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ペルシアンラヴ   作者: 藤原去鬼(ふじわらさき)
8/27

ペルシアンラヴ 8

 シルエットに見とれていると、自動車のドアが開けられ、荒木が抱きかかえた男を陽一の隣に丁寧に下した。ちょっと長めの黒髪の巻き毛で、グレイの瞳が愛嬌たっぷりにくるくると動く。しかし、腕は太く、陽一の倍はありそうだ。上半身はレスラーのようでさえある。   


 「こんばんは、私はアリです」

 「あ…、初めまして。池谷陽一です」

 「陽一さん、初めまして」

 は間違いなく「あの写真」の男だった。

 しかし、不思議なことに敵意をまったく持つことができなかった。それどころか、もう何十年来もの知己であるようにさえ感じた。

 アリがまじまじと陽一の顔を見ながら言った。

 「…不思議ですねえ、私、あなたと初めて会った気がしない」

 僕も同じです、と口には出せなかったが陽一もそう思っていた。なんだか、自分が自分に見られているような奇妙な感覚だった。

「麻子さんからは、あなたのこと少ししか聞いていないのに」

「…彼女、あなたのことを話すと、苦しそうでかわいそう」

 いきなりそう言われて、麻子の苦しみが迫ってきて叫びたくなった。それが陽一への愛だと思えた。懐かしい、安心した、甘い気持ちも感じられた。しかし、その底にはアリの痛みも含まれているのが分かった。なんだか、ふたりとも甘さと痛みを同時に抱えているようだった。

 「アリは子どもの頃から、マリヤムに日本語を教わってペラペラだから、日本語で話せるぞ」


 車は発進した。

 再び、家の二階を見たが、灯りは消えていた。


 「陽一さん、ごめんなさい。すべて私が悪いのです。私が日本行かなければよかった。そうしたら、あなたたち二人ともそのままだった」

 いきなりアリがそう言った。

なぜか、深い悔いの思いに陽一もすっかり包まれた。取り返しのつかないことをしてしまったような焦りにも襲われた。

 荒木との関係で、荒木の感情の動きをすぐに共有できるのが、初めから不思議だったが、アリとはもっと共感の度合いが強いようだ。アリの心のウチさえ、完全に見透かせているように思える。アリの言葉の後背には、深い謝罪の意と僅かに麻子への思いが感じられた。 

 「もう、ホセインの家に着くから、話はそれからにしよう」

 荒木が言った。

 

 暗い市街地を走りぬけると、車は急カーブを描き、こぢんまりとした家の前で止まった。

 荒木がテキパキと車イスをトランクから出すと、陽一も手伝って、アリを運ぼうとした。しかし、荒木に制された。荒木は再び、ひとりでアリを抱きかかえ、車イスに上手に下した。

 「ワシはいろいろ資格を持っていてな、障碍者介護の資格も日本ほか、何か国で取ってあるから心配するな」

 「じゃ、車イスを押させてください」

 どうしてもアリの手助けがしたかった。車イスの背後に回ると、アリが笑顔で「ありがとう」と言ってくれた。

 ホセインの先導で、家のなかに入って行くと、派手な花柄のソファのある部屋に入った。ここまでアリは車イスのままで入ってこられた。それも荒木が最初から考えていたのだろう。

 ほどなくホセインの奥さんらしい女性が部屋に入ってきて、熱いチャイを出してくれた。大きなガラスのサーバーには、二杯目以降のチャイがたっぷりと入って、湯気を上げていた。奥さんとホセインは、笑顔で何か言った。

 「『ごゆっくり』と言ったんだ」

 「ありがとう…いや、メルシー」

 少しぎこちなく陽一が言った。荒木とアリも異口同音に謝意を伝えた。

 

 「さあ、それでは話しましょう」

 アリが真向かいから、じっと陽一の目を見ながら話しだした。

「…始まりは六年前の夏でした。私は日本での和平の集いに招待されて、一週間の予定で日本に行きました。高校生のときに、母のすすめで一年半ほど留学して、母から習ったよりさらに日本語は覚えましたが、それから日本へ行く機会はなかなかなかった。母と平和ではない国、貧困な国ばかりへ行っていたからです。そして、たくさんのあまりに悲惨なことに出会ったけれど、それでも明るく生きる人たちとも会った」

 そういうと、アリの顔の陰影がずしりと増したようだった。自分と違って、早くからいろいろな経験をしたのだなと、アリの過ごした濃い歳月が感じられた。

 「大学を出てから平和な国を訪れたのは、初めてと言ってよいほどでした。それまでは貧困の酷い匂い、あるいは硝煙の匂いがする国ばかりでした。日本に来たら、すべてが瑞々しく明るかった。高校生のときに留学したころは、清潔で冷礼儀正しく、いい人たちばかりの国と思っていました。でも、再び訪れて都会の人の多いところでは、戦争中の国、貧しい国よりも人々の笑顔が少なかった。無表情の人が多くて、不思議に思いました。貧困や戦争の中で生きている人たちのほうが、笑顔が多かった」

 「ああ、そういう話はまた今度にしましょう…さて、日本へはひとりで行きなさいと言われて、母の紹介で、私はある日本人の家に泊めてもらっていました。高田さんという当時五〇歳くらいの人で、奥さんと二人暮らしでした。こざっぱりとした部屋を貸してくれました。畳の感触がとても不思議でした。

