おかえり
「あら、大変。優志、起こすの忘れてたわ!」
母は慌てて、二階へと駆け上がる。
一見、何処にでもあるような、ごく、普通の日常だ。
「優志!!優志!!起きなさい!!」
母は、いつにも増して、声を張り上げ、言う。
「あと5分だけー」
優志は、甘えた子供のように言う。
「何、子供みたいなこと言ってんの。夏穂ちゃんはもういないんだから、一人で起きれるようにならないと」
母は、呆れ顔で、両手を腰に付いて、言う。
「なつ……」
優志は、まるで尊い誰かを思い出すような、そんな様子で呟いた。
それから、優志の頭の中で、その「誰か」の記憶が、鮮明に思い描かれて行く。
「夏穂ちゃん!!」
さっきまで寝ぼけ眼だった優志は、飛び起き、窓の外を見た。
しかし、家の前に夏穂がいるはずもない。
夏穂がいないことを除けば、いつもと変わらない日常の風景である。
優志は、そのままリビングへと駆け下りて行った。
いつものように、夏穂がリビングのソファーで寝ているんじゃないかって……。
そんな期待が、少なからず胸にあったのだ。
けれど、そこにも夏穂の姿はなくて……。
「夏穂ちゃんは」
母は言った。
何処か寂しさを感じつつも、穏やかな調子で。
「きっと今頃、幸せそうに笑ってるわ」
「うん」
優志は頷いたが、やはり、夏穂が自分の手の届く距離にいないことが、納得できない様子だった。
「それならいいんだ。夏穂ちゃんが、幸せなら……」
本当は、認めたくない。
けれど、それは事実に越したことがないと、優志は思った。
「そうよ。夏穂ちゃんの決めた選択は、正しかった。夏穂ちゃんが自分で選んだ道何だから、何も間違ったことなんてないの。私たちは……」
母のその先の言葉を、優志はちゃんと分かっていた。
そして、頭に浮かんだその言葉を、そのまま優志は吐き出した。
「ただ、夏穂ちゃんの幸せを願えばいいだけ」
「えぇ」と、母は静かに頷く。
二階から、ドタドタと、品のない足音が聞こえて来る。
「姉ちゃん」
優志は言った。
瑞季は、「何?」と、とぼけた顔して優志を見る。
「あのさ、空気読めないの?」
「は?」
瑞季は、全く知らん顔だった。
「これ?」
ドレッサーの前で1時間以上の時間をかけた髪型を指差して言う。
「いや、まぁ、それもそうだけど……いろいろ」
優志は、苦笑いで言う。
「変なの」
瑞季は相変わらずしれっとしていて、いつもと変わらない様子だった。
「てかさ、姉ちゃん、メイクとか髪に時間掛け過ぎ。学校行くくらい、そんなにオシャレしなくたっていいじゃん」
「これでも、美容師の専門学生だよー?髪型に気を遣わないでどうするの?それに、大人っぽく見られたいからメイクだってするよ」
瑞季は、膨れっ面で言う。
「二人共、遅刻するわよ。早く食べちゃいなさい」
母は、穏やかな笑みを浮かべ、言う。
「はーい」
二人は返事し、それぞれが席に着く。
目の前には、こんがり焼けたトーストが置かれている。
「ねぇ、優志」
瑞季は、静かな調子で言う。
その表情は、どことなく寂し気だった。
「うん?」
優志は、パンを口にくわえながら返事する。
「私たちは、夏穂ちゃんがいなくなっても、幸せでしょ?」
「ねぇ、そうだよね?」と言ったように、瑞季は同意を求める。
「うん。幸せだよ」
優志は、少年のような笑顔を見せた。
その笑顔が、瑞季に安心を齎した。
「あ、もう行かないと」
優志は時計を見て、椅子から立ち上がる。
「行ってらっしゃーい」
瑞季は、安心感に包まれたまま、手を振った。
「行ってらっしゃい」
母が駆けて行き、優志を玄関まで見送る。
