ペルシアンラヴ 12
「皆さま、ご覧になったら、こちらへどうぞ」
佐々木が手招きするので、建物の地下に降りていった。すると、中央に囲い付きの池があって、覗き込むと金魚が泳いでいた。隣接してチャイハネもある。
「ここで少し休憩しましょう。皆さま、チャイをどうぞ」
グラスに入ったチャイを、佐々木がメンバーに次々と渡した。
荒木はみゆと一緒に座って、なにやら談笑していた。ときたま、荒木がみゆの肩を軽く叩いている様子も見えた。
村中は……いた。暗がりにひとりで座っていて、表情はよく見えなかったけれど、顔の後ろから、めらめらと炎が沸き起こっているように思えた。
しばらくして、佐々木が皆に声をかけた。
「それでは皆さま、バスに戻りましょう。これからバザールへ行って、それからご昼食となります」
村中のことは気になったが、とてもじゃないけれど近寄れない雰囲気だった。
バザールに着くと、佐々木がひと通りの案内をして、それから四十分ほど自由行動。再集合して近くのレストランへ行く、ということになった。
佐々木と荒木は、ふたりでそそくさと立ち去った。森村親子のことで、話や連絡をするのだろう。みゆはひとりで、バザールの奥へと入って行った。大丈夫かな、と思ったが、村中がすぐ後を追って行った。
陽一は雑踏に身を任せて、ゆっくりと歩き続けた。不思議なくらい、雑踏の雰囲気に元気づけられた。日本では、人ごみがイヤで、なるたけ避けていたけれど、なぜかこの国のバザールでは、雑踏が楽しく感じる。時には、おしあいへしあいし、何かの拍子に腕をつかまれることもあったが、不快には思わなかった。旅行者への土産物、高価そうな絨毯や金細工、日用品や食料品、スパイスの香りやチャイの香り…雑踏の喧騒を受けながら、それらを見て歩くのが、ただそれだけで楽しく感じられた。「パワーをもらえる」そんな気さえするのだ。
イスファハンでは、日本語で声をかけられたが、ここではどちらかというと無視された。でも、それがかえってよかった。気がつくと、もう集合の五分前で、少し急いで集合場所へ戻った。荒木と佐々木がいたので「どうですか? 」と声をかけたが、二人とも小さく首を振った。
「皆さまいらっしゃるようなので、では歩いてレストランまでまいります」
「バザールが待ち合わせ場所でしょ。よく道を覚えとくのよ」
ふと、佐々木が傍へ来て言った。気にかけてくれたのがうれしかった。森村親子のことでたいへんであろうに。
昼食は「お好みケバブ」。チキンや牛、羊のケバブのミックスだった。アラブ風サラダと同じだと、佐々木が紹介したトマト、キュウリ、セロリ、パプリカなどを細かく切って、フレンチドレッシングのような味で和えてあるのが、大きな器で来た。
今日は、今まで会話をしなかった、残りのひと組の夫婦のテーブルに座った。
「池谷です」
「河原です。家内です」
ふたりとも、ごく普通の高齢者夫婦に見えた。今まで、いつも控えめで目立たない感じだった。
会話は食事のことから始まり、いままで見たところについて、あるいは添乗員さんもガイドさんもよくてよかった、というような内容に終始した。
「なんでイランに来たんですか」と聞いてみたら「一枚の写真を見たから」だという。イスファハンのイマーム広場の写真だったそうだ。
「あんな美しい広場に、実際にこの身を置いてみたくなりましてね」
「どうでした」
「ええ、満足です」
幸い、退職して少しはお金も残ったので、年金を貯めては、年二回くらい海外に出ているのだそうだ。
「でもあなたね。もっと若いうちに来られなかったかと思いますよ。若いときに比べると、頭も足も鈍ってしまってね。昔はお金がもしもあっても、暇がなかったし、海外旅行は贅沢でしたからね。あなたなどは、まだお若いのだから、機会を作っては行かれるといいですよ」
「そうですね。僕もそう思います」
まったくだ。旅はしなくっちゃ。旅って、小説や映画、音楽にも似ている。いろいろなことを体験して、でも、いつかは終わる。旅は予定が決まっていても、筋書がないから、何が起きるかは分からないけれども。でも、それが楽しいんだ。ああ、でも生きていること自体が実は長い長い旅なのかも…
チャイを飲みながらそんなことを考えていると、佐々木が皆に声をかけた。
「さあ、それではバスにまいります。午後は軽い観光で、ホテルへ早めに戻ります」
「じゃ、グッドラック。ここでもう少しゆっくりしたら? 」
「しっかりしろ」
佐々木と荒木が、通りがかりに声をかけてくれた。
「池谷さんは、ここで午後は離団します。現地のお知りあいに会うそうです。では、お気をつけて」
佐々木がそう言ったので、余計なこと言わないでも…と思ったが、立ち上がって
「すいません、ちょっとの間お別れです」と軽く皆に頭を下げた。
村中が、冴えない顔色のみゆの後ろから、不思議そうに見つめていた。
「お前、こんなところに知りあいがいるのか? 」
と言いたそうだった。
みんながいなくなると、空いたスペースにいて、ちょっと寂しくなった。周りは皆イラン人か外国人。「異邦人」の気分になった。
「チャイ? 」
髭のない若いウェイターが聞いてきた。
「バレ」と言うと、
ヤカンからチャイを注いでくれた。
「メルシー」と言うと、
「ロットファン(どういたしまして)」
