囁かな幸せ
優志さんのストレートな告白(?)を受けてからその後、私達家族は、穏やかでいて、とても幸せな生活を送っていた。
朝、昼、晩と、家族揃ってご飯が食べられること。
温かいお風呂に入れること。
帰れる家があること。
当たり前なんかじゃない。
とってもとっても、恵まれてるんだってこと。
ねぇ、優志さん。
私、優志さんに出会えていなかったら……。
そう思うと怖くなるくらい、今が幸せで、大切なんだよ。
優志さん、気づいてる?
私……あなたのことが好きなんだよ。
夏穂は、優志の背中を見つめながら思っていた。
「夏穂ちゃん?」
気づけば、いつの間にか優志がこちらを見ていた。
夏穂は、思わず顔を赤らめる。
「大丈夫?何かぼーっとしてた」
「えっ。あ、いえ。大丈夫です」
夏穂は、慌てて言う。
夏穂と優志、姉の瑞季は、リビングの椅子に座っていた。
「ところでさ」
瑞季が言う。
「髪、邪魔じゃない?夏穂ちゃん」
夏穂は、自分の髪に触れてみる。
「まぁ……」
「そんな、曖昧に言わなくても。邪魔なのは分かるから」
瑞季は、相変わらずクールに笑う。
「カットしてあげようか?」
瑞季は、右手でピースを作って、指をチョキチョキと動かした。
「えっ」
「私、美容師の専門学校行ってるし、大体のことは学んでるから。任せて」
瑞季の微笑みは自信ありげで、夏穂は安心感を抱いた。
「お、お願いします」
夏穂は、軽く頭を下げる。
「はーい。ってことで、男子はあっちで待ってて」
瑞季は、優志の背中を押し出す。
「えー。別に着替えるわけでもないし、何でよ?」
「何でよ?って、夏穂ちゃんも緊張しちゃうでしょ?優志が見てたら」
「大丈夫ですよ。私は」
夏穂は微笑む。
「ほら!夏穂ちゃんは、俺を邪魔者扱いなんかしないんだよ」
「じゃあ、あんたはアシスタントね」
瑞季は、呆れた様子で言う。
「はいはい」
優志は途端に、二階へと走って行く。
「優志さん、何しに行ったんですか?」
瑞季が答える間もなく、優志が戻って来る。
優志の手には、カットシザー、すきバサミ、ヘアコームなどの、美容師に欠かせない道具のセットが入ったポーチが握られていた。
優志はそれを瑞季に手渡すと、慣れた感じで霧吹きをドレッサーに置き、ドライヤーのプラグをコンセントに差し込んだ。
「本当に、アシスタントさんみたいですね」
夏穂はそれを見て、言う。
「まぁね」
瑞季が言う。
「私がいつも優志の髪、切ってるから。それ見て、大体のことは覚えたんでしょ」
優志は何故だか、顔を赤くした。
その理由が、夏穂には分からなかった。
「美容院には行かないんですか?」
夏穂は、何気なく聞いてみる。
「行かない。行かない。私が家族みんなの、担当してるの」
「いいですね。お金がかからなくて」
瑞季は、得意気な表情を浮かべた。
「まぁね」
瑞季は続ける。
「希望のヘアスタイルはある?」
夏穂は「うーん」と黙り込む。
美容院にすら、ろくに行けなかったのだから、ヘアスタイルなんて考えたこともなかった。
ただ、学校で前の席の子の髪型なんかは、よく見ているため、「オシャレだなー」と度々思っていた。
「私はねー、夏穂ちゃんには、ミディアムの内巻きなんかが似合うと思う」
夏穂が返答に困っているのを気遣って、アドバイスしたようだ。
「そうですか?では、それでお願いします」
「オッケー!可愛い感じにするから」
それから、夏穂の髪全体を霧吹きで濡らし、コームで梳かしながら、少しずつカットを入れていく。
夏穂は初めてのカット体験(?)に緊張しつつも、カット後の自分の姿が楽しみだった。
随分な量の髪が床の上に落とされていく。
瑞季のカットはとても慣れた手つきだった。