「あ、姉ちゃん!」
玄関越しから、優志が瑞季を呼ぶ声がする。
「んー?」
瑞季は、優志に届くくらいの声で返事する。
「帰りに、パン貰って来るよ」
優志は、夏穂が家を去って以来、再びパン屋で働き始めたのだ。
以前、優志が働いていたパン屋は潰れてしまい、おばさんがどうしているかも分からない。
優志はパンが大好きなので、今は別のパン屋で働いている。
何も、最近出来たばかりのパン屋さんだが人気があり、優志は初めに入った2番目であるのもあって、時期に「店長」になることが決まっている。
優志は高校を卒業したらそのまま「店長」として就職し、いずれは自分のパン屋を立ち上げるのが夢らしい。
「苺のジャムパンお願い」
瑞季の声を聞き取った優志は、「オッケー」と返事をし、そのまま家を後にした。
「夏穂さー」
夏樹は、偉そうな態度で、漆で塗られた木製の椅子に座っていた。
朝から、何と優雅な家庭だろう。
夏穂は、顔だけで反応する。
「月島のこと、好きだろ」
「えっ」
夏穂は、手に持っていた紅茶を放し、思わず咳き込む。
「だって、さっきから月島のことばっか見てるからさ」
夏穂は、様子を窺うように月島を見る。
月島は、ただにこやかに笑っている。
夏穂は、思わず赤面する。
「ほら、今顔赤くなっただろ。やっぱりなー」
夏樹は、面白くないと言ったように、不満そうな表情を浮かべた。
「だって……月島さん、ずるいんですよー!!さっきから、私のハートばっかり盗んで!!」
夏穂は、さらに赤面する。
月島は、「私……ですか?」と自分を指差し、
「特に、何も考えずやっていることなんですが……」
「おい、月島。ずるいぞ」
夏樹は月島を指差し、言う。
「えぇ。私は何も……」
月島は、慌て、動揺する。
「そうですよー。無意識にやっていることだとしたら、月島さんは究極の女ったらしです!!」
「えぇ、そんな……」
月島は、さらに動揺する。
それを見て夏穂は、
「何だか、月島さんばかり責めるのは可哀想なので、私が見方に」と同情する。
「おい、何だよ。さっきまで俺の味方だったじゃねーか」
夏樹は、朝ご飯に手を付けず、口ばかり動かしている。
「まぁまぁ、朝から喧嘩はよしてくださいよ」
月島は、大人らしく冷静さを取り戻し、言う。
こちらの家庭も、(優雅な食事を除いては)何処にでもあるような、朝の日常の一コマだ。
やはり、夏穂もそれなりに生活に馴染んでいるかのように見えた。
しかし、夏樹の次の一言で、穏やかな場は崩された。
「夏穂、お前、本当にこの家でよかったのか?」
「え……?」
「何でそんなこと言うの?」と言うように、夏樹を見る。
「だって、お前さ。確かに、俺等の生活に馴染んでるよ。貧乏人の割には」
月島は、小声で夏樹に耳打ちした。
「レディーに対して、何てこと言うんです。失礼に値しますよ」
夏樹は構わず、続ける。
「でもさ、何か違うんだよなー」
夏穂は、ゆっくりと頷いた。
その先の言葉は、何となく分かっていた。
そして、その先の言葉を聞きたくなかった。
聞いたら、また優志の元に引き戻されるかもしれない……。
せっかく、自分に言い聞かせて何とか選んだ道なのに……。
「夏穂、幸せそうじゃないもん」
「何で?」
夏穂は、キョトン顔で夏樹を見る。
夏樹は屈託の無い笑みを浮かべ、
「一緒にいても、夏穂の瞳の中には、違う誰かがいるから」
「誰かって……」
夏穂は、自分でも分かっていながら、知らない振りをして見せた。
しかし、夏樹はそれを見抜いていたようだ。
「それはさ、自分が一番分かっているんじゃない?夏穂が好きなのは、俺じゃない。月島でもない、他の誰かだ」
