あの頃は
母は、昔から厳しい人だった。
テストは学年トップで当たり前。一つでもミスがあれば、例えその他の教科が満点でも汚物を見るような目で見られた。
習い事も、小学校低学年までは毎日遊ぶ暇もないほどさせられていた。高学年になってからは、学校が忙しくなったせいもあり、ポツリポツリとやめていったけれどーーー。
ピアノは、小さい頃から母にやらされていた習い事の中では唯一好きなものだった。
ピアノを弾くと、例え嫌なことがあった時でも気持ちが軽くなったし、母と揉めてイライラしている時にはそれで気持ちを抑えられた。
だからと言って、特にピアニストを目指していたわけではなかった。
そんな甘い世界でないということくらいわかっていたし、何より結生自身が人と競って弾くよりも一人で楽しく弾くほうが好きだったから。
そんな中学生一年生の秋。
その事件は起こった。
「結生、あなたピアノコンクールに出なさい」
夕食の時に、母が珍しく穏やかな口調でそんなことを言ってきた
「いきなりどうして?」
「いい経験になるからよ」
「でも俺、別にプロを目指してるわけじゃ…」
「そんなこと知ってるわよ。でも、たまには勉強の息抜きだって必要でしょう?」
意外だった。まさかこの母からそんな言葉ーーー『勉強の息抜き』ーーーなんて言葉が出てくるとは思わなかった。
あの、勉強の鬼のようなこの人からーーー。
今から考えると、この段階で気付くべきだったのかもしれない。
人間、そんなに簡単に性格や性分が変わるわけでもないということにーーー。
が、当時の結生はそんなこと考えつくはずもなく。
ただひたすらにコンクールに向けての練習とーーー母に少しでも認めてもらえるよう、ひっそりと勉強もして、身体も何もかもを限界まで駆使して毎日を過ごした。
身体の異変に気付いたのは、コンクールの3日前だった。
(喉が痛い)
眩暈もするし、なんだか暑寒いし、鼻水も止まらない。
どう考えても風邪だった。
(きのう、夜遅くまで勉強しすぎたかな…)
練習をしたあとの勉強となると、どうしても時間は夜中になる。
つい最近までうるさいほどに「何時までには寝なさい」と注意してきた母のそれも、最近はめっきりなくなっていたので尚更だった。
(本番出られなくなったら嫌だし…今日は早退して、とにかく休もう)
症状的に熱はあるだろうが、この程度なら一日休めば治せる。
結生が今までの経験上から判断したことだった。
でも、そこからが悪夢だった。
ーーー俺の母は、俺がこの当時信じてやまなかった「厳しいけれど優しいところもある母親」ではなかったのだ。
「その程度で家に帰って来ないでくれる?まだ掃除すら終わっていないのよ、どこまで私の邪魔をすれば気が済むの!」
少しは心配して、一言くらい「無理しちゃ駄目よ」と声をかけてくれるのではないかーーーそんな希望を僅かにでも抱えて、重い身体を引きずって家に帰った結生を待ち構えていたのはそんな母の言葉だった。
「じゃ、邪魔…?」
「そうよ、邪魔なのよ!全く、もういいわ、寝るなら寝るでとっとと自分の部屋に行って頂戴!掃除出来ないでしょう!?」
叩くような強さで背中を押され、母はそのままリビングへと戻って行く。結生はそのまま茫然として玄関で立ち尽くした。
ーーー別に、大袈裟なほど労わったり馬鹿みたいに心配して欲しいわけじゃない。頑張ってるとか、無理してるとか、そんな風に言って欲しいわけじゃない。
ただ、認めて欲しかった。自分を見てほしかった。自分という存在に気付いてほしかったのだ。
(俺が、何かを残したら…例え身体がどうなろうと、結果を出せば、母さんも…いや、母さん以外の人も、俺を認めてくれるのかな…)
ーーーだって最近の母は、珍しく勉強のことを言わなかった。
『息抜きも必要だ』って言ってくれた。
きっと応援してくれているんだ。それなのに、この時期になって俺が体調なんて崩すからあんなに怒ったんだ。きっとそうだーーー。
結生の中で歪んだ何かが弾けたとき、終焉を目指す歯車は音をたてて回り出すーーー。
彼は、痛む頭と火照る身体を叱咤して、ピアノの部屋へと向かったのだった。