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「ふー…」
読み終えて、考え込んでいた思考を止めて長く息を吐く。
手元から視線を外し顔をあげると、気配に気づいたらしい蒼龍と目が合って思わず微笑み合った。
そのままどちらからともなく視線がフレイアへと移った。
刺繍をするフレイアと白布の上で踊る色取り取りの花々を蒼龍と一緒にぼんやりと眺める。
リビングのテーブルには私とフレイアと蒼龍の3人が席に着いている。
フレイアは刺繍をしているし、蒼龍は魔法陣の古語を解く作業をしている。
各自自分の仕事をしているのだから一つどころに集まる意味は特に無いのだが、何故だか全員が何となくここに来てしまうのである。
そしてこの意味のないぼんやりとした時間が幸せだったりするのだ。
どの世界でも世間は殺伐としていて人生は世知辛いが、家族のいる食卓というのは割といつでも平和だ。
ああ、守りたいこの平穏。
白布の上を這う蔦花を目で追いながら紅茶を呑んで、ほうと息を吐いた。
そんな長閑な昼下がりに突然 " バンッ " と大きな音が響いた。
思わず体が跳ねる。
あわや紅茶を零しかけて、慌ててカップを持ち直す。
フレイアは猫のように縦飛びしたし、蒼龍はミーアキャットのごとくピョンと背筋を伸ばした。
2人の可愛らしいリアクションに、早鐘を打つ私の心臓が少し癒される。
と、立て続けに"バンッ、バタバタ"と廊下から聴こえる。
落ち着いて聞いてみれば、あの癖のある遠慮も何もない足音には心当たりがあり過ぎるほどある。
音の出所が誰なのか察した私はスッと平静を取り戻した。
椅子に座りなおすして再びカップに口をつける。
" バッターン " と一際大きな音が背後から聴こえて、私は非難するように振り返る。
「おかえり、どうし…どうしたの!?」
声を掛けようとして、ギョッとする。
音の主は案の定雪久だったが、全身が赤黒く汚れていたのである。
血生臭さからあれは間違いなく血液だろうと息を呑んだが、本人の血でないのは一目瞭然。
と言うかさっきまで走っていたじゃないか。
そう気づくとフッと素になった。
冷静さを取り戻した私と反して、雪久は焦燥からか伝えたい事を上手く言語化出来ないようだ。
「ねえちゃん!今、いや、今じゃ、そのっ!」
「落ち着きなさい」
「魔法陣がいって!あ、あの!それで!」
駄目だコレ、待ってられん。
こっちで理由を考察しよう。
雪久の様子を鑑みるに仲間内で怪我人でも出たか?
ーーいや、あの量の出血をしたのが人間なったら、既に死んでる。
死者が出てたら落ち込みこそすれ、慌てて私の所まで来るのは不自然だ。
それに単なる怪我人が出たなら自分が治せば良い。
ここにこいつはやって来ないだろう。
ならばあの返り血は魔物のものーーそれも血の被り方からして、恐らく相手は大型魔物や魔獣の類いか。
魔獣…成る程。
それならば雪久がやって来た理由としてあり得るのはーー
「瘴気だね?」
「!」
考えること数秒。
叩き出されたアンサーの答え合わせのために問い掛けると、雪久がガクガクと首を縦に振った。
正解か。それなら
「人か?場所か?」
「人!人だ!」
「分かった、準備する。
お前はその間に急いでシャワー浴びて着替えて来なさい」
「そんな時間はっ」
「そうだね。
でも治療にはお前の力が要るんだよ。
魔獣の血液に瘴気の類いが残っていないという保証はない。
ちゃんと洗ってきなさい」
「わ、分かった」
部屋を泡食って出て行く雪久を尻目に間髪いれず蒼龍達に向き直る。
「蒼くん、聞いてたね?