綺麗に髪の長さが整ったところで、今度はドライヤーを当てる。
「熱くない?」
瑞季は、夏穂の顔を覗き込む。
「大丈夫です」
濡れた髪がどんどん乾いてゆく。
それと同時に、自分の髪の仕上がりが分かってくる。
「わぁ」
夏穂は、思わず声を上げた。
鏡の中の自分を、まじまじと見つめる。「いい感じになってるじゃないですか」
「でしょ」
瑞季は、得意気に言う。
夏穂は、笑顔で頷く。
「はい。完成!」
瑞季の声で夏穂が鏡を見ると、切る前とは全然違う、自分の姿が目に映った。
黒髪で直毛、しかも背中まで伸びた髪だったが、そんな重たいイメージを瑞季が変えてくれたのだ。
肩までのミディアムな長さに、くるっとした内巻きが可愛いボブスタイル。
前髪も、斜め流しにヘアピンで留めていたのが、内巻きでレトロな感じになっている。
夏穂は前髪を作ったのが初めてだったし、短い髪の自分を見るのも初めてだった。
生まれ変わったような自分に胸を弾ませ、どこかに飛び出したいような、そんな気分だった。
「ねぇ、夏穂ちゃん」
瑞季が言う。
夏穂は、しばらく鏡に見入っていることに気づいた。
「せっかく髪を切ったんだから、可愛い服も着てみたいと思わない?」
瑞季は、何だか楽しそうに微笑んでいた。
日頃の、専門学校での練習の成果を果たせる事ができて、嬉しかったのだろう。
「え……」
夏穂は一瞬、身を固まらせ、そして目を丸くする。
優志が微笑んだ。
「行こう」
優志は、何のためらいもなく、夏穂の手を引いて行く。
「えっと……」
夏穂は動揺しながらも、優志に手を引かれるまま付いて行く。
瑞季が微笑んで言った。
「行ってらっしゃい!」
「うわぁ~。オシャレな店!」
服の多さとそのオシャレなデザインに、夏穂は圧倒される。
「俺も、よく服のことは分かんないだけどね」
優志が言う。
優志は、夏穂に目を注いでいた。
夏穂の目は今までに見たことがないくらい、輝いていたのだ。
まぁ、それもそうだろう、と優志は思う。
10代の女の子がオシャレしたいという気持ちは、当然のことだ。
「うーん。迷いますね……」
夏穂は、目の前の洋服達に、目移りしながら言う。
「そうだね。一杯あるしね」
「オシャレしたことないし、自分に似合う服ってよく分からないから……」
優志は夏穂の言葉に頷きつつ、店員に話しかける。
「すみません。この子に似合う服を選んであげてください」
「えっ」
夏穂は、小さく驚いた。
「かしこまりました」
20代前後であろう、若い女性店員は、優しい笑みを見せた。
「そうですね~。こちらなんて、どうでしょう?」
店員が持ってきたのは、淡い水玉柄のブラウスに、キャラメル色のキュロットスカート。
「おぉ~。可愛いじゃん」
優志は、思わず讃賞した。
「すっごくいいよ。絶対、夏穂ちゃんに似合うと思う」
「そうですか?ありがとうございます」
店員は、さらに、踵の高いショートブーツとクラシカルな雰囲気のバレッタを持って来る。
「こちらも合わせれば、もっと素敵になると思いますよ」
店員は自然な感じで言うが、その手には乗せられないと、優志は自分に言い聞かせる。
しかし、店員の次の言葉が止めを刺す。
店員は、夏穂の方を向いて、
「彼女さんですか?二人共、お似合いですね。彼女さんの髪型、とってもキュートですね!このバレッタとか、すごく似合いそうです」
店員は滑舌よく、とても滑らかな口調で言う。
こういうのは、普段から言い慣れているのだろう。
優志は思う。
「えっ。彼女じゃな……」
夏穂の言葉を遮るかのように、店員は、夏穂の髪にバレッタを止める。
「どうですか?彼氏さん」
店員は、相変わらずの綺麗な微笑みで言う。
てか、何で彼氏ってことになってるんだ!?