と答えた。
ペルシャ語も勉強してみようか、と思った。いろいろなことにポジティブになれている。この調子で、麻子に会えればいいな…
時間はすくに過ぎて行った。
バザールの入り口まで歩いて十分ほど。今は一時三五分。
「よし、行くか」
「メルシィ。ホダーハーフェズ(さよなら)」と、さっきのウェイターに言うと、「ホダー」と返してくれた。
…バザールの入り口まで来た。容子さんはどこにいるのだろう。まだかな…あ、黒いスカーフに花柄…
「初めまして」
「初めまして。陽一さんね。どう? 大丈夫? 」
「はい。大丈夫です。ありがとうございます」
少しキツイ感じの人かな、と思っていたが、容子はふっくらとした顔立ちの、目と口の大きな女性だった。しばらく、品定めするように陽一をじろじろと見ていたが、
「いろいろ想像していたけれど…オーケー、君なら大丈夫。麻子さんと会わせてあげよう」
「ありがとうございます」
ゆっくりと頭を下げた。
なにか、麻子と会うのが、ちょっとした儀式のようにも感じた。
容子は、陽一をバザールに入って、すぐ横道の奥まったところにあるチャイハネに招き入れた。あまり近代的な雰囲気ではなく、水パイプが奥の棚に並んでいた。絨毯の敷かれた長いソファとテーブルがいくつかあった。
「えーと。いきなり彼女を驚かせるのもなんだから、君は後ろの方にいなさい。注文はチャイでいいかな?」
はい、と答えた。
それからしばらく待った。今度は、時間の進むのがとても遅く感じた。
しかし…
「麻子…」
薄い茶色のスプリングコートを着て、深い青にピンクの花柄のスカーフ。でも、間違いなく麻子だった。店の入り口に立ったシルエットだけで分かった。麻子は容子を見つけると、手を振って笑顔になった。そして、容子と向い合せに座った。
少しの会話の後で陽一の方を見た。途端に立ち上がって、目を大きく見開いた。
陽一は駆け出したいのを抑えて、ゆっくりと麻子のほうへ歩んで行った。足が自分のものではないようだったが、確実に近づいていった。麻子は手で口を覆って、目を見開いたままだった。
「麻子」
穏やかに彼女の名前を呼び、精いっぱいに微笑んだつもりだった。
麻子の目から、涙が一筋、つーっと流れた。
「私、ちょっと席外すね」
容子が気を利かせたが、ふたりの耳にはその声が聞こえただろうか。
「…ごめんなさい」
涙声で麻子が言ったが。
「いいんだ」
と陽一が応えた。
本当にそれだけでいい、と思った。麻子が元気でいる姿が見られた。
「あなた…変わったね」
「前は頼りないところもあったけど、今はなんか少し堂々としている」
涙をぬぐいながら、少し麻子は微笑んだ。
「かけなよ」
そう言って、陽一は麻子を座らせ、自分も座った。
そして、麻子が話す前に、今まで自分がどうしていたかを話し始めた。アリとの出会いも含めて…
長い、長い時間が流れたが、ふたりは時間の外にいた。
麻子は、さまざまな表情をしながら、陽一の話に耳を傾けた。時に相槌を打ち、大きく頷いた。陽一は麻子への恨みつらみは一切話さなかった。そんなことを言ってどうなる? としか思えなかった。イランに着くまで、いや、つい何日か前までは、うらみつらみそねみ哀訴…そんなことしか考えていなかったのに。
アリに会った話には、麻子は驚いた。でも、陽一がアリのことを好きだと言った時には、ファンタジーの「望み無き戦い」が好きだと陽一が言った時と、同じような微笑みを見せた。
何か、いろいろな辛い、苦しいことがあったけれど、すべて報われたように感じた。今朝、行ったモスクのように、明るい色彩が目の前でぐるぐると回っていた・
「…ありがとう。すべて話してくれて。本当に、本当にとてもうれしい。私は、あなたに殺されても仕方がない、くらいに思っていた。許されるはずがない、と思っていました。でも…いずれ日本に帰ったら会うつもりでした」
「…アリを亡くしたと思ってからは、両親のためにも、前と同じように努めて明るく振る舞っていました。でも、心のなかはずっと暗闇だったの。仕方なく受験勉強に没頭して、志望大学に入れてからは、なるたけ周りの人たちと同じようにしていた。恋愛もしたけど、すべて本当は味気なかった。会社に入ってもちっともうれしくなかった。アリと出会ってから、本当の自分が目覚めたと感じていたのに、アリはいなくなってしまった」
「…あなたに会った時も『この人シゴト意外はなにもない人』と最初は正直思った。でも、あなたは私と会う毎に変わっていった。そして、不思議なことに気づいたの。あなたがうれしいと私もうれしい。あなたが悲しいと私も悲しかった。あなたも感じてくれていたと思うけれど、一緒にいると心から安心できたの。まるで自分の分身と一緒にいるみたいだった」
「…いろいろと聞いているうちに、過去もよく似ているなと思った。ずっと両親に守られて、いい子にしてきたんだね、って。もしかしたら、いつか私とまったく同じようにいろいろなことを考えてくれるなと期待していた。それにアリとの出会いと別れがあまりにも劇的だったので、そのことを考えるのにも疲れてきていた。あなたと結婚して、穏やかで安定した家庭を築くのもいいな、って思い始めていた。いつか、きっとあなたも本当の自分に気づいてくれる、とも思っていた」(つづく)