その剣の意味(30)
「何で初デートの晩に他の女と寝てんの?」
落ちる寸前にこんな声をかけられれば、跳ね起きたくもなるというものだ。目に飛び込んできたのは、染みのついた天井などではなかった。黒と灰色の縞模様が流れる空間。視線の先に死神がいる。
「眠りたい時に限って出てくるなよ……」
「いや、会いたそうなこと言ってたから」
「言ってねえ」
あくびを噛み殺しながら背伸びをしても、怪我の痛みはなかった。どうやらこの空間では『普段の』姿で出現できるらしい。とはいえ体調の悪さはしっかりと反映されているらしく、体は起きている時以上に重かった。肉体という出力装置がない分、余計に精神面の影響が強く出るのかもしれない。服を着ているのは不幸中の幸いだ。素っ裸でこの死神と向かい合うなど、笑い話にもならない。
さて、どうしてくれよう。会いたいとは言わなかったが、聞きたいことがあったのは事実だ。この際彼の正体について問い詰めてみようかと思ったが、やめにした。どうせまともな答えなど返ってくるまい。
カイラルの内心を見透かしたのか、死神は薄く笑って「よろしい」と言った。
「わかってるようで何よりだ。お望みの答えを簡単に教えてやるほど親切でもねえよ。僕の正体くらいはおいおい探ってみることだ。……デートは失敗だったな」
「失敗なんてもんじゃねえよ」
気晴らしに出かけたはずが殺されかけて帰ってきたなど、キエルにどう釈明したものか。言わぬことではない、勝手に遠出するから――と大目玉を食らうのは決まりきっている。こんなことになるなら、今日も大人しく引きこもっていればよかったのだ。
しかし死神は、憮然とするカイラルを嘲ろうとはしない。
「僕はデートが失敗とは言ったが、お前の行動が全部間違ってるとは言ってないぜ。お前、今日一日だけでセリアの懐にどれだけ踏み込んだ? 上っ面だけの仲良しタイムが終わったのを感じたろ?」
一日分の記憶が蘇る。振り返ってみれば、セリアの姓と役目を聞かされたのは、つい今朝の話なのだ。そこから始まる一日は、あまりにも濃密な時間だった。それは彼女の清純な一面だけを愛でていたのでは、決してたどりつくことのない経験だった。
「歪な人生の者同士、痛みもなしに理解し合えるわけないんだよ。時には傷の晒し合い、えぐり合いも必要ってことさ。感情のままに動く方がいい場合だってあるんだぜ。あのザトゥマに啖呵切ったのは、酒の勢いもあったのかもしれないし、痛い目も見たろうが――相手は負けを認めて、お前は生き延びた。十分じゃないか」
「……そう言われりゃ、そうなのかもな」
「だからこそ、最後のあれはいただけない」
死神の口調は、手の平を返すように厳しくなった。
「あの娘に劣情を掻き立てられたのはいい。だが、それを他の女にぶつけたのは失礼ってもんじゃないのかね? 両方に対してだ」
返す言葉がなかった。カイラル自身、十分に恥じていたことだった。ロゼッタはセリアを気に入っているようだし、彼女とカイラルの抱える事情を理解してくれてもいるが――他の女の代替品にされたことを、面白くは思うまい。セリアにとっても、自尊心に泥を塗られる話だろう。自分に向けられるべき情欲は、他の女で処理可能なものだと言われたも同然なのだから。
認めるしかあるまい。自分は薄汚い欲望に負けたのだ。後一歩で、あの日この手で殺した暴漢どもの同類になるところを、卑怯な方法で回避したにすぎないのだと。
しかし、セリアのどこにこれほど昂ったのか、理解の及ばないところはある。柔肌から久しく離れていたのだとしても、ロゼッタの推測が当たっているのだとしても、どこか腑に落ちない。あの肢体を蹂躙しかけた事実よりも、その原因がわからないことの方が恐ろしかった。何としても、あの膨大な熱量の発生源を突き止めなければならなかった。でなければ、きっとまた彼女を――。
そこまで考えて、結局は言い訳を探していることに気づき、カイラルは拳を地面へ振り下ろした。終わりよければすべてよし、ならばその逆もまた然りだ。時間を今朝まで巻き戻したくなってくる。
