葛藤
目を閉じたままの暗い世界に、聴こえないはずの旋律が流れてくる。
いつも夢の中で流れてくるあのメロディ。
ーーーそうだ、やっと思い出した。
これは、メンデルスゾーンの『序奏とロンド・カプリチオーソ』…
その瞬間、結生は電気ショックにでもあったかのような衝撃を感じて跳び起きた。
起きた瞬間、一番に感じたのは、鼻につく薬品の匂いだった。
ーーー俺は…そうだ、俺は…
今まで忘れていたはずのことが、堰を切ったように溢れ出す。
いや、違う。忘れていたんじゃない。
ーーー自分から忘れようと、記憶を消そうと努力して忘れたんだ。
そして、俺は『記憶を消す方法』を知ってる。いや、正確には『忘れたことにする方法』を。
ーーー小さい頃からやってきた、子供騙しのようなこの方法。
手順は簡単だ。両手で耳を塞ぎ、目をギュッと瞑り、忘れろとひたすら呪文のように呟くだけ。
一見馬鹿みたいなこの方法でも、事実結生はこれを何度も繰り返して記憶を薄れさせ、忘れたことにしてきた。
(今回も、できる…はず)
この記憶を思い出してしまった状態では、おそらく自分は、「表の顔」という仮面すら付けられない。そうなると、この学校でも普通に生活なんて出来なくなる。
苦しい思い出なんて、消してしまった方がいっそーーー。
そうして手を耳に当てたとき、ふと脳裏に一人の顔が浮かんだ。
ーーー敦賀先生。
あの人にだけは、嘘をつきたくなかった。忘れたことになどしないで、苦しくてもつらくても本当のことを話したかった。「好きだ」なんて言葉は、弱いところも醜いところも全てを含めた自分を知った上で言って欲しかった。
ーーー敦賀先生なら、例えどんなに惨めで弱いことでも、笑わず真剣に聞いてくれそうだったから。
でも、そんなのただの傲慢だ。何より自分が一番、人に自分を曝け出すことを拒んできた。記憶を忘れたことにして、なかったことにして、自分が自分と向き合うことを一番避けてきた。そんな自分に、今さら人に受け入れてもらう権利なんてない。
ーーー自分は、これからもずっとこうして逃げていくしかないんだ。
そうして、今度こそ本当に忘れようと目を瞑ったとき。
「結生!!」
焦ったような声と共に、誰よりも会いたくてーーー誰よりも会いたくなかった人に、手首を掴まれた。