ペルシアンラヴ 10
「麻子さんは、高田さんから連絡が行くなり、ここへ来る用意をして、そして来てしまった。でも不思議に、ウチの家の玄関に立った麻子さんを見たとき、初めてではない気がしました」
「それから、麻子さんは、ウチで寝泊まりしていて、ペルシャ語、アラブ語、イスラームやスーフィズム、パレスチナなどの勉強をしています。明日、私はまたパレスチナへ行きますが、便の都合で二日遅れて麻子さんも来ます」
「私の話はこれでいいでしょうか? 」
陽一は頷いた。
「次はあなたの番です。陽一さん」
「はい」
陽一は話し出した。話していて、今までのように苦痛は感じなかった。アリが、すべてを引き取ってくれて、嫉妬も苦しみも辛さも中和してくれているように感じた。アリと麻子の話に比べたら、あまりに平々凡々とした話なのに気おくれもしたが、アリは黙って聞いてくれた。
…陽一が話し終えると、沈黙があった。
その沈黙には星が瞬いていると思った。暗闇の中に、いくつかの星が輝いていた。
「う~む」
荒木が半ば真剣に、半ばおどけて唸った。
それから
「アリ、これはお母さんに聞こう。マリヤムに聞こう。三人の結びつきは強過ぎる」
「荒木さん、私もそう思う。普通とは違う感じがする。陽一さんと会って、余計なにか不思議な気持ちになった。私は明日、パレスチナに発つけれど、明後日に母はテヘランに帰ってきます。母に連絡しておきますから、荒木さんと陽一さんは母に会ってください。それと別に、陽一さん」
「明日、麻子さんに会ってください。私のいないところであなたは彼女と会わなければいけない」
「はい」
「私はあなたと会ったことは麻子さんには言わない。フェアにしたい、先入観を与えたくない。あなたはあなたとして、明日麻子さんに会って欲しい」
アリの言葉は、すべてその通りと思えた。
「よし、帰ろう」
「あ、荒木さん、ひとつ聞いてください」
「なんだ? 」
「私、母から言われています。明日からしばらく、天体の軌道、地球の動き…いろいろなすべてが、『何かが起こる兆候』を示していると。だから、要注意です。あなたも陽一さんも気をつけて」
「我々スーフィにとって、天体の動きは重要だからな。気をつけよう」
荒木は大きく頷くと、立ち上がって部屋の外へ出て行った。
「陽一さん、何があっても、私はこれからもあなたとはともだちでいたい」
アリが正面から陽一を見据えて言った。
陽一もアリを見つめた。ずっとアリと関わりあっていたいと思った。
どんなことがあっても、人と人の心が信頼して繋ぎあえれば、生きていける、とさえ思った。
荒木が静かに頷いた。
「行くぞ」
合図もなく、ホセインがにこやかに現れた。
陽一はアリの車イスを押しながら、アリの背中を抱えたいと何度も思った。
…そして、再びホセインの運転でアリの家の前に行って、したかったことをした。アリの上半身をしっかりハグした。荒木も仄かに笑みを浮かべた。麻子の部屋も見たが、灯りが消えたままだった。
…それからのホテルまでの帰り道では、荒木もホセインも黙ったままだった。ホテルの前に着いて車を降りると、ホセインが握手をしてくれた。そして、荒木の後を黙々と歩いた。
エレベーターに乗って、陽一の部屋の前まで来ると、荒木が黙ったまま、ハグしてくれた。「立派だった」という荒木の気持ちが何も言わずとも分かった。今まで生きてきて、初めて「勝てた」と思えた。「敗者のいない闘い」に。
…自分の部屋へ帰って、ベッドに腰かけると、天体の運行が見えるようだった。自分のはるか上で、星がぐるぐると回っていた。自分はひとりだと思った。とても孤独にも思った。でも、周囲の星が輝いてくれていた。アリの笑顔がいっぱいに浮かんだ、しかし、彼はどんどん遠ざかって行った。笑顔のままで…
『アリ、どこへ行くんだ』と聞いたが、そのままさらに眠りの森にすべり込んでいた。
森村加奈子がいなくなったと優が騒ぎ出したのは、まだ夜の明けない頃だった。
優の話では、最初はトイレかと思っていたが、いっこうにベッドへ戻らない。そこでバスルームに入ってみたが誰もいない。それから客室を出て、ホテルの館内もくまなく探したがどこにもいない。それが午前三時ごろ。しばらく客室で帰りを待ってみたが、五時近くになっても戻らない。
電話で起こされた佐々木は、そこまで話を聞いて「なにか思い当たることはないか」と聞いた。優は受話器の向こうで黙っていた。このままではらちが明かないので、佐々木は優の部屋まで赴くことにした。
ノックしてから優の客室に入ると、下を向いて歩き回っていた優が佐々木を見た。
「…ホテルの外を探しに行ってきます。僕たちぬきで観光に出かけてください。帰りが遅くなっても心配しないでください。必ず母を連れて戻ります。」
突然、弾かれたように身支度を整えると、優は部屋を出て行った。佐々木は「ちょっ・・・」と言いかけたが、優は振り向きもしなかった。「当てはあるのー? 」。後を追って言ったが、優は全速力で飛び出して行った。
佐々木は、優の部屋に戻ってしばらく考えていたが、今はどうすることもできないと思った。そして、優の部屋で貴重品とかが置きっ放しになっていないかどうかをチェックし、財布などは見当たらなかったので、鍵を見つけて部屋を閉めた。グループの人たちには母親が体調を崩しているので看病のために息子が残っている、とでも言うしかないだろう。これで今日の午前の観光は田中夫妻も含めて離団が四人だ。
しかし困った。犯罪にもしも巻き込まれていたらと思うと心配だし、グループのほかの人たちのツアーの進行には極力影響が出ないようにしなければならない。幸い、日本語のできるスタッフがいる地元の旅行社を知っていたので、なにかあったら協力を頼む旨の連絡を、早朝で悪いとは思ったが電話でした。またホテルには、もしもふたりが戻ったら荒木の携帯まで連絡をくれるように頼んだ。
…荒木を今から起こすのは、悪いと思ったし、今は荒木でもどうすることもできないだろう。
陽一が朝、目覚めるとアリがいた。
でも、それは幻だった。しかし、アリの気配が感じられた。また、新しいことがあるように思った。
しかし、何か重苦しい感じもあった。夢で見たのを思い出した。アリが笑顔でどんどん遠くに行ってしまう姿を。
天井を見上げながら、起きて身づくろいをした。
時計を見ると、もう六時半だった。急がないと。
まだ、夜が明けたばかりという暗さだったが、ロビーにはメンバーが集まっていた。
田中夫妻のほか、森村親子…そして村中もいなかった。みゆがぽつねんと佇んでいた。そして、荒木と佐々木はなにやら笑顔なく話し込んでいた。
「どうかしたんですか」
思わず、そばに行って陽一は尋ねた。ふたりはすぐ顔を向けたが、荒木が
「大きい声を出すなよ…森村さんたちが行方不明だ」
えっ…しかし、どうにか声を飲みこんだ。(つづく)