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ペルシアンラヴ   作者: 藤原去鬼(ふじわらさき)
9/27

ペルシアンラヴ 9

「…次に目が覚めたのは、病室のベッドの上でした。目を開けると、麻子さんとすぐ目が合って、なんとも言えない安心した気持ちになりました」

 「あなたなんでここにいますか。もう夜遅いです。帰った方がいい」

 「そう言ったけれど、彼女は何も言わなかった。ただ涙で目をいっぱいにして、微笑もうとするだけだった。私のこころに濡れた温かいものが流れてきました。すると私も自然に少し顔がほころびました」

 「…そのまま、しばらく見詰め合っていました。仕方ないので、高田さんに携帯電話で連絡を取ってほしいと頼みました」

 「彼女はテキパキと事情を話してくれました。そして高田さんがすぐ来てくれると告げました」

 「お願いです。高田さんが来たら、あなたは家に帰ってください。また明日会えます。あなたのこと大事だからそう思う」

 「彼女は小さく頷きました。そしてまた、私を見つめました」

 「穏やかな時が過ぎていきました。高田さんが来ると、彼女は丁寧に頭を下げて、『浅田麻子です』と名乗りました。そして、私のほうに会釈すると、何度も振り返りながら去って行きました」

 「彼女が行ってしまうと、自分の一部が消えてしまったかのように思えました。途端に障碍者となってしまった、自分の身の上が重苦しく感じられました。なに、また来てくれるさ、と自分を慰めました。それまで、人のことを頼りにしないという生き方をしていたのに」

 「…恋をしたことはありました。初めは一八の頃にいとこと、それから平和活動の手伝いをするようになって、イギリスの女性や、フランスの女性と…しかし、結婚はしませんでした。母は定職に就くようにと仕事の紹介もしてくれましたが、自分としては出来る限り、世界の苦しい人たちの手助けがしたかった。だから、家庭を持って落ち着く、ということに実感もなかった」

 「でも、麻子さんと出会ってからはなぜか、彼女とは、いつまでも一緒にいられるように思いました」

 そのことは陽一も同じだった。アリと自分が麻子に対して同じように思っていることが、よく分かった。アリが何も言わないのに陽一に頷いた。

 「あなたも同じなんですね。申し訳ない。本当にごめんなさい」

 荒木がアリを制した。

 「続きを話しなさい」

 「…翌日から、学校が終わると麻子さんは見舞いに来てくれました。毎日、面会時間を超えるまでいてくれました。重症なので一人部屋にいましたし、麻子さんが来ると、高田さんは夫婦で、交代で朝から来てくれたけど、気を遣って帰ってくれていました」

 「毎日、五時間くらい麻子さんと一緒にいました。いろいろなことを話しました。麻子さんは歴史の話をよく知っていました。私がスーフィズムのことを話したら、興味を持ってくれたので、いろいろ話しました。また、世界の苦しんでいる人たちのこともいろいろ話しました。彼女は、時に涙を流しながら、そういう人たちを助けたい、あなたと一緒にそういう国へ行きたいと言ってくれました」

 「そう言ってもらって、正直、私はうれしかった。でも、冷静になって考えた。私と麻子さんは年齢も二〇歳くらい違う。また、私のからだに起きたことに責任を感じてしまっている。彼女は、学校を辞めてでも、これからずっと私と一緒にいる、と言ってくれたが、そんなことをさせてよいのだろうか」

 「フェアじゃない、と思いました。でも、直接そのことは彼女には言えなかった。彼女といて、そのことを考えると、それだけで分かってしまうのか『アリ、私はあなたについていきます。私は絶対にあなたと離れません』と言われてしまうのです」

 「六日間経ってから、私は真剣に朝から考えた。そして『それ』を実行することにしました。高田さんにそのことを話した。長い話し合いの挙句、実行しました」

 「すぐに転院の手続きをしました。そして、私が容体の急変で死んだと麻子さんに伝えるように頼んだのです」

 「彼女の将来の幸せを考えたら、それしかないと決意していました。歳の離れた障碍者の男に彼女を縛りつけてはいけない。それはアッラーにもよくないことだ。容態の急変で未明に死亡し、既に遺体は帰国のために搬送された、と伝えて欲しいと」

 「高田さんは協力してくれました。一切、麻子さんの反応を私に知らせないで欲しい、と言ったことも守ってくれました。そして、私は遠く離れた病院で療養し、母も途中で来てくれました。そして、一か月後に帰国しました。もちろん、麻子さんのことは忘れられるわけもなかったけれど、リハビリの後、また世界へも行けるようになりました」

「…心の底では、麻子さんの幸せをずっと願っていました」

 「私が日本へ行くことがなかったら、そのままですべては終わったでしょう。しかし…

 私が今、最も心をかけているパレスチナのガザ地区について、多額の援助を無償でしてあげるという、日本人の未亡人がいます。彼女は変わっていることで有名でしたが、たいへんな資産家なのも事実でした。彼女は数億円の寄付を申し出ていました。ところが、それには条件がいくつかありました。そのなかに『障碍者なのに現地で支援しているイラン人に会いたい』ということも入っていたのです」

