰ったお気に入りが色々と入っている。
中には色紙やポスター、洋服など……色々と入っているが、そのどれもが大切な人からの贈り物。
テレビの下の棚にはゲームソフトが入っていて、その殆どが戦争シュミレーションゲームだ。
大好きなジャンルは戦争シュミレーション。これ以外は譲れないね!
そして、いつも通り変わらない部屋を見回してから、お兄ちゃんと買い物に行く為に服を着替える。
パジャマを脱ぎ捨て、下着姿になって……
立て掛けられた姿見鏡に映る自分の全身。
慎ましやかな胸と、ハリのある若い肌。
肩で切り揃えられた濃厚な黒色のショートカットと、ほんの少し鋭く、冷たさを感じる黒い瞳。
お兄ちゃんの面影が何処か残っている。
まぁ、普通。
目つきの悪さを除けばお付き合いを求める可能性が高い女子ランキングに入ったことはあるけど。
自分の姿を見てから、そこに置いてあるクローゼットから適当に服一式を取り出して着飾る。
「……こんなんでいいかな」
まぁ、特に記述する必要も無いコーデ。
いつも通り。
財布とかを小さなカバンに入れて、いざ出かけようと部屋を出たら……
お兄ちゃんが出待ちしてた。
その顔は、ゲテモノを見るかのように歪められていて、少し震えていた。
「………どったの?」
「…お前さぁ………服のセンスどうにかならん?」
「え?」
「ジャージを上着にしてスカートって……それ部屋着だろ?!外出用の服買ってやったじゃん!」
「……えっと」
ヤバイ完全に忘れてた。
買ったの一ヶ月前ぐらいだけど、一回も着てない上にガラスケースに入れて毎日鑑賞してるなんて言えない。言えるわけが無い。
「……あぁ、ガラスケース事案?というかずっと入ってたなあの服」
「なんで知ってるの!?」
エスパーですか!?
「は?お前……好きな物をガラスケースに入れてニコニコ笑顔で鑑賞してるのが日課じゃん。てか壁一面に置かれてたら普通見るよね」
「〜〜〜!? 不法侵入!!」
「じゃあ自分で掃除機くらいかけろ……あと、ガラスケースに普段使う物しまって俺に注意されたのこれで5回目な?」
バレてたバレてたバレてた……
死のう。
「はーい、自殺志願者は窓から離れよーね〜」
「は な し て !」
「自分の都合が悪くなった瞬間、自傷癖を拗らせて死にに行くのやめて?後始末めんどい」
本音漏れてるけど!そんな理由で私を止めないで!!もっとマシな理由を並べて欲しかった!!
てか、首!首絞まる!襟を掴まないで!引っ張られた反動で首しまっちゃうから!!
望まぬ形で死んじゃう!いやでも別に……?
「はぁ……俺が服出すからそれ着ろ」
「はーい……そいえば、なんでスーツなの?」
「外出用の服がこれしかない」
「お兄ちゃんの方もだいぶ問題あるよねこれ」
後で服買いに行った方が良いね、二人で。
他人からは■■ちゃんセンス壊滅的!ってよく言われるし。
私がプレゼントで買うより一緒に買いに行った方が得策だろう。金も無駄遣いできないしね。
その後、お兄ちゃんは許可なく私の部屋に入り込み、クローゼットを漁って可愛い服を出したり、ガラスケースを破壊して買った上着を取り出して私に着せた。
……私のコーデより数倍可愛い服装になった。
「本体だけなら高得点だが、自主的に着飾るとダメになるだけだから……これも学んでいこうな?」
そんな優しいお兄ちゃんの言葉を、最後…に……
私に異変が起こる。
……気付かないほど精巧な偽りの世界から意識が暗転し始める。
あ……そっか。またか。
意識が闇に溶けきる前に、毎度代わり映えのないつまらぬ質問をお兄ちゃんに問う。
「ねぇ、お兄ちゃん……」
「ん?」
「私が死んだら…………悲しい?」
この質問は、別に初めてのものじゃない。
毎度毎度。この懐かしき夢たちを見て、その終わりの度に聞いてきた。
お兄ちゃんは、少し不愉快げに眉を曲げた後……逡巡すること無くバッサリ言い放つ。
「────まぁ、そうだな」
その言葉が、何よりも私には効く。
仮初の褒め言葉とか、埋め合わせの頼りない褒め言葉よりも、俄然いい。
私が求めている返事を知っている兄だから。
あぁ─────……
こんな、悪夢のような幸せな世界を。
もう一度送りたいな、って思ってしまう……
バイバイお兄ちゃん。
また来るね……この夢の世界に。




