兆し
「結生ー、今日空いてる?」
とある新学期の放課後。朝倉結生はクラスメイトの呼びかけに、帰り支度をしていた手を止めて振り向いた。
「うーん、どうして?」
「いや、実は俺たちさ、今日このあとゲーセン行って飯食って帰ろって話してんだけど、お前もこねえ?」
「うーん…ごめんね、今日はちょっと用事があるんだ。だからまた今度の機会に」
いかにも申し訳なさそうに眉尻を下げてそう言うと、声をかけてくれた生徒はやっぱりそうかという風に残念そうな顔をする。
「そっか…結生は忙しいもんなー。また今度行こうぜ?俺たち一回結生とゲーセン行ってみたいんだよ」
な?とその男子生徒が後ろを振り返って自分の仲間内にそう問いかけると、そうだそうだとか俺結生と何々やってみたいんだよーといった相槌が聞こえてきた。それに曖昧な笑みを浮かべながら帰り支度を済ませると、鞄を持って席を立つ。
「ごめんね、また今度暇なときには」
「いいよいいよ、結生も用事頑張って」
「あはは、頑張るようなほどのことでもないけどね。じゃあ」
軽く手を振りながら浮かべられた少年のその笑顔は、教室を出た途端瞬時に消し去られた。今の今まで漂っていたその柔和な雰囲気も一気に冷たい刃のようなものへと切り替えられる。
そう、頑張るようなほどのことでもない。
ーーーーーだって用事なんて、本当はもとからないものなのだから。
しかしそれは、結生自身が望んでついている嘘ではない。ただその状況を諦めて受け入れていただけで。
校門を出て今時にしては珍しがられるガラケーを開くと、そのシンプルな画面には新着メールが通知されていた。メッセージを開けると出てきた予想通りの文章に、何のためらいもなくその画面のままケータイをパタンと閉じる。
『もう授業は終わってる時間でしょ?今どこにいるの?まだ帰って来ないの?電車に乗る前には連絡しなさいよ』
相変わらずな母からのメールに、正直もう高校2年にもなった男をこんなに心配する必要がどこにあるんだ、と思う。が、それを訴えたところでどうこうなるわけでもなく、また、下手に突っかかった時の母親の面倒臭さは結生自身が一番よくわかっているため、今更特にどうこうしようとも思わなかった。
さっきの用事の件についても同様だ。
母は、結生が学校の授業終了後に同級生とフラフラ出かけることを好まない。そんな無駄なことをしている暇があれば、勉強なり手伝いなりをしろと言う。中学生の時はそれに反発したりもしていたが、今はもうどうでもよくなっていた。というのも、誘ってくれた友人には申し訳ないが、さして仲が良いわけでも一緒にいて楽しいわけでもない人たちとわいわいガヤガヤと集ったところで、逆に気を遣って疲れるだけだからだ。
一体自分は何を考えているのか自分でもわからないまま駅のホームまで歩いていると、いかにも忙しそうなサラリーマンと肩がぶつかった。一応前は見て歩いていたはずだから自分に非はないとは思うけれど、軽く「すみません」と謝っておく。それに対し、相手は自分からぶつかってきたのにも関わらず舌打ちを返してきた。が、特に苛立ちもしなければ不快な気分にもならない。どこか別のところから、もう一人の自分が傍観しているような、そんな感覚だった。
「ただいま」
家に着いて軽くそう声をかけると、小音量で言ったにも関わらず奥の台所から母親が駆けてくる。そしておかえりも言わずに、どうして今日はこんなに遅かったの(といってもたかが10分ほどである)、とか、数学のノートは持って帰ってきたの、とかそんなことをいくつか質問された。母はいつもそうだ。一番掛けてほしい言葉を掛けてはくれないくせに、息子を自分の思い通りに動かさないと気が済まない。この場合は、『おかえり』ーーーーーそのたった四文字の言葉すら、言ってくれない。
とはいえこれも今に始まった話ではないので、結生は適当に返事をしつつ手洗いうがいを済ませると、荷物を持って二階へと上がった。二階にある自分の部屋は彼の唯一息の詰まらないテリトリーだ。が、二階へ上がる階段の途中でまたしても母に呼び止められる。
「結生、今日の宿題は?いくつあるの?一体何の教科?」
「数学だけど…授業の空き時間に終わらせてきたから」
「授業の空き時間って何よ、あんたみたいな馬鹿にそんな時間あるわけないでしょう?あれほど授業は集中して受けなさいって言ったのに…もういいわ、授業中にやらないなら今からやりなさい。前にお母さん買ってあげた問題集があったでしょ、今日中に全部やって」
「全部って…あれ確か500ページくらいあった気がするんだけど」
「いいからやって。二時間もあったら出来るわよ、あの程度の問題」
吐き捨てるようにそう言う母に、結生は心の中で溜息を吐いた。全く、自分で解いたこともないくせによく言えたものだ。おまけに、さっきまであれほど馬鹿だとか何とか言っていたくせに、超難関大学の入試対策用問題集500ページを二時間でやれなどと、矛盾しているとは思わないのか。
そんなことを思いつつも、いい加減母とのやり取りが億劫になってきて無言で踵を返した結生に、階下から「あとでやったノートを見せてもらうからね!」といった母のヒステリックな声が聞こえてきた。それを無視して自分の部屋の扉を閉める。
「はあ…面倒くさ…」
そう言いながら荷物を降ろし、ブレザーを脱いでネクタイをほどいていると、ふと壁に掛かった鏡に自分の顔が映っていることに気付いた。と同時に、自分でも呆れるほどにその顔に表情がないことに気付き、ふっと自嘲的な笑みを浮かべて目を逸らす。別に自分が感情のない、それこそクローンのような顔をしていることは今に始まったことでもないが、流石に母とのあのやり取りのあとに何の感情も湧いてこないというのはどうなのか。もう少し腹が立つとか、そんな感情が沸き起こってもいいものではないか、と思う。
昔は確かに、もっと感情豊かな性格だった。母の性格は昔からあんなだったけれど、理不尽なことを言われたら腹が立ったし、悔しくて泣いたりしたこともあった。母のあまりの横暴な言い分や行動に我慢ならず、友人に愚痴っていた時期もあったと思う。ただ、愚痴ったところで笑われて済まされるだけで、どうにも解決しなかったわけだけれど。
思えばその頃からだったのかもしれない。どこか人間というものに絶望を感じて、自分の気持ちというものがわからなくなった。ただその当時は、いくら横暴に振る舞われてもまだ両親のことだけは信頼していたから、もう少し、ほんの少し、両親に対してだけは感情というものがあった気がする。それがどうして今のようになってしまったのか、原因ははっきりとは覚えていない。ただ、両親に失望した時、友人に失望したとき以上の絶望をおぼえたことだけは鮮明に覚えているから、きっとそれなりの出来事はあったのだろう。別に忘れているならそれでいいし、今更それを無理やり思い出そうとも特には思わないけれど。
そんなことを考えながら私服に着替えていると、突然ブレザーの中に入れっぱなしになっていたケータイが音を立てた。通常2~3回で切れるバイブがずっとなり続けているということは、メールではなく電話だろう。
(俺に電話をかけてくるような人間なんていたっけ…?)
少なくとも同級生には用事があると伝えてあるのだから、彼らではないはずである。
些か躊躇いつつも、ブレザーのポケットからケータイを取り出した結生は、そのディスプレイに表示されていた意外な人物に思わず疑問の声をあげた。
「観堂先輩…?」
そのケータイの向こう側にいた人物の正体は、現生徒会会長・観堂渚、その人であった。