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ペルシアンラヴ   作者: 藤原去鬼(ふじわらさき)
11/27

ペルシアンラヴ 11

「おはようございます。それではお待たせしました。まいりましょう。」

佐々木が表情を取り繕って、いつものように明るく言った。

バスに乗り込むと、目的地はすぐだった。

「これからご案内するのは、『マスジェデ・ナスィーロル』です。別名『ピンクモスク』と呼ばれています。世界で最も美しいモスクのひとつと言われています。あえて、その理由は言いません。皆さまの目でお確かめください」

 佐々木が言った。

 すっかり空が明るくなって、バスから降りて、まず、モスクの中庭へ入って行くと、建物に細かい装飾が施されているのが分かったが、どことなく華やかさを感じた。近くへ寄ると、ピンクがモザイクのなかに散りばめられていて、そのためだと分かった。でも、それだけ?

 「このモスクは一八世紀の後半、イランで内戦状態が続いていた頃の、短命政権のひとつ、ザンド朝の時代に建てられたものです。ご覧のように、ピンクが加えられた装飾が美しい雰囲気を醸し出しています。イスファハンのモスクも素晴らしいですが、こちらのモスクは、言わば爛熟期の美を感じさせます。

…不思議ですねえ、世の中が安定していない時代に、時に素晴らしい芸術が開花します。世紀末のウィーン、中国の南宋の時代、日本の室町文化…。人々が現実ではなく、理想の世界を夢見るからなのか、苦しみから喜びまで、さまざまなことを思うからなのでしょうか」

 「さあ、このモスクが世界一美しいというのは、もちろんこれだけではありません。礼拝室にまいりましょう。すいませんが、また女性の方はチャドルを着ていただきます。また、まだ礼拝をされている現地の方もいますから、声は出されないようにお願いします」

佐々木が皆を誘った。

 礼拝堂に入ると、まばらに礼拝している人たちの姿があったが、全員息を呑んだ。

 朝日の当たるほうに、色彩豊かなステンドグラスがいくつもあって、そこからの光が絨毯の敷き詰められた床などに華やかな色をともなって投影されている。

 …こんな美しい空間があるだろうか。色彩の取り合わせがよいためか、安っぽさはなく、ただただ、色彩の氾濫に身を任せるだけだ。繁華街のネオンのように安直ではないが、さりとて高貴な、ということもない。とにかく美して朗らかだ。誰がこんな配色を考えたのだろう。色彩について、よほど深く鋭く知っていた人物だろう。

 太陽の光で部屋の中の大気も温められてきたか、水蒸気が薄い煙のように立ち昇って、太陽の光に照らされ、少しむんむんとする。しかし、不快には感じない。

 みゆは、うっとりと周囲を見つめていた。荒木が近寄って話しかけると、色に満たされた美しい空間の中にふたりして入り、お互いがさまざまな色に染まる様子を見て笑顔になっていた。みゆは飛び跳ねてさえいた。荒木がそれをたしなめていた。

 「光って不思議よねえ。なんで人の心をこんなに捉えるのかしらね」

 気がつくと、佐々木が隣に来ていた。

 「…森村さんの件、くれぐれも内緒でね」

 「はい」

 

 「皆さま、天井や柱の彩色もよくご覧になってください。その美しさも素晴らしいものです」荒木がみんなの元へ戻って言った。

 気が付いたら三十分くらいが過ぎていた。光のシャワーと美しい装飾、さらによく見ると床に敷かれた絨毯も見事なものだった。皆、美に満たされ、圧倒されていた。こんな場所だったら、モスクであろうが、なんであろうが、毎日来たいくらいだ。

 「通常はこの時間には見学できないのですが、荒木さんのお蔭で特別に来られました。荒木さんの隣にいるのが、ここの責任者のダエイさんです。ダエイさんが許可してくれました」

