膨らむ世界
君の匂いがする
優しい香り
今となってはこれだけが
この不確かなこれだけが
君が唯一残していったものとなった
君がいつも抱きしめて眠っていたクッション
それは僕が君の誕生日にあげたもの
『こんなのでいいの?』
『これがいいんだ』
そう言って君はいつも嬉しそうに抱きしめていた
それにしみこんだ匂いだけが
君がそこに居たということを告げている
君が確かに存在していたことを
人の記憶のようにあやふやで不確かなものとして
残されている
僕を包み込む
君の香りが
まるで君がそこに居て
僕を抱きしめてくれているようで
少し悲しい気持ちになる
けれど
そんなことは思ってはいけない
僕にはそんな感傷は赦されない
君が残す
君の優しさ
君が刻み付けた
君の残酷さ
君が示した
君の冷酷さ
その全てで僕を縛り付ける
『……』
『さよならの時間だ』
君はクッションを手放す
名残惜しそうにしながら
ゆっくりと腕を解いて
そっと置いてゆく
まるで自分の代わりのように
僕の側に居ろと
静かに命じているように見えた
嘘つき
このクッションが欲しいって言ったのは君なのに
君はそれを置いて
僕のところに捨てて行くのかい?
そこに籠められた想いも
僕に突き返して
君は涙も見せずに
振り返りもせずに
穏やかに笑って
1人行ってしまうのかい?
香りだけが告げる
君がもうここに居ないのだということを
もう帰っては来ないのだということを
君の言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る
駆け巡っては答えを見つけられずに
僕の唇からこぼれていく
君はいつだって不確かだった
存在感は決して薄くはない
むしろ強くて
そこにいるだけで周りの者の視線を集めるような美しさで
いつも人を惑わせる魔性の者
美しいが故の悲しみによるものなのか
君はいつだって淡い笑みを浮かべていて
どこか嘘くさい
儚くて
触れたらすぐに壊れてしまいそうで
その存在がとても危うかった
細くしなやかな四肢
僕の指に絡み付く指は白くてきれい
ごつごつした僕の手とは大違い
君は僕の頭を撫でるのが半ば癖だった
無意識のうちに手を伸ばしてきて君は
僕の髪の毛を
わしゃわしゃと無造作にかき乱して
ぽんと
手を置いたまま
書類に目を通しながら
うーむ…と
時折難しい顔でうなっていた
一度君の書類を覗き込んだことがあったけれど
よく解らなかった
いや
まったくわからなかった
『どこの国の言葉なの?』
『きっとヨーロッパあたりだよ』
君に訊いたら曖昧にはぐらかされただけだった
君はいつもそう
何でもはぐらかして
本当のことは何も告げないことが多い人
クッションについた香り
君の残り香
君がここに居たという唯一の証
不確かな証
はっきりとしたものは
何も
ない
君は背を向けた
『やるべきことがあるんだ』
そう言って
1人行く
往く
逝く
往ってしまった
君の香り
君はきっと知らない
自分の残した存在の跡を
僕を包み込むこの匂いが
君がそこに居るような錯覚を引き起こす
痛い錯覚を
僕に残して
君は立ち去った
「…と、こんなもんかなっ」
「何がこんなもんかな…だよ!?なんてものをお前は書いてるんだ?!貸せっ!」
「えー…破ったりしないでよ?力作なんだから」
「何が力作だよ。こんなもんに注ぐんならもっと他の事に有効活用しろ」
「ちぇっ、自分が頭いいからってさー。あー…もうやだやだ」
「そんなことは関係ない。ってゆーか、これ!よくこんな小っ恥ずかしいものが書けたな?!」
「えー、君に褒めてもらえるなんて嬉しいな♪」
「耳の聞こえが悪いなら耳鼻科へ行け。第一『さよならの時間だ』とか『きっとヨーロッパあたりだよ』とか言ってないし!それに美しいが故の悲しみって…なんだよそれ?!意味解らん」
「でも、『やるべきことがあるんだ』は言ったでしょ?」
「言ったけど、それは家事をしに行ってただけだろうが!お前が何もせずにべたべたべたべたくっついてくるからしなきゃならんことが溜まりすぎて、さすがにイラッとしてきたから片付けに行って来たんだよっ!バカ!」
「それはそれはごくろうさん」
「うわー…そういう心の篭もってない言い方って大嫌いだなぁ…」
「ありがとう☆」
「…それも違うだろ。ウザイよ」
「ん〜…もういいじゃんか、許して?君と離れてるのが寂しすぎてつい書いちゃったんだよ」
「……バカ」
それであんなものが書けるなんてすごい想像力の持ち主だな、お前。
お褒めに預かり光栄ですた♪
僕はニートから小説家になった。