ペルシアンラヴ 16
それから一週間経って、村中はまた店に来た。やがて、店の外でも会うようになった。そういう風になっても、村中は必ず別れ際に金を渡した。そして貝のように口を閉じてしまう。「お金いいのに」と思っても、みゆは村中のそんな態度にそうは言い出せなかった。
「ねー、あたしたちってなんなの?」
「援交だろ」
そう瞬時に答えられてしまう。
村中は「好き」とか「愛してる」なんて、ひと事も言わない。
でも、みゆはとってもとってもそんな言葉が聞きたかった。
あたしが風俗嬢なのがいけないのよね。でも、辞めたら食べていけないし、彼が同棲して食べさせてくれることはなさそうだし。中卒だし、アタマ悪いし。きっといつか、たっちゃん、別の人と結婚するんだわ。みゆはいつしかそう考えるようになった。それで割り切ったつもりでいた。でも、黙って一緒にいるとき、村中から伝わってくるあたたかさは、みゆに深いやすらぎを与えてくれた。ひとりぼっちのみゆにとって、かけがえのない存在になっていた。お互いの苛められっ子としての記憶もふたりを結びつけていた。
そんなみゆが、村中に突き放されて、向かった先は荒木の部屋だった。
荒木さんと仲良くするのが気に食わないらしく、昨日から文句だらけ。いい加減イヤになって離れていたら、また寄って来た。でも、バザールで「あたしはあなたのなんなの? 」と言ったら、また知らん顔して離れて行った。もーあんなヤツ、イヤだ。ただのおたくじゃん。
ホテルのカウンターで、「アラキ ルームナンバー トラブル」と繰り返した。なにか英語で聞かれたが、それにはかまわず、同じ言葉を繰り返した。相手はあきらめたように部屋番号を告げた。自分でも、いったい何がしたいのだか、分かっていなかった。でも、荒木の優しそうな眼の閃きだけが、今の自分に残されたものと思えた。
荒木の部屋の前に立つと、しばらく立ったままでいたが、仕方なくおずおずとノックした。「はい」と大きい声で返事が返った。すぐにドアが開けられた。
「おー君か。どうした」
すぐに涙がぽろぽろと出てきた。
荒木は黙って肩を支えてくれた。そして、そのまま部屋に誘ってくれた。
こんなシチュエーションだったら、必ず今までは警戒したろう。女の子だもの。でも、荒木には、自分の知らない、父親のようなあたたかさだけを感じた。
荒木はベッドに座らせてくれた。そして、顔を両手で支えてくれた。
…その後のことは覚えていない。気がついたら朝で、荒木のベッドで寝ていた。自分の部屋に帰らなくちゃ、と思った。着衣は乱れていなかったけれど、なにかとてもいい気持ちになったような気がした。荒木のほうを見ずに「ごめんなさい」と言った。椅子に座っていた荒木は、みゆのほうを見ずに「ごはんちゃんと食べなよ」と言った。
そのままドアをバタンと閉めて、閉まったドアの前で、またしばらく佇んでいた。「なにかがあった」感じはしないが、状況から考えると荒木に抱かれたのだろう。商売のときは何も感じないのに、村中にすごく悪いと思ってしまった。
とぼとぼとホテルの通路を辿る。
予感はあったが、村中が部屋の前にいた。
「お前、どこに行ってたんだよ」
みゆが黙って下を向いていると、村中は肩に両手をかけて揺さぶった。
そして、黙ったまま走り去った。
「いけない」と思ったけれど、なぜか、からだがすぐには動かなかった。
…目覚めた陽一は、今度は麻子が一緒にいる、と思った。だが、それはアリのようでもあった。ふたりがいる、という感じもあった。昨夜は麻子とふたりの世界が永遠に続けばいい、と思ったが、今朝はまだ頭がはっきりとしないまま、ふたりだと間が抜けているように思えた。三人で、どこかの雰囲気のいいところで、一緒に話したいなどとも思った。
そのほうが、なぜか自然に思える。三人で家族みたいに…
そう思うと安心感が底から広がって行くように感じたが、はっとして目が覚めた。
そんなことありうるわけもないだろ。
起きると、すぐにそう否定した。
…これからどうしたらいい。アリはパレスチナへ旅立った。麻子も明後日にはパレスチナへ立つ。自分も後を追うか…ダメだ。そんなことは全然、現実感がない。
いろいろ考え込みながら部屋は出たが、自分でもどこへ行くのか分からないまま、ふらふらと歩いていたら、誰かとぶつかった。
「…ソーリー」と言って、相手の顔を見たら優だった。
「おはよう」
「…おはようございます」
優の視線は下に落ち勝ちだった。
「…陽一さん、話を聞いてくれませんか? 」
どうした? と聞きたかったが、 いきなり「行方不明」のことについては話題にできない、と当然ながら思った。
「いいよ、朝食を一緒に食べようか? 」
「すいません、ちょっと食欲がないので…ロビーで話していいですか? 」
えーと、確か今日の出発は九時。一一時過ぎの航空機に乗って、テヘランへ行くんだったよな。この朝、初めて時計をちゃんと見ると、まだ七時ちょうどくらいだった。なんだか、時間への感覚が緩くなっている。
