生きる
「優志さん」
夏穂は、恥ずかしそうに彼の名を呼ぶ。
二人は、パン屋の後ろのコンクリートブロックに座っていた。
「ん?」
夏穂は手に持っていたメロンパンを半分にちぎり、片方を優志に手渡した。
「えっ。いいよいいよ!夏穂ちゃんが食べて」
優志は、頑なに遠慮する。
「優志さんと食べたほうが美味しいかなって」
夏穂は、顔を伏せ気味で言う。
緊張と恥ずかしさで、体に力が重くのしかかるようだ。
「そ、そう?ありがとう!」
優志は髪を触っては、照れた様子を見せる。
夏穂は顔を上げ、まだ赤い頬のまま、もう一度パンを手渡す。
「あ……」
夏穂は手を滑らせて、持っていたパンを地面に落とす。
虚しくも、土にまみれたメロンパンを見つめ、夏穂はただ亜然とするばかり。
「やっちゃったね」
優志は苦笑いする。
夏穂は動揺しつつも、頷く。
「俺の分はいいからさ。夏穂ちゃんだけ食べて」
夏穂は、自分の手元に残っていた半分のパンに目を向ける。
じっとそのパンを見つめていると、口の中の唾液が増すのを感じた。
夏穂は言葉に出さず、「本当にいいの?」と言った顔で優志を見つめる。
優志はそれを察したようで、「どうぞ」と微笑む。
夏穂は軽く頭を下げ、
「いただきます」
外はサクッと、中はしっとり柔らかい。
夏穂は、久しく忘れかけていた、“メロンパン”という味を思い出した。
口一杯に広がるメロンの味。
高級なイメージの強いメロンを、こんな風に誰もが食べやすいよう、“メロンパン”として生み出してくれたのは誰だろう。
その人に、私はとても感謝したい。
「美味しそうに食べるね」
優志がクスッと笑った。
「夏穂ちゃん、すごい幸せそうな顔してた」
夏穂は、優志の顔をまじまじと見つめた後、
「美味しいですよ。そりゃあ」
「俺、もっと夏穂ちゃんの幸せそうな顔見たいな」
「え……」
二人の視線が交差する。
夏穂は、恥ずかしくなって目線を反らした。
優志は、構わず夏穂を見つめる。
「困ったことがあったら何でも言って。俺じゃ、力不足かもしれないけど」
「そんなことないです。十分助けてもらって、申し訳ないくらいです」
夏穂は首を振り、言う。
「パンも、欲しければいくらでも食べさせてあげるからね」
夏穂は目を輝かせる。
「ありがとうございます」
「すっかり暗くなっちゃったね」
空は青紫色に染まりかけていて、白い月がぽっかりと浮かぶのが見える。
やがて、その白い月は、灰色の雲に隠れてしまう。
手をかざすと、水滴が掌に伝うのを感じる。
「雨も降ってきたみたいですし……では、私はこれで」
夏穂がコンクリートブロックから腰を上げると、優志は引き止めるように言った。
「傘、忘れたでしょ。送ってくよ?」
夏穂は、少し考えてから首を振る。
まさか、バス停の待合小屋に住んでいるなど、思われたくはない。
「夏穂ちゃんに風邪引かれたら、俺が困るよ」
夏穂は、それでも頑なに首を振る。
優志はそんな夏穂から、夏穂が何かを隠し、守っていることに気づく。
「家まで着いてったら、彼氏気取りみたいであれだからさ……途中まで!なんて、どうかな?」
夏穂は顔を上げ、優志を見ては微笑む。
「はい」
優志はそっと傘を開く。
夏穂はよそよそしくその中に入り、窮屈に肩を並べる。
緊張と同時に、思わず頬が緩む。
足元を見れば、小さな水溜りが視界に映る。
「寒くない?」
初デートのような緊張した空気の中、優志がようやく口を開く。
「大丈夫です」
「本当?俺は寒いけどさ」
「……私もです」
優志がふっと、笑い声を漏らす。
夏穂が優志の方を見ると、優志の濡れた肩が目に映った。
優志が夏穂を気遣って、傘から体を引いているのが分かった。
