家族
夏穂ちゃん!!……夏穂ちゃん!!
ふと、目が開いたかと思うと、目の前には優志さんがいて、私の名を懸命に呼んでいる。
夏穂はパチパチと瞬きし、優志を見つめる。
優志の表情が落ち着き、安堵したのを読み取れた。
「よかった。意識不明にでもなったら、どうしようかと!!」
「えっと……」
夏穂は、今までの状況を思い出そうとする。
水を求めて歩き回ったこと。
途中で、おばさんに畑荒らしの犯人と間違われ、怒られたこと。
そのまま無我夢中で走って……。
よかった、ちゃんと覚えている。
あの時、体力の限界を感じたことも。
きっと、倒れたところを優志さんに運ばれたんだな。
現状把握ができてきたところで、申し訳なさと同時に不安が押し寄せる。
急いで立ち上がろうとする夏穂を止めるように、優志は穏やかに微笑んだ。
大好きな、優志さんの笑顔だ。
その笑顔に少しの安心を取り戻し、夏穂も微笑んで見せる。
それから、部屋中をキョロキョロと眺め回した。
自分が寝ているベッドは、可愛いピンクのシーツと布団が敷いてあり、部屋全体が大人っぽく、シンプルにまとめてある。
優志はそれを見て、「姉ちゃんの部屋だよ」と笑う。
「優志さん、お姉さんいるんですか??」
夏穂は驚いたように言う。
「いるよ」
優志は、勉強机の前にある椅子に腰を下ろす。
「2歳年上で、今は美容師の専門学校に通ってる」
「へぇ。ぜひ、会ってみたいです」
夏穂は、「優志のお姉ちゃん」の姿を想像してみる。
どんな人なんだろう。
優志さんがかっこいいから、お姉さんは綺麗で美人な人なのかな?
美容師ってことは、髪型にすごく凝ってるんだろうなぁ。
そんな夏穂の想像を読み取ったのか、優志はクスッと笑って、
「そのうち帰ってくるだろうし、すぐ会えるよ」
軽いノックの後に、優志のお母さんが姿を現す。
後ろで編みこんだ髪を、バレッタで止めている。
皿に載ったリンゴを、落とさないよう、慎重に運ぶ。
「夏穂ちゃん。具合はどう?」
「え、あ。はい!お陰さまで。大分良くなりました」
夏穂は緊張した様子で言う。
「そう、それならよかった」
母は微笑んで、「食欲あったらでいいけど、食べてね」
「ありがとうございます。何だか、すみません」
「いいのいいの」
母が部屋から出ようとするのを、夏穂は呼び止めた。
「お姉さん」
母は振り返り、夏穂を凝視する。
夏穂も、何かおかしいことでも言った?というように、母を凝視する。
しばらくして、母が笑い出したかと思うと、
「もぅ。夏穂ちゃんたら。お世辞が上手いのね」
夏穂は、そこでようやく、「母の凝視」の意味を理解する。
「“お母さん”なんですか!!ビックリしました」
母は笑って、「ビックリも何も、30半ばのおばさんよ」
「全然、おばさん何かじゃないです。すごく綺麗なものだから、つい」
それから母は、すごく喜んだように、足取り軽く部屋を出て行った。
どんな化粧水を使ったら、どんな食べ物を食べたら、あんな若々しくいられるのだろう。
夏穂は、すごく興味があった。
自分は、化粧水もメイクもできない身だからだ。
膝の上にある重みに気づくと、それが母が持ってきた、うさぎ型のリンゴだということに気づく。
夏穂は、ゆっくりと、噛み締めるようにリンゴを口に入れる。
口一杯に甘酸っぱさとみずみずしさが広がり、同時に、静かな涙を流す。
この涙は、「母の愛」を感じた証拠だ。
ずっと、一人で生きてきた。
家族なんていなかった。
自分が物心ついた時には、母という存在も、父という存在もなかったからだ。
幼い頃、友達が言っていた。
「風邪引きたいなー」
「どうして?」
幼い夏穂は聞いた。
「風邪を引くと学校が休めるし、お母さんが手作りのお粥を作ってくれるから」
その時の夏穂は、その行為を漠然とした想像でしか捉えることができなかった。
自分が身に持って体験できるとは、全くも予知していなかったからだ。
血の繋がらない「母の愛」によって、温かみを感じた。
夏穂は体調も回復し、立って歩けるようになった。
優志は夏穂を連れ出し、リビングでみんなと一緒に食事をすることになった。
ちょうど、母が茶碗にご飯を盛っているところだった。
「あら、夏穂ちゃん」
