ペルシアンラヴ 18
「大丈夫? 」
少し頷いた。
「自分が本当はどうしたいか、それだけを考えるのよ」
まさにその通りだ。
航空機が飛び立って、眼下ではシラーズの街がみるみる遠ざかっていった。麻子ともどんどん遠ざかってしまうのか。
「自分が本当はどうしたいのか」
答えは出なかった。ただ「なにかを決断しなければいけない」のだと思った。
快適なフライトで、あっと言う間に着いてしまった、と陽一は感じた。また、エルボルズ山脈が見えた。山々は、最初に眺めたときよりも、大きく、力強く感じられた。
国内線の空港ロビーも近代的で快適だった。これからイランが国際社会に復帰すると、もっとよくなるのだろう、とうっすらと考えた。
「これから、ちょっと遅くなりますが、まずご昼食です。それから宝石博物館と絨毯博物館にまいります」
「宝石博物館は必見です。女性は目が眩むでしょう」
荒木が自信満々の表情で言い添えた。
…昼食は、ピラウ(ピラフ)とサラダだった。もう二時過ぎだから、夕飯のこともあって軽くしてくれたのだろう。大きなテーブルで、みんな一緒だった。田中夫妻がいないせいもあって、どこか大きな家族のようにも感じた。それは夫妻の図らずも贈り物なのかもしれない。
他愛のない会話の花があちこちで咲いていた。村中の明るい笑顔が何より目立った。優も加奈子のほうを時折見ながら、はつらつと話していた。陽一も笑顔で相槌を打ち、会話に参加していたが、どこか虚ろだった。
バスに乗り、宝石博物館へ向かった。博物館は国立銀行の地下にあると言う。前に着いてみると、確かに博物館という雰囲気はどこにもなく、ビジネス街のビルとしか見えない。建物のなかに入ると、厳重なセキュリティチェックがあった。まるで航空機に乗る時のようなセキュリティゲートも通らされた。いくらなんでも…と思ったが、博物館内部に入るや否や、納得した。一八世紀頃からの、イラン歴代王朝のお宝だそうだ。
ある意味「光の洪水」だ。エメラルドの緑、サファイアの青、ルビーの赤、真珠と黒真珠の鈍いが美しい光沢…そして、ダイヤの七色の光。金銀は当たり前。
置物から王冠、玉座まで、すべてに値のつけようがない。女性はみゆから高齢のご婦人まで、目の輝きが違っていた。
白眉のひとつは「ダリヤー・イェ・ヌール」。世界最大のピンクダイヤだそうだ。一七三九年、ムガールの皇帝から降伏のしるしに受け取ったものだそうだ。一八二カラットだそうだが、あまりに大きいのでガラス細工にしか見えない。しかし、角度を変えて見ると、輝くピンクが光彩を大きく見せた。
「いかがですか。あまり説明もいらないと思います。見てください、感じてください」
荒木が言った。
「パフレヴィ―王朝のレザー・シャーの奥様、ファラ王妃は年配の方はご存じでしょう。ファラのための冠がこれです。プラチナの台に約千五百個のダイヤが散りばめられています。」
「…ここにある財宝だけでも、スゴイですが、レザーはアメリカに亡命した時、ほかにさまざまな財宝、巨額の金を持ち出しています。イラン政府が何度も返還要求をしていますが、アメリカ政府は返しません。そんなことがまかり通ってはいけない」
…最後の方になると、完全には細工されていないダイヤが、砂利のように盛られていた。ここにある以上にレザーは持っていたのか? 革命も起きるよな、と陽一は思った。なんで、そんな「欲の亡者」になれるのだろう。ダイヤのひと握りだけで、一生楽に暮らせるだろうに。
…なにが「幸せ」なのだろう。使いきれないほどの富を手にすること? 多くの人間の支配者になって、思う存分に権力を振るうこと? 多くの異性の愛を勝ち取ること? 身分に合った境遇で、精一杯にもがくこと?