「オーケー」
黙ったままの優を先導して歩いた。途中、
「デッドマンウォーキング(死刑囚の死刑台への歩み)じゃないんだから、元気だしなよ」
と言ったが、反応はいまいち…いやそれ以下だった。
ようやくロビーに着くと、優は辺りをきょろきょろと見た。ツアーのメンバーがいたらイヤだったのだろう。
陽一がソファの角に座ると、隣のソファの角に優は座った。そして、促す必要もなく、優は話し出した。
「…こんなことを最初から言うと、驚くと思いますが…僕と『彼女』とは親子じゃありません」
「うん」
「驚かないんですか? 」
「…正直に言うと、ツアーの日数が立つ毎に、違和感をすごく感じていた。逆に本当に親子だったら…むしろ、そっちの方が怖かったよ」
「…ばれてたんですね」
「いやあ、本当のことを決定的に知ったわけではないから」
「…恥ずかしい」
優は耳まで真っ赤になった。
「そんな風に気にするなよ。みんな、いろいろ抱えているんだから…実は、オレだって、なぜイランに来たかと言えば…」
陽一は、かいつまんで自分のことを先に話した。
陽一の話を聞いているうちに、優の目に落ち着きが戻っていった。
優は真正面から陽一に向かって、自分と加奈子との出会いから話し始めた。
在学中に就活をしているうちに、あるイベントで加奈子と出会い、手伝いをしたのが出会い。
たまたまイランの物産展のディスプレイなどを、優が志望していた広告代理店が担当した。ほぼ内定となってから、手伝いに来るように呼ばれ、一方で商社関係の代表として来ていたのが加奈子だった。
そして、会話をするうちにイランの話になって、お互い、なぜかイランに強く惹かれるのが不思議だという話になった。そして、東京で催されたイラン美術の展覧会で、また、ばったりと会って、帰りに喫茶店に寄っていろいろ話し、携帯の電話番号を交換した。それからイラン関係の催しに一緒に行き、イラン料理の店へも行くようになり、本当に、気がついたら、といった風に、普通の仲ではなくなっていたこと。そして、優はつきあっていた大学の同窓の女性とは別れて…
よくある、年齢差の離れた男女の不倫にも思えるが…二五歳以上の歳の差というのは、まず聞いたことがない。一部芸能人とかでは、そういう話はあったような気がするけれど。でも仕方ないな、好きになってしまったら。
オレには言えないよ。「社会常識を守れ」なんて…
「問題は…これからどうするか、なんです」
オレに聞くなよ、そんなこと。
「いや、自分たちで結論を出さなければいけないのは分かっています。でも、現実的にどうするか、なんです…」
まるで、陽一の頭の中を見透かしたように優が言った。
「う~ん、みんなで話すしかないんじゃない? 森村さんの家族と、必要なら君の家族も」
「そうですよね…今、はっきりしているのは、もう加奈子さんと僕は離れられない、ということですが、ふたりだけでは解決しないでしょう」
「そんなことないとは思うけど、『心中』とかは止めなよ。当事者のふたりは、それでいいかも知れないけど、遺された人たちには最悪だと思う。勝手過ぎるよ。ふたりだけで生まれてから、ずっと生きてきたのなら、いいかも知れないけど、そんなことは絶対現実にはないし」
「ああ…それはないです。昨日の朝も、僕は生きることしか考えていませんでした」
根拠なく、偉そうなことを言ってしまった、と陽一は思ったが、優はちゃんと受け止めてくれた。
「ごめんなさい。池谷さんもたいへんなのに…。ぼくらも話し合いをしなきゃいけないけど、池谷さんも三人でこれからどうするか難しいでしょう…」
「まあ、いいさ。お互いたいへんだけど、自分にだけは負けないようにしようよ」
…またエラそうに言ってしまった。でも、優は陽一の手をとって、
「逃げたくないですよね」
とぽつりと言った。
その時、荒木がロビーの入り口まで来た、陽一と優の姿を認めると、笑顔を見せたが、すぐ後ろから、怒りで赤黒く見えるほどの顔色をして、村中が早足でやって来た。
いきなり無言で荒木の前に立つと、拳をふるった。荒木はなんなくよけた。続けて第二撃、第三撃…回し蹴りまで繰り出したが、すべて簡単によけられた。ふたりは為す術なく、茫然と、そんな様子を見ていた。
「…多少は格闘術の心得はあるようだが、今の君はワシには勝てんぞ。怪我させたくないから止めなさい」
むしろ微笑みながら荒木が言った。
しかし、村中は止めなかった。次々にパンチやキックを繰り返した。しかし、どれもかすりもしなかった。村中の表情には、驚愕と怖れがにじみ始めていたが、それでも遮二無二に前へ進んだ。
「…仕方ない。これでおとなしく眠りなさい」
荒木は今まで見たことのない敏捷さで村中の背後に回ると、右手を村中の首にかけ、左手を添えた。あ、これってスリーパーホールドじゃ…まだ、緊迫感が続く中、陽一はプロレスの決め技を思い出した。