高田さんのご夫婦は、母をとても尊敬している人たちでした。アフガニスタンにボランティアで行って、そこで母に会ってから、ずっと手紙でやりとりしていました」


 「だからとても気分よく過ごせていたのですが、酷かったのは日本の夏です。

イランも夏は暑い、でも湿度が少なくて夜は快適に過ごせます。ほかの夏暑くて湿気の多い国にも行ったことがありましたが、東京の夏はいちばん酷かった。どこの南の国の、どんなに昼間が暑い夏でも、夜はまず過ごし易かった。でも、東京は夜でも暑い。緑が少ないので、余計に暑く感じる。私は冷房が好きではないので、ずっとつけていることができない。

寝付けないと高田さんに言ったら、近くに公園があるから散歩して、帰ってきたらシャワーを浴びて寝てはどうかと言われました。そこで公園にいってみると、あまり大きい公園ではなかったけれど、緑はいっぱいありました。私はしばらく歩いて、それからシャワーを浴びました。それでよく眠れました。それからは、昼間は平和の集いの手伝いをしたり、自分の経験を話したりして、高田さんの家へ帰ってからは、寝る前に長い散歩をしました。…そうしてから三日目でした」

 「その日も公園へ行くと、何人かが暗がりの中を走っているのが聞き取れました。様子を探ってみると、女性が短い悲鳴を上げながら走って行くのを、何人かの男が追っていました。私は様子をうかがいながら、後をつけました。すると、若い女性が悪い若い男たちに囲まれてしまっていました」

 「おねえちゃん、もう観念しなって」

 「痛くはしないからさ」

 「大人しくしていりゃ気持ちよくなるって」

 「あーオレ、もう我慢できねえよ」

 「女性は何度か転んだらしく、服が一部破れていました」

 「男たちは全部で四人いました。でも、私は自分に自信あった。ずっと学生時代はレスリングをしていたし、ズールハネもずっとやっていました」

 「アリは、ワシより本来少し背が高いし、世界でイランはレスリングの強豪国なのだが、アリはオリンピック代表に選ばれたこともあるんだ。ズールハネは一種のウェイトトレーニングみたいなものだが、アリは人に教えるレベルだった。今でも腕相撲をやると、私はよく負ける」

 荒木が補足すると、アリはにっこりした。

 「荒木さん弱いからね」

 「何をコイツ」

アリの、本来はそうなのだろう、陽気な表情が見られた。

 「ああ、ごめんなさい。漫才やってる場合じゃないですね」

 でも、深刻な雰囲気にからだが固くなっていたから、陽一も実は少しほっとした。アリとジョークを言いあったら楽しそうだ、なんて呑気なことまで考えた。


 「やめなさい」

「…そう言ってワタシは、前に出ました。男たちが全員振り向きました。少しひるんだように見えたけれど、すぐに殴りかかってきました。私は簡単によけました」

「なんだこのケトーは」

「邪魔すんじゃねーよ」

 「口ではいろいろ言っても、もう彼らの腰が引けているのが分かったから、後少しで逃げ出すだろうと思っていました。しかし、それが油断だった。私は女性のほうに『大丈夫ですか? 』と声をかけました。そして彼女の顔を見た瞬間、なんとも言えない不思議な愛おしさを感じてしまった。どこか母と似ているんです。なぜかふたりとも見つめあってしまった」

「そのとき、男のひとりが躍り上がって来たので、私は振り払った。すると、まともに腕が当たってしまって、男は後ろに飛ばされて、頭を打ちました」

 「いけない、と思ってワタシは男のほうにかがんだ、その時です」

 「私の腰に細い鉄の棒が打ち込まれました。建築資材の残りか、その辺りにあったのを男たちのひとりが見つけたようです。腰のいちばん下の背骨を激しく打たれて、私は下半身が痺れて動けなくなった。そこへ狂ったように何度も何度も鉄の棒が打ち込まれました。そのままだと、私は殺されていたかもしれない」

 「ところが神の助けでした。自転車に乗った警官がやって来たのです」

 警官はふたりで、大きな声を出しました。

 「こらー、そこで何をやっている! 」

 男たちは「やべえ」と言って、ちりぢりに逃げ始めました。ひとりの警官が追い始めると、もうひとりの警官は私を気遣ってくれました。

 「大丈夫ですか? 」

 「ワタシは大丈夫です、悪いヤツを捕まえてください」


 「実際には、ちっとも大丈夫ではなかった。腰には激痛が走り回り、下半身の感覚はまったくなかった。でも、無理してそう言いました」

 「では…さし当たり、お大事に。また戻ります」

 「そう言って、二人目の警官も自転車で走り去りました。

 私は声を振り絞って、女性…つまり麻子さんに、かすれかすれになった声で頼みました」

「救急車、呼んでください」

 「…そのまま私は意識を失いました。」


 気がついたときは病院の手術室でした。私が目を開けると、医師が話し始めました。

 「日本語で大丈夫ですか? 」

 「はい」

 「かなり難しい手術です。命は助かりますが、下半身は麻痺したままになります。分かりますか」

 「はい。お願いします」(つづく)

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