「他の……誰か……」
夏穂は、確かめるようにそう、呟いた。
「優志さん」
途端、夏穂は動揺し、夏樹と月島を交互に見た。
「聞いてないよね?」とでも言うかのように。
「優志か」
夏樹は、調子を崩さず、至って冷静な様子で言った。
「そいつのことが、好きなんだな?」
夏樹の問いに、夏穂は目を逸らすことができなかった。
その問には、嘘を付くことができなかったからだ。
自分の気持ちに嘘は付かない。
優志さんのように……。
夏穂は、静かに頷いた。
それを確認した夏樹は、微笑みを浮かべた。
「そいつのとこ、行けよ」
「え?」
夏穂は、何度も瞬きした。
その目の向こうに、いかにも真剣な夏樹の瞳がある。
「夏穂はさ、何で俺と暮らすことを選んだ訳?」
「それは……」
夏穂の答えを先取りするかのように、夏樹は言った。
「俺への同情じゃなくて?」
「えっと……」
夏穂は戸惑い、落ち着きを失くしていた。
「俺、言ったじゃん?お金持ちの家に生まれても、俺は満足することができなかったって」
「はい」
「それを、月島はちゃんと見抜いていた。俺の瞳に映るものが、「母親ではない本当の母親」だって、知ってたからだよ」
夏穂は、思わず息を飲んだ。
自分は、自分の気持ちに嘘を付いている。
そして、自分は自分自身から逃げているだけだってこと。
「夏穂が、俺のことを想って、俺と一緒に暮らすことを選んでくれたのは、よく分かるし、夏穂らしい答えだと思う」
夏樹は、説教する訳でもなく、穏やかな調子で言った。
「けどさ、夏穂は本当にそれでいいのか?」
夏穂は、思わず目を逸らした。
月島は、夏穂の顔にそっと両手を添え、前を向かせた。
夏穂は涙を流しながらも、何とか夏樹を見つめた。
「わ、私……やっぱり……」
夏樹は、今までにないくらいの優しい微笑みを浮かべ、頷いた。
夏穂はそれを合図に、胸に詰まった想いを吐き出した。
「優志さんと一緒にいたい!!」
夏樹は、ゆっくりと手招きした。
夏穂は頷き、夏樹の元へと歩み寄った。
夏樹は、その手で夏穂の頭を優しく撫でた。
「それでいいんだ。夏穂」
夏穂は、涙を浮かべながらも、精一杯の笑顔を浮かべた。
「あぁ、今日も忙しいなー!」
店員の、一人が言う。
「仕方ないよ。それだけ、うちが人気ってことだ」
「さすが優志さん!!時期、店長候補なだけありますね」
優志は照れ笑い、頭を掻いた。
お客達は、店内を通り越して並んでいる。
その行列は、店内を超えた10メートル程にも及ぶ。
優志は、目の前のお客が帰っても、また次に現れるお客にてんてこ舞いだ。
「ありがとうございました」
大きなフランスパンをたくさん買ってくれた女性客が帰ると、やっと、列の半分以上を迎えることとなった。
「はい。お待たせしました」
優志は、笑顔で顔を上げる。
途端、自分の目を疑った。
「夏穂……ちゃん?」
優志は、目の前の人の名を呼んだ。
もちろん、記憶は鮮明に覚えている。
目の前の見覚えのある女の子は、紛れもなく夏穂だ。
「はい」
夏穂は、笑顔で返事した。
「どうして……ここに?」
優志は、未だに信じられない思いだった。
「優志さんに会いたくって。来ちゃいました」
夏穂は、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
その様子を見て、事情を察知した店員は、
「俺、代わりますよ。優志さん、二人で話して来て下さい」
後ろから声を掛ける。
「でも……」
そうもいかなかった。
何故なら、半分以上は過ぎたとは言っても、まだまだ行列は続いているからだ。
