着火
突如、クマの足元がズシッと地面が軋み、その脚に多量の蔦が蔓延り絡みついた。
隊長が相対しているうちに詠唱を終えたのだろう。
驚いたのかクマは踠いたが、ノエルの重力魔法のせいか身動ぎする程度しか出来ず大した甲斐はなかった。
そうこうする間に蔦の上から氷が張った。
何層にも嵩増す氷はミックのものだろう。
「加重力解除!」
肘上まで氷で覆われた辺りでノエルが叫んだ。
普段が普段だけに一瞬誰か分からなかった。
叫ぶノエルとか超貴重シーンだが、そんな事を言っている場合ではない。
加圧が無くなったクマは叫き散らしながら脱け出そうと暴れるが、その度に好戦的な笑顔を浮かべている隊長に攻撃を加えられ、思うように動けないでいる。
刃は通らないまでも、斬撃は全くダメージが通らないという訳ではないようだ。
だがそれ以上に動きを制限出来ている理由は、隊長の攻撃位置やタイミングが的確だからだろう。
ノエルの声が聞こえる前から、クマの体には木が生え始めていた。
丸い葉の木と白樺のような木だ。
木々はその体表を覆い尽くさんばかりにその枝葉を伸ばしたが、そのまま瞬く間に落葉し立ち枯れになっていった。
よく燃えそうだ。
「んー、ちょい高過ぎるかなぁ」
俺の横にいたボヤンが手で庇を作って額に当てている。
糸目をクマに向け、暫し目算した後にボソリと呟く。
「ミック、頼むわぁ」
「はいよー」
ミックが場違いな程呑気な声音で答えると、ボヤンは音も立てずに後退する。
数歩下がってクルリと踵を返し振り向いた途端、こちらに向けて駆けてきた。
森の中を走っているというのに、小枝や落ち葉を踏む音もないしなやかな足運びだ。
タイミングを見計らってミックが氷柱を出すと、背負っている十文字の剣を抜き足場にして駆け上がった。
氷柱は氷筍が如く伸び、木よりも尚高く育ってゆく。
折良く天辺に辿り着いたボヤンは、そのまま成長していく氷柱の勢いと自らの駆けた勢いを持って、棒高跳びの要領で更に上へと跳び上がった。
「ほんじゃぁ、頭上注意でよろしゅう」
状況に反して気軽に注意を呼びかけると、十字剣の反対の手に持っていた皮袋をパッと離した。
口を絞る為の紐もない皮袋は放たれた途端中身をぶち撒け、その透明な油はクマに降り注いだ。
全身に浴びた当の本人は足元を拘束されているのに気を取られていて気づいていない。
勿論ボヤンにも意識を向けておらず、クマを挟んだ向こう側に何事も無く着地出来たようだ。
建物の3階位の高さから落ちたにも関わらず、2回転程前転してスチャッと立ち上がった。
オリンピック選手ばりの完璧なポージングである。
下で好戦中だった隊長も注意勧告の合図で既に撤退済みだ。
ほっと胸を撫で下ろしていると、地鳴りを伴う程の雄叫びが上がった。
慌ててクマを見ると、全身火達磨になっていた。
俺が2人の安否を確認している間に、パトリックが火矢を放ったのだ。
燃えやすい枯れ木を括られ、油をかけた上で火を放てばこうなって当然だ。
しかも、あれはただ焼かれてあるだけではない。
アーチボルトの熱魔法とパトリックの炎魔法によって、通常よりも火力が強くなっているのだ。
流石の化け物も頭から背中、尻の方に渡ってその身を苛烈に焼かれれば堪ったものではない。
腹の底まで響く轟音を叫びながらのたうっている。
それも満足に出来ない状態だ。
…多少同情はするが、よもや手を抜く訳にもいかない。
心中で自分にそう言い聞かせつつ合図を待つ。
俺が斬りかかるタイミングはアーチボルトが一撃を加えた後だ。
なんだかんだで勤務歴1か月の新人だし、気を使われているんだろうと思う。
隊長は炎など意に介さずクマに斬りかかる。
いや、注意してはいるのだろう。
服や身を焦がすことなく攻撃を叩き込んでいる。
今まで全く刃が立たなかった剣先が、浅くではあるが食い込んだ。
クマの声がいよいよ切羽詰まったものに変わり始めている。
漸くダメージらしいダメージが入るようになったのだ。
隊長の斬撃が二つ三つ通るうちにクマの叫びが怒号へと質を変えた。
轟く咆哮に付随してバキバキと嫌な音がし始めた。
慌てて音の出所へ目を向ければ、クマは血を流しながらも脚を自由にしようと躍起になっている。
後先考えない暴れっぷりに、蔦類と供に氷漬けになっていた四肢が少しずつ動き始めている。
隊長が顔を顰めて後退した。
距離を置くと、クマの怒号に負けないくらいの怒声で指示を飛ばす。
「攻撃は後回しだ!
ミック、ノエル、ドローレス、もう一度動きをーー」
言いかけた途中で左前脚が凄まじい音をあげて自由になった。
各自が慌てて魔法を放つが、火事場の馬鹿力を発揮したのか振り払ってしまう。
そこからは早かった。
コツを掴んだのか、怒りが頂点に達した為か。
四肢全てを一気に氷塊から解放し、脇目も振らずに走り出した。
逃げようと闇雲に駆け出したようだが、その先には2人の人影があった。
13班回復係チェルシーと、彼女を庇うように立つレヴィンだ。
レヴィンは普段からは想像も出来ない程の殺気立った形相で前を睨みつけている。
2人の姿を認識した瞬間、俺は茂みから飛び出していた。
あんなアフリカゾウより大きい生き物にぶつかられて無事で済むとは思えない。
だからと言ってか弱い少女を抱えて避けられるかといえば、それも無理だろう。
レヴィンの能力が何かは知らないが、この状況を打破出来るものかどうか分からない。
わからん以上、このまま何もせず見ているだけでいるなんて俺にはできない。
退がれ、と隊長が叫んだような気がする。
誰に向けた言葉なのかは分からないが、その時には俺は既に斬撃を食らわせていた。