ペルシアンラヴ 13
「…でも、そんなときにアリに再び出会ってしまった。アリと再会できただけではなく、本当の自分が還って来たとも思ったの。それからは…ごめんなさい、ただ、アリと一緒に生きていきたいと思ったのだけれど、そう思うほどに、なぜかあなたのことも思い出すの。アリには正直に少し話したけれど、彼は黙って微笑むだけだった」
「でも、分かってくれると思うけれど、私はふたりの男の人を同時に愛することは出来ない」
氷の刃が心臓に刺さったかのように思ったが、陽一は勇気を振り絞った。
「うん…そうだろうね。分かるよ、麻子の気持ち」
そう優しく言っているのが、まるで自分じゃないとも思ったが…
「そんなに優しい目をしないで…」
麻子はうつ伏して泣き始めた。
容子が来た。
「麻子さん、大丈夫?
「女性を泣かしちゃダメでしょ」
「容子さん、ありがとう。でも、あたしが勝手に泣いているだけです」
「でも、まだ話せる? もう。限界じゃない? 」
この旅に来る前の自分だったら、多分、容子に「余計なお世話です、あっちへ行っていてください」と怒鳴っただろう。でも、今はまったくそんな気にならなかった。むしろ、麻子のために、よかったとさえ思った。
「麻子。君が疲れているなら、もうここで止めよう。でも…また話せるね」
「うん」かぼそい声だったが、そう答えてくれた。
「ええと今晩、シャチラじゃない、えーと…聖人の廟で…」
「…シャー・チェラッグ廟でしょ」
「そう、それ。グループで八時に行くことになってる。よかったらおいで」
「…うん」
麻子が下を向きながら答えた。
「じゃ、またね」
そう言って、麻子のほうを振り返り、振り返りつつ、チャイハネを出た。
あまり聴かないアーティストだけど、デヴィッド・ボウイの歌が頭の中で鳴っていた。英語のシンプルな歌詞と明るい雰囲気が気に入っていた。
「アイ アイウィルビーキング アンドユー ユーウィルビーマイクイーン…ウィ キャンビー ヒーローズ ジャストワンデイ…」
自分が、ずっとずっと心待ちに待っていた麻子との再会。それが、こういう形で終わって、正しいのか、そうではなかったか、それも、もう関係ない。
周囲では、イランの人たちが笑い、さざめきあっていた。
ホテルまで、ふらふらと歩きながらようやく帰って来ると、時計を見た。もう三時過ぎだった。みんなも帰っているかな…
ちょうど、エラム庭園の観光が終わった午後二時半頃のことだった。バスに乗り込むと、荒木の携帯に着信があった。荒木はペルシャ語で話していたが、みるみる表情が明るくなった。真剣な眼差しで荒木の表情を追っていた佐々木は頬がゆるんだ。「ふたりが見つかったか、戻ったに違いない」
大声では話せないので、佐々木は荒木の隣に腰掛けてひっそりと聞いた。
「森村さんたち、見つかったの?」
荒木は何も言わずにウィンクした。
「よかった~!」
佐々木は精一杯に声を抑えながら言った。
…重しがとれた心に、晴れ間が出た気分で佐々木がホテルに戻って、バスから降りると、田中夫妻が前庭にいた。イヤだなあと思って足が止まったが、努めて笑顔で歩き出した。
田中の周りには、イラン人の子どもたちがいた。物珍しいのか、イランの子どもたちは外人と見ると寄って行く。
その時、田中が後ろを見ないで、いきなり腕を振り上げた。子どものひとりの顔と拳が衝突した。小さな女の子だった。後ろに倒れて、口の中を切ったらしく、血をぽたぽた垂らしながら、わんわん泣き出した。
「痛い! ああ汚い…手に血がついてしまった」
子どものことは一切お構いなく、田中は手を支えながらしかめっ面をした。
子どもはまだ泣き叫んでいる。
ちょうど同じ頃、ホテルの前に着いていた陽一は走って行って、かがんで女の子の様子を見たが、本当に痛そうだ。
「田中さん、この子にあやまってください」
思わず駆けつけた陽一は言ってしまった。
「なにかね?」
「私の後ろにくっついていたこのガキが悪いんだろう。財布でも狙っていたんじゃないか? そもそも君は関係ないだろう。それとも君はこのガキの親類縁者か? だいたいイスラームの国の人間なんか下等なんだよ。だから、世界から疎んじられているし、文明・文化も遅れているんだ。そんなヤツらに気を遣う必要はあるまい」