母は、優しく微笑んだ。
目尻の皺が安心感を持たせる。
夏穂が座る右斜め前に、顔見知りがいる。
彼女と目が合ったかと思うと、彼女は微笑んで、会釈した。
夏穂も会釈する。
「優志の姉の、瑞季」
彼女が言う。
夏穂は何となく、予感していた。
目の前にいるのが、優志の姉であることに。
瑞季は想像通りの美人で、とても大人びていた。
スタイルも抜群にいい。
優志と母は愛想がいいが、どちらも落ち着いていて、優しい微笑み方もよく似ている。
瑞季は凛々しい漆黒の瞳が印象的で、母には似ていない。
まだ出会っていない、父親似なのだろうと夏穂は思った。
「夏穂です。よろしくお願いします」
たぶん、自分のことは聞いているだろう、と思いながらも挨拶する。
瑞季は、声には出さず、微笑んだ。
夏穂は、瑞季の綺麗な編込みヘアに、思わず見とれてしまった。
それから、みんなで手を合わせた。
茶碗にそそられたのは赤飯だった。
誰か来るのかな?と思いながら、夏穂は茶碗を手に取る。
母のリンゴでも感動を覚えたが、赤飯はますます感動する。
こんなご馳走、本当にいただいていいのだろうか……。
この家族の中で、自分一人だけが「他人」であることを、夏穂は感じていた。
優志は、夏穂に食べさせようと促す代わりに、自分が勢いよく食べて見せた。
「おかわり!」
空になった茶碗を母に手渡し、言う。
少年のような、清々しい笑顔だ。
「もぅ。そんなに食べたら、夏穂ちゃんがおかわりできなくなるでしょ?」
母が呆れたように笑った。
「大体さ、みんな食わなすぎるんだよ!姉ちゃんの、見てみなよ」
優志は、瑞季の茶碗を指差す。
半分にも満たない、小盛りの赤飯が盛られていた。
瑞季は嫌味ったらしい表情を浮かべ、
「ダイエットしてんの。悪い?」
優志は、瑞季のウエストを指で測るような仕草をした。
「こんな細いのに、ダイエットする必要何かあるの?」
「食べても太らないアンタには言われたくない」
瑞季はクールに言葉を返す。
優志は、言葉に困っていたようだった。
「困った子達ね」
母が夏穂に向けて言う。
夏穂も、母と一緒になって笑う。
夏穂の心には、ひたすら「楽しい」という感情が芽生える。
また、その居心地の良さに溶け込んでいる自分にも、少し驚いた。
自分を受け入れてくれる居場所があるんだと、安心感を得ることができた。
ピンポーン
インターホンが鳴ったと思うと、今度は幼い声がした。
「おにいちゃん!」
その声を聞いて、優志はすぐに玄関へと向かう。
「お邪魔します」
今度は、女性の声が聞こえた。
先に、その女性が顔を出す。
「わぁ、お赤飯!」
女性は両手を合わせ、声を上げる。
母と差ほど変わらない、若い容姿だが、子供がいるということは既婚者だ。
どういう関係なのだろう、と夏穂は思う。
ママ友かな?
その女性と母が話している光景をよそに、夏穂は、優志と少女の会話に耳を傾ける。
少女は優志に飛びつくと、子供ながらの、無邪気な笑みを見せる。
「るー、相変わらず元気だなぁ」
「うん!!元気!!」
再度、無邪気に笑う。
「暑いなー。アイスでも食うか」
「うん!!」
少女を連れた優志が、リビングに顔を出す。
夏穂は少女と対面する。
サラサラの柔らかい髪に、大きな瞳がこちらを見つめる。
夏穂がぎこちない笑みを浮かべると、少女は小首を傾げ、優志を見る。
「るーの、もう一人のお姉ちゃんだよ」
優志は前屈みになって言う。
「るーの……おねえちゃん?」
“るー”と名乗る少女が、夏穂を見つめる。
小さく、囁かな声だった。
夏穂は、返答に少しの間を置きつつも、「そうだよ」と微笑んだ。
少女は嬉しそうに口を広げたが、すぐにそれを辞めた。
「人見知りする子なんだ」
後ろから、優志の声がした。
「私もです。子供は好きだけど、慣れてなくて」
夏穂は微笑する。
「大丈夫。好きなら、問題ない」
優志は冷蔵庫まで歩き、アイスを3本取り出した。
1本を少女、もう1本を夏穂に手渡した。
「アイスすきー!」
少女が言う。
少女は、アイスを食べるのに夢中になっていた。
「瑠流って言うんだ。俺が付けたの」
「るる……ちゃん?」
夏穂は、確かめるように言う。
優志は頷いて、「本人もすごく気に入ってるよ」
