ペルシアンラヴ 14
「君も横になっていなさい」
佐々木は優をベッドへと導いた。
ベッドのあるほうへ行くと、母親が顔に濡れタオルをかけたまま横になっていた。
「失礼します」
佐々木が静かに声をかけた。
その声を聞くと、母親は顔に乗っていたタオルを手にとって、上半身を起こそうとした。
「…本当にご心配をおかけして申し訳ありません」
「いいえ。どうかそのまま横になっていてください」
「いえ、本当にお恥ずかしい。なんと申し上げたらよいか分かりません…」
体調のせいだけではなく、本当に消え入るような声だった。
「高子、夕食の後にまたお邪魔しよう。おふたりとも、なにか必要なものはありませんか」
ふたりはベッドの上から「ありがとうございます。何もいりません」と答えた。
ふたりには何かレストランで軽食をつくってもらおう。皆さんとの夕食が終わって、夜の観光が終わってから、それを届けに行こう、そう佐々木は思った。
夕食の時、陽一はいつになく多弁になった。なんだか、すべてが収まるべきところに収まるように思えた。そして、すべてが愛おしく思えた。なんだ、世界ってこんなにイージーなんだ、とも思った。自分次第で世界は変わる。
自分が笑顔だと、不思議に皆笑顔で応えてくれる。またバイキングの食事だったが、どれもが美味しく感じられた。
麻子が、夜の観光に来てくれるとも、なぜか確信していた。
夕食が終わって、時間になってからロビーへ行くと、麻子が当然のように待っていた。
ちょっと恥ずかしそうに、陽一の姿を認めると彼女は笑った。
「皆さん、すいません。彼女も観光に同行します。友人の浅田さんです」
陽一は麻子の傍へ行ってメンバーに話した。
吉田さんが、すぐ笑みで迎えてくれた。
荒木と佐々木は、少し驚いていた。でも、祝福の笑みが見られた。
ちょっと得意だったけれど、「友人」と紹介した時に、麻子がなんの反応も見せなかったのには、少しだけれどがっかりした。
村中が目を丸くしているのが、視界の隅で見えた。
バスに乗って、麻子と二人掛けの席に座った。
昔のままだった。特別なことは何もなかった。
「寒くない? 」
「ううん」
「行ったことある? 」
「うん。とってもいいところ」
…そんな会話をしているうちにも、目的地に着いた。
ライトアップされた、ふたつの塔とひとつのドームを持つ建物の前だった。
「中に入ると、びっくりするわよ」
懐かしい、いたずらっぽい笑顔を麻子が見せた。
それは本当だった。
内部に入るや否や、光の饗宴が始まった。
「ここは一四世紀に築かれました。『シャー・チェラッグ』とは、灯りの王といった意味です。内部の壁すべてが鏡のモザイクです」
そんな荒木の説明も、遠く聞こえた。
なんて眺めだ。
光があらゆる方向で輝き、反射する。光のモザイクがあちこちで終わりのない煌めきを見せている。緑の色合いが一部で見られ、それが乱反射し、陰影を与えている。オーロラは緑で見えることが多いようだが、あちこちで広がり歩むごとに変化を続ける緑を見ると、オーロラもこんな風なのかと思ってしまう。
「…オーロラ、見たことある? 」麻子が言った。同じことを考えていたらしい。
「いや」
「いつか、一緒に見にいこうか? 」陽一が言った。
そっと麻子の手を握ろうとした、麻子は拒まなかった。細くて、ちょっとひんやりとした感触が、はるかな昔から知っているもののようにも、また、まったく新しいもののようにも思えた。
生まれて初めて…本当に幸せだ、と思えた。
「思い出した! 」
「え? なに?」
「ほら、ルーミーのあの詩! 」
「ルーミーのこと、覚えたの? 」
「うん、彼に聞いたんだ」
そう言って、ほかのメンバーに説明している荒木の方を向いた。
「荒木さんね。アリからいろいろ聞いているわ。素晴らしい人だって」
「うん。彼からは、まだ短い間だけれど、たくさんのことを教えてもらった」
「あれは…受験勉強を、根をつめてやり過ぎて、おかしくなりそうになっていた時だった。もう、すべてがイヤになって、深夜放送のラジオを聞き始めた。ダイヤルを適当に回していたら、教育関係の番組だったかな、あの詩の朗読が流れてきたんだ。そして、聞いている内にとても楽な気分になって、そのまま寝てしまった。そして朝起きた時に、なんだか甘いお菓子を食べたような気分になっていた。…それっきりだったけど」
「きっと…呼ばれたのよ。でも、そのときのあなたは、まだ目覚めていなかった」
「うん…いっぱい無駄なことをしてきたような気がする。いや違うな、いっぱい大事なことを見逃していたんだ」
「そう…それで、これからどうするの? 」
「なんだか、子どもの頃に読んだ『クリスマスキャロル』で、クリスマスの当日を迎えたスクルージみたいな気分さ。やらなければいけないことが山ほどある」
「あのお話は、私も大好き。子どもの頃はクリスマスになると必ず読んでいた。そうか、あなたは守銭奴で冷酷無比だったんだ、今まで」
違うだろ、と麻子の手を少し強く握った。麻子が笑った。なんの衒いもない麻子の笑顔。陽一が世界中でいちばん見たかったものだ。
ふたりだけで光輝く世界にいるようだった。これが永遠に続けばいいと強く願っていたが、あいにく現実世界に「永遠」はない。
時間が来て、メンバーが帰り始め、廟を出なければならなくなった。