準備をしよう」
「えっと…その、何をどうすれば…」
いつの間にか立ち上がっていた蒼龍はしどろもどろに答える。
一般的に、瘴気の影響による体調不良は有効な治療法がないと言われている。
蒼龍にはその知識があるのだろう。
困惑や不安も当然だ。
「大丈夫」
だからこそ私は不敵に笑って見せた。
「実はこんな事もあろうかと瘴気対策の魔法陣を2枚組み立てて、既に書いてあるんだよ。
どの程度効くかは未知数だがある程度は効く。
少なくとも何もやらんよりはマシだ。
瘴気について調べて纏めたノートもあるからそれも持って行く」
雪久のあの様子を見るにかなり状況が悪い事が窺える。
きっと王都には瘴気に対する治療法も碌に無く、現在は聖女も居ないんだろう。
それでも今出来ることをするしかない。
「どっちも既に用意してあるから大丈夫だよ。
治癒系の魔法陣も沢山手元にある。
全く効かないってこたあないさ。
後は患者の状態を見ながら必要な陣を現地で書こう。
蒼くんはそっちの用意をお願い」
「はい!」
用事を言いつけると、蒼龍はパッとやる気に満ちた顔に変わった。
心機一転元気に返事をすると二階へ上がって行く。
その背を見送り、私のほうも荷物をまとめる。
あの子は突然の異常事態に弱い。
雪久のアドリブに弱い所と似ているけど少し違う。
雪久は成せない事が、蒼龍は知らない事がそれぞれ怖いんだろう。
どっちの気持ちもわからいではないが、たじろいでたって仕方がないじゃないか。
私は「失敗してもそんときゃそん時」ってな具合にテキトーに対応してしまうからなぁ。
あの2人の慎重さにはやきもきさせられるやら、ちゃんと考えてて偉いなぁと思うやら。
閑話休題。
瘴気関連と治癒医療系の資料と魔法陣は既にある程度鞄に入っているので、最近書いたものを放り込めば準備オーケーだ。
ばあちゃん直伝の魔法鞄は容量が凄いので、これでもまだまだ余裕がある。
前から思っていたのだが、こんな風に魔法鞄に魔法ポーチを入れられるならこの鞄の容量はほぼ無限と言えるのではないだろうか。
運送業者はこれだけで大儲けでしょ。
以前トーマスにそう問うたところ苦笑いで返された。
「まず魔法鞄の魔法陣を書ける人が殆どいないんですよ。
ヨシカさんがお持ちの超上級の魔法陣を使用した鞄で大変希少な上高価なんです。
これを一般規格だとは思わないでくださいね…」
との事。
あのげんなりした様子を見るに、あまり人前でこの性能を晒さない方が良いのかもしれない。
何にしろ、ばあちゃんはとんでもないものをくれたらしい。
また改めてお礼を言いに行きたいな。
新しく考えた魔法陣と紅茶に合う茶菓子でも用意して、それを手土産にしよう。
そう考えながらリビングに戻る。
蒼龍は既にいるが、雪久はまだのようだ。
まあ、それはそうか。
私は散らかしていたものを片っ端から鞄に放り込んだだけだし、蒼龍は既に分類わけしてある中から必要なものを数個抜き出してきただけなのだから、それより早くは無理だろう。
「お姉様」
「うむ?」
呼ばれて振り返るとフレイアが真剣な顔で私を見上げていた。
包みを差し出してきたのでそれを受け取る。
「この時間ですから、もしかしたら軍人さんたちは昼食を済ませていらっしゃらないかもしれません。
簡単なフルーツケーキです。
おやつ用に作ったもので量があるわけでもないのですが、少しでも何かできればと思いまして」
「おお、こういう気づかいはありがたいよ。
野郎ばっかりだろうし、慌てておざなりになってそうだもんね」
「日持ちするようにバターやリキュールをたくさん使っているので、苦手な方がいない確認してください。
こっちは紅茶です」
「ありがとう。
フレイちゃん。
何時に帰宅可能か不明だが、晩御飯の支度をお願いしていいかい?」
「はい!お任せくださいませ!」
「うむ、頼むよ」
フレイアから包みと水筒を受け取り鞄に放り込む。
コートハンガーから上着をひったくって羽織ったところで雪久が飛び込んできた。
「っすまん!待たせた!」
「いや、大丈夫だ」
大丈夫じゃないのはお前の方じゃないのかという言葉は飲み込んだ。
髪は碌に拭けていなくてべしょべしょだし、服のボタンとか碌に留まってない。
目一杯慌てたんだろうからしょうがない。
「移動手段は?」
「俺が担いでく!」
「おーけー、任せる」
私が答えるが早いか片腕で肩に担ぎあげられる。
持っている位置はほぼ膝裏で、荷物持ちにしたってあんまりな態勢だ。
女子を抱き上げる方法としては100点満点中6点である。
反対側に蒼龍が担がれるのを見て、「あ、これ再会した時にフレイとルネがやられてたやつだ」と暢気に思ったのはちょっとした現実逃避だったかもしれない。
思った直後にはもう雪久が疾走を始めていて文句を言う間もない。
私に出来たのは舌を噛まないよう口を噤み、フレイアの「いってらっしゃいませ」がドップラー効果を伴って急速に遠のいていくのを聞くことだけだった。