夏穂はそれを見て、いたたまれない気持ちになった。
優志が、自分にしてくれていることの一つ一つが、胸一杯で、嬉しいはずなのに、心苦しくなる。
何も言わない優志の肩を見つめながら、夏穂は静かに涙する。
透明な涙が、頬を伝って、水溜りへと落ちていく。
その音は、微かにも聴こえる気はしない。
雨の音にかき消され、頬が濡れているのは、雨のせいだと思わせることもできる。
夏穂の涙にふさわしい、静かな雨音だった。
今日も、学校を終えて、疲れ切った体のまま、パン屋へ向かう。
体は疲労で一杯のはずなのに、何故かスキップするほど足取りが軽い。
優志の優しい笑顔を思い浮かべては、自然と口角が緩む。
「待っててね。優志さん」
夏穂は、心の中で言う。
誰かの話し声が聞こえる。
その声の中に、優志の声を聞き取った夏穂は、気持ちを弾ませ、近づいて行く。
窓の隙間から、彼の姿を覗くことができた。
優志の表情に「怒り」が見えたことに、夏穂は驚く。
いつも優しくて爽やかな優志が、怒ることなんて考えられなかったからだ。
「良心のない奴なんて、最低だな」
何の話だろう?
夏穂は、その声に耳を傾ける。
「良心なんてもので、お金が手に入るもんかい」
そう言ったのは、優志と向かい合って話すおばさんだ。
小さく、小太りな容姿が目に映る。
「うちの店は、常連客がほとんどいない。何故だか分かりますか」
おばさんは、優志の問いに答えず、鼻で笑う。
「アンタが、お客さんに対して、上辺だけでしか接してないからだよ」
優志は続ける。
「パンは味が全てじゃない。真心がないパンなんて、誰も食べたいと思わない」
「全ては金のためさ」
おばさんが言う。
「その内、この店も潰れるだろうな」
おばさんは大きく口を開けて笑う。
「私の腕前を知らないのかい」
「知ってます」
おばさんが「じゃあ」と言いかけたのを無視して、優志は続ける。
「腕前だけじゃ、やってけないこともありますよ。例えば、体操選手は才能だけあっても、努力をしなきゃ、後から来た新人に追い越される」
おばさんは、ずっと呆れたように笑っているばかりだ。
「お客さんは、あなたが思ってる以上にあなたを見ている。だから、最初の客は掴めても、後が続かない」
「常連客ならいるじゃないか」
一瞬、おばさんと目が合い、夏穂は咄嗟に身を隠す。
角度的に、絶対に見られることのない、壁の影に隠れた。
「小汚いパン泥棒がね」
おばさんは、高らかな声で言った。
それは、夏穂にわざと聞こえるような言い方だった。
夏穂は、思わずハッとする。
「アンタもアンタだよ。あんな金取り娘と仲良くして」
「金取り娘なんかじゃねぇよ!!あの子は、あんな小さなパンで、お腹一杯みたいな顔して笑ってた」
優志の顔に、火が付いたように怒りが燃え上がるのを感じた。
「貧乏人には、あれくらいが十分じゃないか」
優志はチッと舌を鳴らす。
「最初は六人もの従業員がいた。みんな言ってた。あのおばさんとは一緒に仕事する気になれないって。今では、アンタと二人だけになった」
「アンタも辞めるのかい」
おばさんの声は、少し寂しそうだった。
「あぁ。あの子のことを許してくれないなら」
「許せないね。アイツのせいで、うちは赤字になりそうだよ」
おばさんは、投げやりな態度で言う。
「赤字って、あの子のせいじゃないだろ。元々、売れ行きが悪くて、赤字になりかけてたんだ」
おばさんはふふんと鼻を鳴らした後、
「辞めちまいな」
優志は何も言わず、その場から姿を消す。
優志が店から出て行くのを見て、夏穂は胸が詰まる思いだった。
優志さんが……パン屋を辞めちゃう!!
