光の中で
「どうして、そういうことするの…?」
気がつけばそう声を発していた。
「…何よ」
「どうしてそういうことするの!?俺は一言も頼んでない!コンクールに出させてくれとも、ピアニストになりたいとも一言も言ってない!頼んでない!それなのにどうして…どうしてあのピアノを…」
母にここまで大声を張り上げたのは初めてだった。
病み上がりのせいか、こみ上げてくる別のもののせいか、鼻の奥が痛い。
「嘘ね」
しかし、少し間をあけてから母から返ってきた言葉は、謝罪でも言い訳でもないその冷たい一言だった。
「もし私がピアノを売らなければ、あんたはきっと今もプロを目指してた」
「違う!何を根拠に…!」
「あんたはコンクール前もずっと勉強を続けてた」
ーーー違う、それは母さんに褒められたかったからーーー。
「どうせそんなことで私に媚び売って、ちゃんと両立できるからーなんて言ってプロを目指すつもりだったんでしょ。そうよね、そしたらたとえ本番失敗したって勉強もしてたからーとかそんな理由で言い訳できるものね。それとも何?もしかしてこうやって熱出して倒れるところまで計算範囲内だった?残念だったわねー、私は生憎そこまで騙されやすくないのよ」
「違う!」
結生は声を張り上げた。
もう聞きたくなかった。自分が良かれと思ってしたことがここまで歪めて捉えられていたなんて。
「一体何が違うっていうのよ」
目の前にいるのは、結生が母だと思っていた人じゃない。
だけど、だけどーーー。
「俺は…!俺はただ、母さんに認めて貰いたかった…!褒めて貰いたかった!それだけだよ!」
この一言で、どうかーーー!!
ーーー中学生にもなって『褒めてほしい』なんて、本当は言いたくない。だけど、この一言で、俺の中の厳しい優しい母に戻ってくれるなら…!!!
そんな結生の願いも叶う筈がなく。
「…ふーん、まだそういうこと言うの。つくづく媚びの売り方が下手な子ね」
「違う!媚びなんかじゃない!」
「中学生にもなって『褒めてほしい』?はは、反吐が出るわ。なんて恥ずかしい子なの」
「違う!本当なの!信じて!お願い!」
「ふざけたこというのもいい加減にしなさい!ーーー本当に邪魔な子」
***
「それからはずっとこの調子ですよ。最初は友達で寂しさを紛らわしていたけどだんだんそれも信じられなくなって、気がつけば感情っていうもの自体が薄れていて、自分が何が好きで何が嫌いなのかまでわからなくなってた…」
自嘲気味にそう言う結生に、敦賀は掴み続けていたその手首に力を込めた。
「でもさっきお前は、乱されてるって言っただろ」
「…え?」
「俺に告白されて乱されてるって。それって、感情が揺り動かされてるからそう感じるんじゃないの」
そう言いながら、視線を逸らすように窓の外を眺めていた結生の顔を両手で挟み、視線を合わせるように自分の方へと向ける。
「俺は、今のお前の過去の話を聞いて、かわいそうだとかそういうことをいうつもりはねえ。確かに話を聞いた限りでは、はっきり言っちまうとお前の母親は最低だと思うし、色々言いたいことはあるけど、それは俺が直接経験したことじゃねえし、多分どんな慰め方をしても今の俺ではお前の今まで受けてきた傷を癒すことはできない」
「……」
「だから、これから無意識のうちにお前を傷つけちまうことがあるかもしれない。でも、これだけは言える。俺は絶対お前に嘘はつかない。お前を騙したり、お前にうわっぺらだけいい顔をして実はそんな風に思ってませんでした、とか、そんなことは絶対しない。たとえお前が俺の告白を受け入れなかったとしてもだ。信じられないならずっと俺を拒み続けてもいい。それでも俺からお前に対する誠意と態度は絶対に変わらねえ。神に誓ってもいい。お前はもう少し、誰かに甘えたっていいんだよ、あほ」
そう言う敦賀の目は、普段の彼からは想像できないほど真剣で。
ーーーとてもじゃないけれど、嘘をついているようには見えなかった。
でも、何より、何故かこの人の言葉なら『信じていい』と思えるからーーー。
「…一つ、聞いていいですか…?」
鼻の奥が痛いけれど、この痛さはあの時のものとは違う、心地の良い痛みだ。
「何で、そこまでしてくれるんですか…?こんな、惨めで情けない一生徒に」
その答えは、何となく想像できるような気がしたけれど。
「当たり前だろ?好きだからだよ、お前が」
ああ、やっぱり、この人だったのかーーー。
「それに、ただの一生徒ってわけじゃないぜ?
ーーー俺の、想い人だ」
光の差し込む白いシーツに一滴の滴がこぼれ落ちると同時に、二人の唇が重なった。