田中は逆に大声でまくし立てた。
「おっさん。あやまれよ」
村中がいつの間にか前に出ていた。小さな目を赤くしていた。
「? なんだ君は」
「そーよ! あやまんなさいよ」
みゆも出てきた。顔を真っ赤にしている。
ほかの高齢者の夫婦もやって来て口々に「あやまるべきだ」と言い出した。
ここで佐々木が割り込んだ。
「まあまあ、みなさん。田中さんも良識ある方ですから、お分かりだと思いますので…」
田中は、ほぼ全員が自分に対峙しているので、目を少しだけ伏せた。そして、
「あー分かった、分かった。ほら、これをやるからいいだろう」
百ドル札をちらつかせた。
しかし、子どもはいっこうに泣き止まなかった。
「おっさん、金出せばいいってもんじゃねえよ。あやまれって言ってんだよ」
村中が再度すごんだ。溜まったすごいストレスが爆発しそうだ。
またツアーの一行も口々にそうだと言い出した。
「ちっ。みっともないがしょうがない」
「ごめんな」
ちっとも悪そうな顔をせずに田中が子どもに言った。子どもはいったん泣き止んだが、前よりも激しく泣き出した。
ついに田中は癇癪を起こした。
「ほら見ろ、謝ってもこうだろうが! いい加減にしろ。いったいオレを誰だと思っているんだ。こんな失礼なヤツらと旅行なんかしてられるか。
汚い国の汚い連中と関わるのも、もうごめんだ! もういい! オレはもう日本に帰る。添乗員! これからいちばん早く日本へ帰れる航空機の手配をしろ。ビジネスクラスだぞ。別料金でかまわない。それから空港までのタクシーも頼め」
「承知いたしました」
佐々木が慇懃無礼な笑顔を見せた。
「ほら、部屋に帰るぞ」
田中は抗う妻の腕をつかむとホテルの建物へと強引に引いて歩き出した。
「あ~すっきりした」
田中がホテルの玄関の中へ消えると、佐々木が晴れやかな声を出した。
「皆さま、今までご辛抱お疲れさまでした。添乗員の伝家の宝刀で、ツアー中にあまりに問題を起こす人は、強制的に帰国させることもできるんですが、ああいうタイプの人はすぐ訴訟とかおっしゃられることが多く、そうなると面倒なので…。ご自分でお帰りになるとおっしゃったのでよかったです」
「いや、後で訴訟にもしもなったら、私ら全員が証人になりますよ。悪いのはあの男だって」
穏やかそうな笑みをいつも湛えていた吉田が、はっきりと口に出した。異口同音にほかのメンバーも「そうだ」と繰り返した。
女の子は、女性何人かに囲まれて介抱されていたが、幸い出血も止まり、歯も折れていなかったようだ。ミネラルウォーターを口に含ませては血を吐かせ、ハンカチで、血で汚れた顔や手を一生懸命拭いてやっていたのはみゆだった。
「ほーら、君にはこれを上げるね」
みゆはジーンズの腰につけていた猫のアクセサリーを渡した、女の子はにっこりと微笑んだ。
「グミもあげるね。後で食べるんだよ」
村中が満面の笑顔になった。
…でも、みゆは村中の方を見ないで、すたすたとホテルへと歩いて行った。
少し心配そうな顔で、荒木と佐々木が陽一に近づいてきた。
陽一は、自分のどこにそんな余裕があったかとも思ったが、ふたりに微笑んでみせた。
荒木は親指を立てて笑った、それで森村親子も見つかったのだと思えた。佐々木も軽くウィンクし返した。そしてすぐに、ホテルの中へと入って行った。
佐々木がホテルのカウンターへ行くと、ふたりは客室で休んでいると言う。すぐにも行きたかったが、ほかのお客への案内もきちんとしないといけない。笑顔で案内を終え、グループの全員が客室へ向かったのを見届けてから、佐々木は森村親子の客室へと急いだ。
ドアの前に立って、軽くノックしたが返事はなかった。仕方なく、もう少し強くノックする。弱々しい声で「はい」と返事があった。優のようだ。
しばらくすると、ドアがゆっくりと開いて優が顔を出した。快活で陽気ないつもの優ではなく、髪の毛はばさばさで、顔にはうっすらと白い土がついている部分があった。
「…ご迷惑をおかけしました。でも、もう大丈夫ですから…」
そのままよろけそうになった優を佐々木は思わず支えた。
「いや、大事なければいいんだけど、お母様は?」
「はい…母も大丈夫です」
そこへ荒木がぬっと顔を出した。
「入ってもよろしいかな?」
「はい…」(つづく)