優志は動揺しつつも、店員に微笑み返す。
「とっても似合うと思います!全部、購入させていただきます」
「ありがとうございます。では、お会計の方へ」
店員の表情の明るさといったら。
こんなに笑顔を向けられると、嫌味も感じなくなってしまう。
「あ、待ってください」
優志の声に、店員は振り返り、小首を傾げる。
「この服、このまま着せて帰りたいんですけど……」
優志は、少し照れ気味で言う。
この行動が、思わず彼氏らしさを連想させたからだ。
「かしこまりました」
店員は、笑顔で言う。
「では、タグを取って、先に会計しましょう」
店員は、服をレジまで持って行く。
店員がタグを切ったところで、優志は、夏穂に服を手渡す。
「すみません。お会計の間に、着替えさせてもいいですか?」
「あ、はい。では、試着室はあちらになりますので」
店員に促され、夏穂は試着室へと移動する。
店員が走って戻って来る。
「では、お会計を」
軽やかにレジを打ち、優志はレジの値段表示に目を釘付ける。
「い、一万……」
優志は、確かめるように言う。
「まぁ、それくらいするよな」
優志は焦りつつも、笑う。
「一万三千五百円になります」
店員は、爽やかな笑顔で言う。
夏穂ちゃんに喜んでもらうためだし、仕方ないよな。
こんな出費、何のその……。
優志は、ためらいながらも、財布からお札を取り出す。
「ありがとうございました」
その頃、夏穂が着替え終わり、試着室から顔を覗かせる。
照れくさそうに、優志の元へと歩み寄る。
「着替え終わりました」
優志は、夏穂をまじまじと見つめる。
自分が相手を長く見入っていたことに気づくと、急いで目を逸らす。
「うん。可愛いと思う」
優志は、恥ずかしそうに小声で言う。
「とっても、素敵な彼氏さんですね」
店員が夏穂に耳打ちする。
「ゆ、優志さん。早く帰りましょう」
夏穂が催促するように、先を歩く。
「え?あ、うん」
優志は、先を歩く夏穂の後を付いて行く。
店員は、初々しい二人を、微笑ましく見送った。
「ありがとうございました」
「夏穂ちゃん。さっき、店員と何話してたの?」
「えっと、優しい人ですねって」
優志の問いかけに、夏穂はとっさの誤魔化しを作る。
「いや、優しくないんだけどさ……」
優志は、困ったように笑う。
「優志さん、さっきの服ですけど」
今度は、優志が焦る番だと、自分でも予感する。
「いくらしたんですか?合計」
「え、えっとー……五千円ちょっとくらい?だったかな」
優志の答え方を怪しむように、夏穂はさらに問い詰めた。
「本当ですか?もっと高そうに見えましたけど……すごくいい生地だったし」
「うーん。あの店は、すごく太っ腹なんだろうね」
さすがに、優志も誤魔化しが効かなくなる。
「レシート見せてくださいよ」
これを言われてしまったら、もう、どうすることもできない。
優志は逃げるように、小走りで駆ける。
「あ。高いんですね!一万円くらいいってるんですね!!」
夏穂も、優志を追いかけようと、小走りで駆ける。
と、同時に、足をくじいて転んでしまう。
「わっ」
夏穂の声に振り返り、優志は夏穂の元へと駆けて行く。
「だ、大丈夫??」
「はい。大丈夫です」
優志に手を借りながら、何とか起き上がる。
しかし、歩いている内にまたよろけて、転んでしまう。
優志は、少し考える振りを見せた後、
「乗って」
夏穂に背を向ける。
「えっ」
「大丈夫。絶対、夏穂ちゃんなら軽いから」
夏穂は躊躇する。
「でも……」
優志は構わず、夏穂をおんぶする。
「だ、大丈夫ですから。本当に!!」
「せっかく可愛い格好してんだから、これ以上怪我されたら困るよ」
優志の紳士的な優しさに、夏穂は思わずドキッとする。
今なら、言えるかもしれない。
いや、今こそがチャンスなんだ。
そう思いながらも、なかなか想いを伝えられない夏穂。
ただ、この胸が高鳴る気持ちを、言葉にすることなく、味わうだけだった。
夏穂は、優志におんぶされたまま、二人はしばらく歩く。
途中、一人の老人が目に映る。
薄汚れた服に、髪も無造作である。