「私も、優志さんに付けてもらえばよかった」
夏穂が冗談交じりで言う。
「俺が付けたら、すごく変わった名前になると思う」
夏穂は笑って、「変わった名前が好きなんですね」
優志は「うん」とだけ答えた。
瑠流がプールに入りたいというので、優志は、庭に空気で膨らませたビニールプールを用意した。
優志は監視役になって、瑠流がはしゃぐのを微笑ましく見守っている。
夏穂はそれを、窓越しで見ていた。
真昼の日差しが、窓に反射している。
「特別、優志には懐くんだよねー」
振り返ると、瑞季がいた。
「優志、ロリコンだからね」
「そうなんですか?」
夏穂が驚いたように言う。
瑞季は頷き、「見てれば分かるでしょ」
夏穂は、優志が玄関に、真っ先に走っていった姿を思い出していた。
思わず、クスッと笑ってしまう。
「そんなにおもしろい?」
瑞季は、怪訝な表情で夏穂を見る。
「おもしろいです」
「あの子、従兄弟なの」
瑞季は、瑠流を見据える。
「優志には妹がいないから、小さい子を見ると仲良くしたくなるみたい」
夏穂は、納得したように頷く。
私は、お母さんもお姉さんもいないから……。
ふつふつと、湧き上がってきた感情を、喉の奥で押し込める。
それは、多少は辛くとも、いつも感じていたことだから慣れっこだった。
びしょ濡れになった瑠流と、汗を掻きながらも爽やかな優志が戻って来る。
母が、スイカを用意して待っていた。
優志はテーブルの前に座ると、
「あれ?玲子さんは?」
玲子さんとは、瑠流の母親のことだ。
「スーパーに出かけに行ったわ。また、迎えに来るって」
優志は「ふーん」とだけ返し、スイカにかぶりつく。
「夏穂ちゃんもおいで」
母が手招きする。
夏穂はゆっくり頷いた後、優志の隣に座った。
真向かいでスイカを食べている姿を見られるより、隣に座った方がいいと思ったからだ。
夏穂は、スイカをしばらくじっと見つめていた。
「遠慮しないで、食べていいのよ」
母が気にかけるように言う。
「いただきます」
夏穂は、小さく口を開きながら食べた。
「夏穂ちゃんさ」
夏穂は、優志に視線を向ける。
「頼ってもいいんだよ」
優志は、口元にスイカの水滴をつけたままで、どこか少年らしさを思わせた。
「でも……」
夏穂はためらい、俯いた。
「私は、優志さんにたくさん助けてもらってるのに、返す余裕がありません」
「もう、これ以上のことは望まない」と夏穂は言った。
それを見守っていた母は、何処か寂しそうな表情だった。
「それって、必ず返さなきゃいけないもんなの?」
優志の言葉は“疑問形”だったが、夏穂は答えることができなかった。
代わりに、どういうこと?と言うように優志を見る。
「無償の愛ってものも、あるんじゃないかな」
夏穂は、考えるように黙り込んでいた。
「俺がしてることは、恩を顧みない、無償の愛だよ」
夏穂は顔を上げ、優志を見る。
真剣な眼差しの優志は、あまりにストレートで眩しかった。
「一緒に暮らそう。そして、俺等の家族になろう」
それは、告白に似た衝動的なものだった。
夏穂の胸に、優志の言葉が浸透し始め、やがて、目には涙が浮かんだ。
ずっと、こうして、誰かに自分を「肯定」してもらいたかったように思う。
長年の、肩にのしかかった重圧のようなものから、夏穂を解放させた。
「おねえちゃんは、ひとりじゃないよ」
姉と一緒に、瑠流がお風呂場から戻ってきた。
瑠流の柔らかな頬は、桃色に色づいていた。
夏穂が、「おじいちゃん」に言った言葉だった。
「一人じゃない」と。
夏穂自身が、言って欲しかったことを、おじいちゃんにそのまま言っただけだったのかもしれない。
夏穂の目には、どんどん涙が溜まっていく。
「妹ができたのかー」
瑞季は呆れたように言ったが、それは決して嫌味ではなかった。
母は、ただ静かに微笑んでいる。
夏穂は知っている。
優志の家族は、みんなとてもいい人だということを。
そして、そんな家族を信じてみたいと思った。
夏穂は、優志の顔を見て、ニッコリと笑い、
「よろしくお願いします」
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
第五章もよろしくお願いします☆