村中は必死でもがいたが、一分も経たないうちに両手がだらりと下がった。すると荒木は優しく村中のからだを抱えながら、ソファに座らせた。
周囲はざわざわとしていたが、荒木は平気だった。
「しばらくは起きられないから、部屋に運んで寝かせなさい」
荒木は陽一と優のほうを向いた。荒木の声には、従わざるをえない力があった。村中のからだは重かったが、ポケットから鍵を探し出し、部屋番号を確認すると、ふたりはなんとか支えて部屋まで運んだ。そして、部屋のベッドへどうにか下した。
…それからすぐだった。みゆがいきなりドアを開けて入って来た。泣き顔だった。そして、
「バッカー! バカバカバカ、なんでそんなことをしたの?」
と泣きじゃくりながら、ベッドの上の村中の胸を何度も叩いた。そして、村中の胸に顔をつけてさらに泣き始めた。陽一と優は目でコンタクトすると、部屋を出ていこうとしたが、そのときに村中がうめき声を上げながら目を覚ました。
「あれ? オレなんでこんなところで寝てるの?」
先ほどの怒気に満ちた表情とはまるで違っていて、どこかのんきで朗らかだった。
「あ~、思い出した。あのクソジジイ、オレの、オレのみゆを…」
「アタシだったら、ここにいるわよ!」
「あれ? なんでお前がここにいるんだよ」
「もう、何も言わないで」
涙で化粧のラメや付けまつげがおかしくなったみゆの顔は滑稽だったが、陽一も優もちっとも笑う気にはなれなかった。
みゆは小さな手で、一生懸命に村中のからだを抱いていた。なぜか、陽一も優も涙がこみあげてきた。
「…オレに優しくするのはよせ!」
村中は大きな声を出したが、みゆの手を振り払おうとはしなかった、みゆはまだ泣き続けていた。
陽一はどうしても言わずにはいられなかった。
「村中さん…好きだと言えよ。愛してるって言えよ! あんたはオトコなんだろ!」
…村中は、しばらくは黙っていた。しかし、すすり泣く声が聞こえ出し、かすれた声を出した。だんだんとその声は大きくなった。
「みゆ…お前が好きだ。オレはお前が好きだ。大好きだ! 愛してる」
「…なんでもっと早く言ってくれなかったの? アタシもあなたが大好き…愛してる」
…ここまでだと思って、陽一と優は部屋を後にした。廊下を辿って行くと、荒木がいた。そのまなざしは親が子どもに見せるような温もりを感じさせた。
「どうだ? ヤツは彼女に思いを伝えたか?」
ふたりは無言で頷いた。
「やれやれ。手のかかるカップルばかりだな。昨日の夜、ワシは彼女に暗示をかけただけだ。からだには少し触ったが、なにもしていない。彼女が勝手に思い込んだだけだ。恋愛に出会いの種類も立場の違いもなにも関係ない。どんなところでどんな風に出会ったとしても、真っ直ぐにずっと相手を愛している同士は結ばれるべきなんだよ。
あのふたりは、ツインソウルではないとしても、ソウルメイトだと思う。趣味とか世界観が似ていて、無理なく一緒にいられるカップルだ。ふたりとも、お互いの気持ちが十分に分かっていながらも、出会いがよくなかったために、ヘンなことになってしまった。でも、離れることができない。どうしても惹かれあってしまう。
そのうちにこじれてしまって、ふたりとも内面はどろどろとしたストレスでいっぱいだったはずだ。女性のほうが、もう限界に来ていて、ワシのところへやって来た。無意識にだが、ワシに闘いを挑ませることで、彼を試したかったのだろう。だから、わざとワシを巻き込んだんだ」
「彼がワシを懲らしめに来るのも分かっていた。冷静だったら、ワシも簡単にああはいかなかったが、頭に血が上っているから御しやすかった。あれなら後遺症も出ないし、すぐに元気になるだろう」
「さあ、君たちも食事をとりなさい。九時の出発だぞ」
そう促されて、ふたりは朝食のレストランへ向かった。村中たちには、あえて声をかけずにほっておくことにした。加奈子は今朝の朝食をぬくと言っていると聞いたので、ふたりで食べたが、ソファで話していたときのように、時折下を向くことはなく、晴れ晴れとした表情で黙々と食べた。
…少しすると、村中の手を取って、べったりとくっついたみゆがやって来た。
「ひゅーひゅー」と優が明るく言った。
みゆが村中をからだでつついた。
「…あの、ありがとうな」
村中が顔を真っ赤にしていった。
「村中さん、朝から見せつけないでよ」
「へへっ…」
村中の顔が、初めて見たというほどに表情を出した。
「…実は、オレたち結婚することにした」
「おめでとう! 」
ふたりとも、心から祝福した。
「日本の、いいえ世界のオトコたちにはわるいけど、あたし、たっちゃんのお嫁になりまーす」
みゆが誇らしげに言った。
「なあ、後で住所教えてくれよ。オレからも教える。ふたりにも…いや、ふたりとも大事な人を連れてきて欲しい。オレたちの結婚式に招待するよ。…オレ、ともだち少ないからさあ」(つづく)