老人はしゃがみ込んで、排水溝に木の棒を使って、何かを取ろうとしている。
老人の額からは大量の汗が流れ、その真剣さが伝わってくる。
夏穂は思わず優志の背中から降り、老人の元へと駆けて行く。
道路の向こう側、ちょうど車の気配がなくなっていた。
夏穂は老人の腰付近に置かれた財布を見つけては、
「こんな所に置いておくと、誰かに盗られますよ」
夏穂は、老人に財布を手渡す。
「あぁ、ありがとう」
老人は笑いながら、
「まぁ、盗られるような金もないんだがね」
夏穂は、その言葉にとてつもない切なさを覚える。
この人は、前の自分を映す鏡みたい……。
老人の汚れた手を見ては、助けずにはいられなかった。
「財布、私がしまいますよ」
夏穂は、老人のお尻のポケットへと財布をしまう。
「すまないね」
それから、夏穂も老人の横に屈む。
夏穂は気づいた。
この人は、落としたお金を取るのに必死なんだ……。
老人は、必死に木の棒の先を、排水溝の暗闇につついている。
その行動は、途方もなく先が見えないように思えた。
「夏穂ちゃん!」
道路の反対側、優志の声がした。
夏穂は振り返り、小首を傾げる。
優志は、夏穂に手招きする。
夏穂は立ち上がり、車を気にしながら、優志の元へと駆ける。
「はい」
夏穂が返事をすると、優志は向きを変え、夏穂に背を向ける。
「乗って」
「え」
「帰ろう」
優志の言葉が信じられないと言ったように、夏穂は目を丸くする。
それから、夏穂は優志の先を早歩きで歩いた。
「ダメだよ。転ぶって」
優志の言葉にはお構いなしに、夏穂は先を歩く。
「……夏穂ちゃん?」
優志は気にかけるように、夏穂の顔を覗き込み、言う。
夏穂は足を止め、しばらく黙り込んだ後、
「……弱い立場の人を見捨てるなんて、優志さんらしくないです」
夏穂の目は怒りと共に、どこか果てしない空間を見ているような、そんな目をしていた。
「だって、私の時も、パンをくれた。私のこと、助けてくれたんですよね?」
だけど、優志の答えは、意外にもあっさりしていて。
「そうだね……ごめん」
優志は、それから黙り込んだ。
それは、頭の中で気持ちの整理をしているように、夏穂は思った。
「夏穂ちゃん、怒ってるよね?」
日は沈み、月が差し掛かった頃。
優志達は、テーブルに並んで、食事をしている最中だった。
姉の瑞季も、母もいる。
「怒ってません」
「いや、怒ってるって。ごめん、本当」
母と瑞季は、何を揉めているのかと、その会話に注意深く耳を傾けていた。
「ゆうしー。また何かしたの?」
「またって何だよ」
優志は、いささか瑞季に適当な態度を示す。
「ダメでしょー。レディーファースト!」
瑞季のちょっとしたふざけも、今回ばかりは優志に通用しない。
優志は思った。
「ごめん」は、数なんかじゃない。
気持ちがどれだけ込もっているか、それが一番重要なんだと。
世の中の、何やら暗いニュースがテレビに流れる。
瑞季は気を遣ってか、バラエティ番組へと切り替える。
「あ、この人久々じゃない?超うけるんですけど!」
瑞季は一人で腹を抱えて笑うが、他の誰も笑うことはない。
ただ、母だけは例外で、そのお笑い芸人のツボが分からないという理由で。
今夜の夕食は、厳かな雰囲気のまま終えることとなった。
「優志!?何やってんのよ?」
母の大きな声によって、夏穂は目を覚ます。
急いで顔を洗い、母の声がする方へと駆けて行く。
そこは、優志の部屋。
部屋が広々としていて、殺風景な様子に、夏穂は違和感を覚える。
「ど、どうしたんですか?優志さん」
夏穂の問いに、母は参ったというように、呆れた様子を見せる。
「朝、起きてみたらこの様よ。家の前に、全部家具が出ていたの」
「えっ」
夏穂は驚き、カーテンをめくっては、家の前を確かめる。
「どういうこと……?」
夏穂の頭は混乱する。
確かに、家の前にはたくさんの家具が出ていて、優志の部屋は、いくつかの服と、スクールバッグしかなかったのだ。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
第六章もよろしくお願いします☆