「いや、それは悪いよ。迷惑だって」
店員は首を振り、
「いつも優志さんには頑張って貰ってるんですから。たまには、俺等にも頑張らせて下さいよ」
優志は、「悪いな」と言って、夏穂の手を引き、店を出た。
こんな優しい仲間と働けているというのも、この店で、パン屋をやっていてよかったと思える理由の一つだ。
「懐かしいな。この感じ」
優志と夏穂は、前みたく、パン屋近くのコンクリートブロックに並んで腰掛けた。
「そうですよね」
夏穂の髪は、穏やかな空に溶け込み、風になびいていた。
髪も、以前よりいくらか伸びている。
「何ヶ月ぶりだろうな?こうして、パン屋の近くで話すの」
優志は、思い返すように言った。
「うーん。もうすぐ、半年が経とうとしてますね」
「本当か」
優志は呟いて、
「そんなに経ったんだな。月日って、早いね」
夏穂は、静かに頷き、微笑んだ。
「まさか、夏穂ちゃんが来るとは思わなかった」
「ですよね」
「どうしてここが分かったの?」
優志は、純粋に気になったことを聞いてみた。
「一度、優志さんの家に行きました」
優志は、思わず顔を上げる。
初めて、夏穂と目が合った。
「え?本当?」
「はい」と夏穂は頷き、
「本当は、家に行けばすぐに優志さんに会えるつもりでいました。だけど、優志さんには会えなかった」
「それで、お母さん達に俺の居場所を聞いたの?」
「はい」
夏穂は、ゆっくりと空を仰いだ。
いつにも増して、綺麗な青空だった。
「私、向こうの家でよく考えたんです。私は、本当にこの家を望んで、選んだのかって」
「だって……」
優志が続きを言う間も与えず、夏穂はかぶりを振った。
そして、ゆっくりと口を開き、言葉を発した。
「私は、やっぱり優志さんと一緒にいたかったみたいです」
夏穂は、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
その笑みに、優志は思わず赤面した。
「それって……」
優志は、状況を理解するのに必死だった。
まさか、再び夏穂が現れるとは思ってもみなかったからだ。
「俺等とまた、暮らすってこと……?」
「はい」
夏穂は笑顔で頷き、それからすぐに俯いた。
「迷惑……でしょうか?」
「いや、全然」
優志はかぶりを振った。
「嬉しいよ。夏穂ちゃんが帰って来てくれて」
夏穂は、とても嬉しそうな笑顔を見せた。
優志は、三日月のように目を細めて笑った。
「おかえり」
その一言こそを、夏穂は待っていたのだ。
こう言われたら、もう、返す言葉は決まっている。
「ただいま」
夏穂と優志は、互いに見つめ合った。
それから、夏穂は頬を赤らめ、ずっと募らせていた想いを伝えた。
「優志さんのことが、大好きです」
優志は、夏穂を抱き締めた。
夏穂は、優志の腕の中で、精一杯の幸せな笑みを浮かべた。
「俺も」
二人の微笑ましい姿を見守るかのように、鳥たちは、高らかに鳴いた。
君は、パン屋の少年は、これで最後となりますが、
読者様の心の何処かには、「永遠に優志と夏穂が居てくれればなぁ」と思います。
このお話は、捉え方によっては「貧乏で可哀想」といった印象があると思います。
しかし、私は「貧乏でありながらも幸せを築いた夏穂」の姿を書きたかったので、読んだ人が温かい気持ちになれたら嬉しいなと思います。
もちろん、捉え方は個人の自由で全然構わないのですが^^
最後までこの小説に付き合ってくれたあなたに感謝です。
また、次の小説に向けて、私は頑張ります。
その都度は、また目を通して下さると嬉しいです。
沙織。