私の……せいで……。
それ以来、夏穂がパン屋に行くことはなかった。
優志とおばさんの口論を聞いた2週間後、そのパン屋には、「閉店」の文字が貼られていた。
夏穂は、優志の事を頭の片隅に置きながらも、必死で勉強に励んだ。
とにかく、今の自分にできることは、勉強して、学校を無事卒業することだ。
空き腹を何とか抑えながら、閉館時間ギリギリまで、図書館で過ごす。
それと共に、生きることに必死だった。
パン屋に行けなくなると、食べる物がほとんどなくなってしまう。
夏穂は、食べれる物を必死に探した。
ミニ栽培キットのハーブは、まだ食べれる程にもない。
とぼとぼと歩いている時、「ハンバーガー1つ無料券」を拾った。
夏穂は、その券を咄嗟に拾ったものの、その場で眺め、立ち尽くすばかり。
それを、どうしてもポケットにしまうことができないのだ。
小さい頃から頭に叩き込まれた、あの言葉がこだまする。
「いい?人に頼ってはいけないのよ。頼ったら、頼った分だけ、恩を返さなきゃいけないから」
こんな時に、どうしてそんな良心を抱けるのだろう。
生きることに必死となれば、人への想いやりも薄れるはずだ。
盗みだってできるし、毎日同じ服で過ごすことも、お風呂に年中入らないこともできる。
なのに私は、こんなちっぽけな誰かの落し物ごときで迷って、「汚い」と言われることを避け、見た目を気にして……。
気づいた時には、その無料券は、涙でくしゃくしゃになっていた。
夏穂は為すすべがなく、仕方なく家へと帰る。
家へ帰る路地で、通りかかった車に、水溜りの水を跳ねられた。
そのせいで、夏穂の制服はびしょ濡れだ。
その時、夏穂はどこからか、声を聴いた気がした。
「私は惨め」
その言葉が、段々頭を支配するようになる。
まるで、呪文のように何度も唱えて……。
家に帰って、すぐ制服を脱ぎ、代わりの服に着替える。
その服は、古着屋で300円で購入したもの。
だいぶ前から使い込んでいるため、色も落ち、素材も薄くなるつつある。
もちろん、そんな服を着ても冷えが収まる訳もなく、安心して落ち着くことはできない。
壁に寄りかかり、ペタンとお尻をつけると、頭の中にはパン屋のおばさんが浮かぶ。
思えば、おばさんは一番人間らしい人かもしれない。
「自分のため」だけに生き、他人には一切妥協しない。
今の夏穂となっては、それが、人間の本来の姿に思えるのだ。
ならば自分も、この残された力を使って、「人間本来の姿」で生きてみようではないか。
夏穂はそう思ったものの、やはり、「良心」が邪魔をする。
「くだらない……くだらない……こんな良心……くだらない……?」
夏穂はもう一度確かめるように、自分の胸に右手を置く。
「くだらなく……ない」
そう、声に発した自分に驚き、夏穂はその意味を考え込む。
「くだらなくなんかない。優志さんがしてくれた良心は……私を救ってくれたんだ」
夏穂の心に、少しの「希望」が芽生え始める。
夏穂は雨上がりの空を見て、その空に囁くように言う。
「私は、どんなことがあっても、「良心」を忘れない。「希望」を忘れない」
そうだ。
命がある限り、何だってできるんだ。
まだ、私に太陽は見えるから。
全力でぶつかって、たくさん傷を負っても、「私は惨めです」なんて顔をしない。
私は……「私は精一杯生きてます」って、生命力溢れる自分を見せつけるんだ。
夏穂の心の中に、生きる力のようなものが、注ぎ込まれた瞬間だった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
第三章もよろしくお願いします☆