 「私が車いすに乗りながら現地で支援する様子は目立ってしまっていました。でも、どこの国のジャーナリストの取材にも『障碍者』」ということは絶対に書かないで欲しい、車いすに乗っていると分かる写真も載せないでと注文を付けました。表向きには『障碍者なのに平和活動』という伝え方は一種の差別になるから、と言っていましたが、麻子さんに知られたくない、という気持ちのほうが実際は正しかった」

 「しかし、どこで知ったのか、未亡人の女性は明らかに私のことを言っていました。高田さんからそのことをメールで聞いて、真剣に迷いました。でも何度も侵攻されて、封鎖されているガザ地区の人たちの苦しみ、特に子どもたちのことを考えると、数億円というお金を個人が出してくれるということは無視出来なかった。仕方なく、私は日本へ行く手続きを始めました。そして数日間で用件を済ませてすぐに帰国するつもりでした」

 「高田さんの家が、麻子さんの家に近いであろうことは分かっていたから、都心のホテルに宿泊しました」

「そして無事、未亡人との会見は済みました。彼女は私に労を取らせて申し訳ないと、しきりに詫びました。こんな世の中でも、あなたのような人がいることを、どうしても実際に会って知りたかった。ありがとう、と最後には涙を流しました。私はよいことが出来た。これから彼女は、もっと弱い人、苦しむ人のことを助けてくれるだろうと思いました」

 「ほっとした私に、高田さんは『家に寄って、家内に会ってくれ』と言いました。すぐにイランへ帰るつもりでしたが、未亡人との会見があっさり終わったので、半日余裕がありました。高田さんは介護の資格があって、私の面倒見られます。この未亡人との会見にも自家用車で送ってくれていました。車に乗ったままなら、高田さんの家に行っても、麻子さんに見つけられることはないだろうと思いました。それに高田さんとはパレスチナで一度会っていましたが、高田さんの奥様にも、入院のときはお世話になっていました。それ以来お会いしていなかったのでお礼をしたかった」

 「高田さんの家に行って、奥様とお会いし、しばらく話してから、ホテルに帰ることになりました。あいにく、夕方の渋滞でなかなか帰り道では車が進まなかった。つい、窓を開けて外を見ました。それがいけなかった…」

 「アッラーは、なんてことをしてくれるのでしょう。前を見ると、こちらへ向かって歩道をやって来る麻子さんが見えたのです。彼女は買い物袋を手に提げていて、前を向いていましたが、あっと言う間に私の顔を見つけてしまいました。そして、駆け寄ってきたのです」

 「『アリ! 』と彼女は小さく叫び、ただただ『よかった』と繰り返しました。彼女も私も泣きました。彼女は私の頭を小さな手で抱えていました。私は麻子さんに出会ってしまった自分の失敗を心から悔いていましたが、もうこれはアッラーの導きだ、仕方がないとも思いました。前の車が動きそうになって『…今から、ホテルに戻って明日はイランに帰ります。連絡先は、高田さんに後で教えてもらってください』そう私は言いました。車は動き出しました。彼女はいつまでも、道路から私たちを見送っていました。その小さくなる姿を私はバックミラーでずっと追っていました」

 「…少しして、高田さんが重い口を開きました」

「アリ、もうこれは運命だよ。オレから彼女に電話するわ。彼女の携帯は番号が変わってないはずだ。前に君が『死んで』からも、実はずっとやりとりはしていたんだ。君が言うなと言ったから、今までは何も言わなかった。でも、君が死んだと言う話をしたときの彼女は…

蒼ざめたまましばらく動かなかった。その後、崩れ落ちるようにしゃがみこみ、声を殺しながらずっと泣いていた」

「その日は家まで彼女を送って帰り、心配なので何度か電話をした。…しばらくしてパレスチナに興味があると言うから、ほら、我々とはあまり普段は接点のない、武山さんの主催している集まりを紹介したんだ。彼女、しばらくは熱心に関わっていたようだった。でも、現地に行くまでのことはなく、昨年就職してからは、あまり活動はしなくなっていたらしい。最後に話したのは昨年末だが、もうそのときは、いつものように明るい彼女だったよ」

「…そうですか。彼女はどこに就職したのですか? 」

「銀行だと言っていたかな」

「じゃあ、よい人生を送れているんですね」

「う~ん、どうだろう。仕事はつまらないと言っていたね。でも、いい人に出会ったとも言っていた」

「それは恋人ですか」

「どうだろう、私もそう言ったけど、小さく笑っただけだった」

アリは陽一の手をとった。

陽一もアリの手を握り返した。何も言わずとも、何かが互いから流れて調和している。


「こらこら。オトコ同士で手を握りあって、見詰めあうな。嫉妬しちゃうだろ」

荒木が明るく言った。

陽一は、もう完全にアリを信頼していた。

素晴らしい人だ。彼が誰かを不当に傷つけるなんてありえない。麻子については特にそうだろう。そう思えただけで、安心出来た。自分のことなんかどうでもいいや、とさえちらっと感じた。しかし、そう思った瞬間に、また嫉妬やら戸惑いやら、黒いものが湧き上がっても来る。でも、アリの手の温もりがそれを消し去ってくれるようだった。少しして、陽一の目をもう一度じっと見ると、アリは手を放して話を続けた。

(つづく)

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