つい、次の目的地へのバスの中で、陽一は思いつめた表情になっていた。誰も声をかけてこなかった。かけられなかったのだろう。
次の絨毯博物館でも、そんな気分が続いた。イランのイスラーム以前の古典『シャーナーメ(王の書)』をモチーフとした、素晴らしい絨毯も見た。限られた範囲の糸の折り込みの数で、絨毯の出来も価格も全然違う、というくらいは分かったけれど、うわの空で聞いていた。
もう、何も考えられなくなっていた。
ホテルはロビーもあまり広くはなかったが、掃除が行き届いていて、デスクの木の部分は磨かれて光っていた。
荒木が近づいて、
「夕食が終わったら、九時にロビーに来てくれ」と言った。
不得要領のまま、頷いた。
客室に入ってからも、届いたスーツケースを開けもせず、ぼんやりと窓から外の景色を眺めていた。
「…たくさんの人がいる。みんなが幸せになりたいと思っている。どうしたら、それぞれの人がすべて幸せになるために、互いの幸せを奪わなくとも済むのだろうか」
「麻子とアリと自分…どうしたらいいのか。男女の関係なんかなければいいのに…いや、でもそれでは自然じゃないし…神さま、アッラー…どうしたらいいんですか」
「神に祈る」なんて、物心ついてからはまったく未経験のことだった。しかし、もちろん答えはなにも帰って来なかった。
夕食は、またバイキングだった。でも、たくさん並べられた料理の中で、どれが自分の食べたいものなのかも決められなかった。皆と離れた席になんとはなしに座って、適当に食べものを皿に盛ると、いやいや食べていた。
最初に来たのは優だった。
「池谷さん、荒木さんに九時にロビーに来るように言われたんですが、なにか詳しいこと、聞いていますか? 」
「あー。僕も九時にロビーへ来るように、しか聞いていないよ」
「…そうですか。では、後ほど」
次に来たのは吉田さんだった。
「どうしましたか? 元気ないみたいなので」
「すいません、ちょっと体調が悪くて」
「風邪かな? ここは温度差が激しいからね」
そう言って去りかけた吉田さんは、さっと振り返って言った。
「…あなたはちゃんとした人です。悩んでも、いい答えを出せるはずです。自分に負けないように」
驚いたが、吉田さんは笑みだけ残して去って行った。
「おい、どうしたんだよ。元気ないじゃん」
村中が、まるで昨日までとは別人のような笑顔で来た。
「いろいろあるけどさー、お前みたいなヤツは幸せになれるって。オレが保証するよ」
冗談めかして言ってはいるが、村中の気持ちはよく分かった。
「ありがとう」
と素直に言ったら、ちょっとうろたえつつも、
「なんかあったら相談に来てくれ」
と握手を求められた。
…いい握手だったと陽一も思えた。
部屋に帰ってからロビーへ行くか、それともこのまま行くか。「運命の分かれ道」みたいなことが待っているような気がする。いったん部屋へ戻ると、余計に構えてしまいそうなので、そのままロビーに行った。
既に、ロビーには佐々木と荒木、そして加奈子と優がいた。
「あれ、佐々木さんも行くんですか? 」
「何を言っておる。私は君の保護者代わりだぞ。ラッキーのアヤシイ世界に感化されないように監視するのだ」
荒木がちょっと苦笑いした。
「これから行くのはファーテメさんのところだ。彼女は占星術師だ。商売ではあまりやっていないが、見料は日本円で二千円以上心づけを払えばよい。森村さんたちと陽一君、それぞれ一件と考えてくれ」
「印鑑とかお守りとかは売りつけられないから大丈夫」
荒木がウィンクした。
「よし、それでは行こう。タクシーに乗ろう。二台に分乗だな。高子と陽一君、それからワシと森村さんたちだ」
「…私も、アリと、マリヤムにも会ったことがある」
タクシーに乗り込んでから、佐々木が言った。
「すっごい、パワーよね。彼らと一緒にいると、どんなにネガティブな気持ちでいても、いつの間にか『もうちょっとだけ、頑張ろうか』って気がしてくる」
夜のテヘランの街は賑やかだった。たくさんの人が街に出ていた。芝生のあるところでは、家族だろうか、ピクニックのように寛いでいる姿が見られた。
「うらやましいわね…」
佐々木が言った。
着いたのは大きなマンションの前だった。
…この時、小さな異変が起きた。突然、冷たい風がさーっと吹いた。夜の獣が目の前を横切って行ったようだった。
陽一は胸が騒ぐのを感じた。少しの間だが、不安に強く囚われた。荒木も一瞬、渋面となって「…イヤな風だ」と言ったが、それきりだった。(つづく)