邂逅2
彼女は私の不興を買ったとでも思ったのだろう。完全に怯え切った瞳を私に向けてきた。これは非常によろしくない。
具体的に言うと、鉄鎖を溶かすための薬剤を掛けようとして暴れられ、手足まで腐り落してしまう危険がある。
いっそのこと締め落としてから鉄鎖を外すことも考えたが、人間相手では加減が分からないし、万が一途中で意識を取り戻した時に目も当てられないことになる。
私とて無益な殺生は願い下げるところだ。
「違う、今の舌打ちは…… お前に向けた物ではない。その鎖に向けたものである」
「私じゃ…… ない?」
「そうだ。お前のような貧しい末子をこんなにも忌々しい鎖で縛りつけたのだ。こんな仕打ちをする者への憤りだよ」
鸚鵡返しに問いかけるニーナに頷いてやる。
嘘…… ではない。
己が道理によって世界を改変する魔法使いにとって、自身を欺くことは禁忌に相当する。
この鉄鎖が忌々しい聖別を受けているのは事実だったし、間引かざるを得ない幼子を私の住処の前に放置することで自身の行為を正当化しようとする人間達に幾何かの腹立たしさを覚えない訳ではない。
ただ、彼女が少しばかり主語が足りなかった私の言葉を自身の都合の良いように解釈したとて、私が知るところではないのも事実だ。
彼女は目を丸くして瞬かせたが、やがてどこか安堵したかのようにぎこちなく笑みを浮かべた。全く持って現金な少女ではあるが、しかし、素直なことは良いことだ。
この期に乗じて、腰鞄から液体の入った小瓶を取り出し、彼女の前で揺らす。
「これより、鎖を外す…… この液体は劇毒だ。触れれば、たちまちの内にお前を侵し、お前の四肢は腐り落ちるだろう。努々、無闇に暴れて触れるなよ?」
分かったか、と念を押すと彼女の頭は行儀の良い栗鼠の様に上下に振れた。
手足を伸ばし、地面に着けて固定するように言うと、彼女はすぐさまその指示に従った。
まぁ…… その劇毒も薄めてあるので、多少ならば触れてもすぐに洗えば良いだけの話なのだが、主観が入ってしまって多少誇張した表現になってしまっても仕方あるまい。
「垂らすぞ……」
そう告げると、彼女はゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
私は小瓶から慎重に手枷の上に液体を垂らす。細く垂らされた液体は鉄鎖に触れると赤熱した鋼を水に浸けた時のような音を立てて鉄を溶かし始めた。
丁度、切れ目を入れるように液体を垂らし終えると次は足枷へと垂らす。再び、ジュウっという音がして蒸気が上がった。
「……」
そうして小瓶の中の液体を全て吐き出し、垂れた劇毒が地面に小さな穴を空けた頃。ニーナの両手と両足に嵌っていた鉄の戒めはゴトリという重々しい音を立てて外れた。
手首と足首は鉄鎖が擦れて赤くはなっているものの、目立った外傷がないところを見るに施術は無事に成功したようだ。
ニーナは漸く取り戻した自らの自由に、暫しのあいだ呆然としていたようだったが、やがて我を取り戻すとその黒目勝ちな瞳でこちらを見つめてきた。
「やれ勘違いしてくれるな…… 私は、お前の為にやったんじゃないよ」
そう…… あくまでもこれは私が自分の住処の静けさを守るためにやっただけの話だ。勘違いされても困る。
邪険にして追い払おうとすると、彼女は尚も食い下がってきたので、疎ましいことこの上ない。
「お前は自由だ…… 好きにしな」
私がすべきことはこれ以上ない。あとは私の視界から消え失せてくれればいい。私は一刻も早く、あの適度に湿って居心地のいい寝床に戻って寝なおしたいのだ。
それだけ言ってやっても、彼女は未だに私の住処の入り口で俯いたまま立っていた。
「……えぇい、なんだ。これ以上、私ができることなどないはずだぞ。お前は帰るべき場所に帰れ」
麓の村は一日ほど歩けば辿り着く。少女の柔足では少しばかり厳しい道程ではあろう。しかし、幸いな事に私のことを恐れて大型の獣はこの辺りには住んでいないし、獣道ではあるが道もある。決して歩き通せぬ道程ではないはずだ。
それとも…… お前は私に元居た村へ案内しろとでもいう訳ではあるまいな?
そんな思いを込めてニーナを睨むと、ニーナはボロ切れの様な服の裾を握りしめて細い肩を震わせながら小さく首を振った。
曰く、自分は魔女の怒りを鎮めるために捧げられた生贄だから、だそうだ。
正直な所、呆れて物も言えなかった。
当の魔女が帰って良いと言っているのだから、素直に帰れば良いのに。
いや、頼むから帰ってくれ。
人(正確に言えば私は魔女だが)のありもしない怒りをでっち上げ、挙句の果てに望んでもいない生贄を押し付けてくるなど、しまいには本当に怒るぞ。
沸々と煮えたぎる物を腹の奥に感じながら彼女を見るが、それでも彼女は頑として動く事はなかった。
「はぁ~…… 分かった、分かりましたよ」
しばし睨み合っていたが、結局先に音を上げたのは私の方だった。
当然と言えば、当然だ。
ニーナにしてみれば生贄として捧げられた以上、元の村に戻るという選択肢はないわけだ。そんなことをすれば、逃げてきたと思われて村の連中から石を投げつけられる。それは近隣の村でも同じことだろう。
詰まるところ…… 彼女が生き延びる為には、魔女である私に頼る他なく、退路などもとよりないのだ。
私とて、このままニーナを見捨て、ふとした拍子に山の中で冷たくなった彼女と再会するのはとても寝覚めが悪いだろう。
「私がお前のことを預かるのは、お前の引き取り手の見立てがつくまでだ」
こうして、私はニーナを育てることになった。