「後悔しているか? やり直したくなったか? 無理だね」
辛辣な言葉とともに、死神が鎌を持ち上げる。振り下ろされた刃が地面に突き刺さると、大小の亀裂が枝分かれするように広がった。
「一度選んだ選択肢は覆せない。物語はすでに分岐したんだ。別の道を選んだ世界も、きっと遠いどこかに生まれているだろう。だが、お前がそれを見ることは決してない」
もう後戻りはできない。反省はすべきだが、後悔している暇はない。過去ではなく未来の可能性にかけて、また新たな分岐点にぶつかるまで駒を進めるしかないのだ。
「ま、説教はこの辺にしとくよ。ロゼの言う通り、お前にまとわりつく『死』は、劣情を昂らせてやまない。つまりは僕がそもそもの原因なんだ。お前だけに責任を押し付けるわけにはいかないだろう。……それはそれとして」
死神は鎌を担ぎ直すと、真面目くさった声で言った。
「セリア、着痩せするタイプだな」
「人が修羅場ってた時にどこを見てんだお前は! というか、もしかしてお前、俺のやってることが全部見えてるのか?」
「直接見えるわけじゃないさ。でもまあ、お前の記憶は全部把握できるから、実質同じようなもんだ」
ということは何か。ロゼッタとの行為も何もかも筒抜けだったということか。カイラルは頭を抱えてもんどり打った。
「何を今更驚いてるんだ。僕はお前の魂の住人だぜ? わかって当然だろう」
「この居候追い出してえ……」
「心配しなくても、これから女とよろしくやってる時の記憶はのぞかずにおいてやるよ。出歯亀の趣味もないんでね。だが物語に影響を与えそうな様子なら、容赦なく踏み込むぜ。でないと僕も話についていけなくなるからな」
うつ伏せのままバンバンと地面を叩いていたカイラルだったが、死神の言葉にふと我に返った。そういえば、と姿勢を正し、改めて死神と向かい合う。
「どうした、急にかしこまって」
「礼を言っとこうと思って」
「うん? 今の助言についてかい?」
「ザトゥマに殺されかけた時、一瞬出てきてくれたろ。あれのおかげで命拾いしたようなもんだから」
「あー……だから、あれは僕じゃないっての。この姿は閉塞世界からの借り物、お前が呼べるのは単なる投影なんだって。セリアも言ってたろ、間違いなくお前自身の力だと」
「じゃあお前、その姿になるまではどんな格好してたんだ?」
答えはすぐに返ってこなかった。死神はまっすぐにカイラルを見据えた後、伏し目がちに言った。
「お前がセリアに語った通りだ。この姿を得るまで、僕の存在は希薄すぎて、こうやって夢の中で話すこともできなかったのさ」
滅びた街を徘徊し、墓守として常に死が身近にあった自分に、死の力が宿ったことに異論はない。それを具現化した存在として、死神という媒体が選ばれたのも納得はいく。では何故、いつからいたのかもわからない魂の住人が、それと都合よく融合できたのか。
カイラルの脳裏には、すでに一つの答えが生まれていた。確証はなかったが、今この死神が果たしている役目と、閉塞世界の仕組みから察するに、正解から遠くはないと感じた。しかし、それを本人にぶつけるのは時期尚早に思われた。先程の返答は、カイラルの踏み込みに対する褒美だろう。当てずっぽうな推論では、これ以上飴玉を放ってはくれまい。
「いいよ。俺はお前を呼んでると思うことにする」
「勝手にしろ」
「ああ、もう寝る」
「おやすみ。朝はさっさと起きて出て行けよ。言っとくが僕は起こさねえぞ」
やれやれとばかりに、死神は背中を向けてしまった。
大の字になって天を仰ぐ。黒と灰色の縞模様が流れている。これは、あの壊れた世界の中と同じ光景だ。これが自分の魂の内部だとすれば、何と寂しいセカイだろう。だが、ここで何年もの間、たった一人で待ち続けていた者がいるのだ。一個の存在として確立することさえできず、無限にも感じられる時を耐え忍んでいた精神体が。
早めに会いに来てやるか。その方法も知らないままに思い、カイラルは目を閉じた。
二日後。
ミンツァーからの呼び出しは来た。