麻子がゆっくりと手をほどいた。
「ごめんね。私はこれで帰ります」
麻子のほっそりとしたからだを抱きしめたかったが、陽一は自制した。
「うん。また、会えるよね」
「…うん、いつか…」
麻子がまた目にいっぱい涙を溜めているのが分かった。
後退りしながら、笑顔と泣きそうな顔を交互に見せながら、麻子は夜の闇へと消えて行った…
これでよかったんだろうか。何か間違えたのではないだろうか。昼にチャイハネで麻子と別れた時よりも、ずっと深く問いが発せられた。しかし答えは来なかった。
不安と愛おしさと、寒さと甘さと、陽一の中ではさまざまな気分が閃いては消えた。
もう、今日は誰とも会いたくなかった。部屋へ戻ると、いっきにウイスキーを呑んでベッドに入った。これですべてが終了…だったらいいのにと思った。朝子の笑顔だけを抱きしめて眠りに入った。
…夜の観光から帰ると、佐々木と荒木は連れ立って森村親子の部屋へと向かった。
ドアをノックすると、今度は優がしっかりとした声で返事をし、ドアを自ら開けた。
まだ、目の光は完全に戻っていなかったが、ちゃんと佐々木たちのほうを見据えていた。
「…どうぞお入りください」
母親も椅子から立ち上がってふたりを促した。
「今、お茶を淹れますから…」
まだ少し安定を欠いた母親の動きに、荒木は制して「お茶は私が淹れます」と言った。
「…申し訳ありません」
「いや、もう本当にお気になさらずに…それより、どうしたのか説明していただけますか?」
しばらくの間、母親も優も何も話さないで黙っていた。佐々木と荒木は沈黙に耐えたが、「母親」が我慢できずに話し始めた。
「…実は私たちは親子ではありません」
会社の重役会議で重大な失態を詫びるような沈痛な面持ちで、かしこまった低い声だった。始まりと終わりとがかすれて搾り出すような声だった。
「恋人同士なんです…」
佐々木はうすうす感じていたことが事実だったと思った。ふたりはパスポート上でも姓が違っていて、優の姓は「法木」。添乗員という職業では、カップルで名前が違うお客を案内することもある。一応、夫婦となってはいても、パスポートでは名前が違うというのも、そんなに珍しいことではない。事前の電話の挨拶で、またツアーが始まってから、口止めをお願いされたことも何度もある。ただ、これだけ年齢差があって…というのは珍しい。森村加奈子は四八歳。それに対して、優は今年大学卒業だから、まだ二二歳。二六歳の年齢差がある。だから、本当に親子なのだが、なんらかの事情で別姓なのかとも思っていた。親子としては親密過ぎる様子を何度か見て、まさか近親…と思ったことも正直あったけれど。
「彼女に悪いところは何もありません。…すべて僕が悪いんです。僕が…」
優が床にひれ伏して言った。
「待ちなさい。まるで重罪人がお白州に引き出されたみたいだ…森村さんの罪の意識はご家族のことからか?」
ふたりが醸し出す重い空気を受け止めながらも、荒木が明るい声で尋ねた。
「はい…夫がいます。子どももふたりいて、ひとりは今年に大学を卒業する息子、ひとりは今年大学受験の娘です」
「そうか…それで、旦那さんはどんな人かね」
「正直申し上げて、結婚して二年くらいで愛はなくなりました。しかし、悪い人ではありません。いつも、私や子どもたちのことを気にかけてくれます」
「そのことと、子どもたちのことを考えると…息子と同じ年ですし…」
森村は座り込んで泣き始めた。すぐに優が傍に行って支えた。
「加奈子さんは悪くありません。悪いのは僕です。もしも、罪に落とされるのであれば、僕がすべて背負います」
台詞だけから言ったら三文芝居のようだが、優の真っ直ぐで必死な目は、とても笑えるものではなかった。
「ふたりとも落ち着け!」
荒木が腹に堪えるような声を出した。
「それにしても何が起きたんですか?」佐々木が聞いた。
「…実は私、今回の旅行があまりに楽しくて…でも、楽しいと思うほど、その後にすごく悪いことしているって思ってしまうのです」
「夕べ寝入ってから、夜中に目が覚めてしまい、もう耐えられなくなってしまいました。家族の責める顔が浮かんで…それに優ちゃんは将来もあるし、私みたいなおばさんが彼の邪魔になってはいけないと思って…それで、外に出てふらふらと歩きだしました。ここに移動するときのドライブで、荒れ地みたいなところを多く見たので、そんなところへ行って、歩き続けていれば、やがて倒れて死ねるかと思って…」
「いったい、どうして助かったのかね?」
「…僕が加奈子さんの後を追うと、なぜかどっちへ行ったか分かりました。街角を走っていても、次にどこへ進めばいいか分かってしまうんです。それでとにかくひたすら進んで行くと荒れ地に出ました。それからも何かに引っ張られるかのように進むことが出来て、荒地であおむけになって、お腹を抑えて倒れている加奈子さんを見つけたんです。ウソみたいな話ですが本当です。『奇跡』なのかも知れませんが、なぜか僕にはそうは思えません。『なるべくしてそうなった』という感じしかありません」
「荒れ地を、加奈子さんを背負って歩いて行くと土のレンガの民家がありました。そこの人たちはとても親切で水をくれて、警察に連絡してくれました。それで戻れたのです」(つづく)