 いつの間にか、荒木の隣に、頭から被る黒い服を着た白髭でメガネのイラン人が立っていた。にっこりとみんなの方を見たので、皆会釈を返した。


 ホテルに戻っても、まだ色彩の余韻が頭にもからだにも残

されていて、幸せな気分だった。森村親子のことは心配だが、

自分も麻子との再会が刻一刻と迫っている。もう、アリと麻

子は空港へ向かったのだろうか…

 

 ホテルへ戻ると、話しながら部屋へ向かう荒木と佐々木を見ながら、部屋へは戻らずにそのまま朝食へ行った。…村中がいた。ナンやバターを手に取ると、村中のテーブルに行った。

 「おはようございます」

 「…おはよう」

 仏頂面ながら、村中は答えた。

 「今朝は、どうして来なかったんですか、素晴らしかったですよ」

 「….」

 ぎろりと睨まれた。

 「なぜだか分かってるだろ!」と村中の声が聞こえたように思えた。

 よっぽど、夕べのみゆの様子を話そうと思ったが、また荒れられたら困るなと思って黙った。

 黙って食べ終わると、それでも村中は

 「じゃな」とは言って去って行った。

 …素直になればいいのに。しかし、遠ざかる村中の後ろ姿を見ると、そんなことも思えなくなった。

幸せになって欲しい。

ひとり残らず。

少なくとも、村中さんは自分より、ずっと幸せに近いところにいるのに…


 部屋へ戻ると、もう八時半だった。観光へ出る用意を始めた。

 ロビーに行くと、また荒木と佐々木がフロントのスタッフを交えて話し込んでいた。

 それでも予定通り、九時前になると、佐々木と荒木は皆をバスへと促した。

 また前のほう、荒木と佐々木に近い位置に座った。 立ち上がって荒木のほうに近寄った。

「森村さん、大丈夫ですか? 」

「ん、まだ分からん。それより君は彼女と会うのに心を整えろ」

 荒木にそう言われておとなしく席へ戻った。

 みゆと村中は離れて座っていた。…まだ、ダメか。

 「あらためておはようございます。本日は四名様が別行動を取られていますので、今の皆さまで全員です。午前中は、イランの詩人ハーフェズとサアディーの廟を訪ねます。最初に行くのは、ハーフェズの廟です」

街のメインストリートらしき、大きな通りに出ると、古い、角に塔のある城塞が見えた、キャリーム・ハーン、ザンド朝の王の城塞です、と荒木が説明した。

 「これから行く廟は、ハーフェズという一四世紀の詩人の廟です。イスラーム神秘主義を代表する詩人のひとりです。スーフィズム、つまりイスラーム神秘主義というのは、皆さんご存知かなあ、例えばトルコの、ぐるぐる回る旋回舞踏のグループがそうです。イスラーム世界だけではなく、欧米にもたくさんの信奉者がいます。実は私の専門分野です。ご興味のある人には、後で、日本で出ているスーフィズムの本をご紹介します」

 「ハーフェズですが、実は本来は名前ではなくてニックネームです。クルアーンをすべて暗唱できるようになった人が『ハーフェズ』と呼ばれます。もちろんムスリムですが、彼の詩は、酒と性愛のことばかりが書かれているように思えます。でも、そういった内容は実は神への愛を、そういう形式で表したものと言われています。…でも、本当は単なる呑兵衛で、助平だったのかもしれません。ははは」

 「ハーフェズの詩をひとつ、ご紹介しましょう」


 「チューリップ咲く季節に、酒杯を持ち、偽善を捨て去れ

  バラの香りとともに、そよ風の友となれ

  一年中、酒を崇めよとは言わぬが、

  三か月は呑み、後は信心せよ」


 「どうです? これだけではただの呑んだくれですね」

 「荒木さんは酒を呑むのかね? 」

 時武さんが訪ねた。

「昔はよく呑みました。でも、今は残念ながらダメですね」

「呑みたくなることないの? 」

「今は『神に酔って』いますから…なんちゃって」

一瞬、佐々木や陽一のほうを見て、にっこりした。


十分くらいで、ハーフェズ廟に着いた。庭園のなかに、柱で囲まれた全体は丸い廟がある。花の大きなチューリップが、もう咲いていた。

「残念ながら、やっぱりバラはまだですね」

佐々木が言った。

でも、チューリップのほかに咲いている花もあって、ご婦人方は皆喜んでいた。

ゆっくりと歩きながら、丸いドームと柱で出来ている廟へ向かった。ヨーロッパ人らしきグループもいるが、イラン人のグループが多いようだ。人の多い中をかき分けるようにドームへと進む。中央には石棺があった。蓋にはペルシャ語が全面に刻まれている。

「ここへは、いつもたくさんのイランの人が来ます。それだけ、今のイランの人にも愛されているのです。ヨーロッパでも、このハーフェズとサアディーの詩は高い評価を受けていて、ゲーテが賞賛したというのは有名な話です。

イランの人は、ハーフェズの詩の本で占いをします。詩集を持って、ぱっと開いて、そこに書いてある詩をヒントとして、抱えている問題をどうするか考えます。ああ、忘れずにドームの天井をご覧ください。美しい装飾が見られます」

ハーフェズの廟は、外観はシンプルだったが、ドームの天井には繊細で精緻な装飾が施されていた。

「ねー荒木さん、このお棺の中に骸骨入っているの? 」

みゆが聞いた。

「そうだよ。開けてみましょうか」

荒木が棺の蓋に手をかけて、力を込めるふりをした。

「いやー。骸骨キライ」

そう言って、みゆは荒木の胸に軽くひじ打ちをした。

「痛い。ハートに響きました」

荒木が大袈裟によろけながらそう言うと、みゆがうれしそうに笑っていた。

ふと陽一は村中の顔を見た。真っ赤になっていた。荒木さん、マズイよ、と陽一は思ったが、荒木が村中とみゆのことに、何も気づいていないこともないだろうとも思った。

「さあ、次はサアディー廟にまいります。庭園の中を歩いて、ゆっくりバスに戻りましょう」

みゆは荒木と連れ立って、うれしそうに話していた。陽一は村中の方を見るのが怖くなっていた。

…しかし、とりあえずは何も起きなかった。皆、バスに乗り込んでサアディーの廟へ向かった。

サアディーの廟は、街の中心から少し離れていた。でも、あまり遠くはなかった。

ハーフェズ廟より、さらに敷地は広くなっていた。

歩きながら荒木が説明を始めた。

「サアディーは、ハーフェズより早い一三世紀の詩人です。彼の場合は、ハーフェズと違って、詩だけではなくて、文章と詩を組み合わせた箴言、戒めや教訓のようなものを多く書き残しています。それを集成したのが、『果樹園』『薔薇園』という作品です。この本も、イランの人たちはハーフェズの詩集と同様に、ぱっと開いて指針にしたりしています。こちらの廟は一九世紀の後半につくられています。糸杉を配した様子は伝統的なペルシャ庭園のものです」

ハーフェズの廟は歴史を感じさせたが、サアディーの廟は、比較的新しいせいか、建築物は簡素に思えた。しかし、庭園はこちらのほうが大きい。

「サアディーは、三〇年近く放浪の生活をしています。ですから、世界のさまざまなことを知っていました。シラーズにほぼ留まっていたハーフェズとは対照的です」

似たような、ドームを柱で支えた廟のなかには、やはり石棺が安置されていた。壁にはサアディーの作品だろう、文章がタイルの上に焼き付けられていた。

「サアディーの言葉もひとつご紹介しましょう。

 『薔薇園』からです。


 栄えているときにその門を叩き、

 『友だ』と誇らしげに言うものを友と思うな。

 運命と疲れの中にあるとき、

 その手を取るものを友と思え


よくある言葉ですが、確かに真実でしょう」(つづく)

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