その剣の意味(29)
もやのような苦悩の内にいるカイラルを、ロゼッタは黙って見ていた。すると何を思ったのか、煙草の煙をカイラルに吹きつけたものである。
「何だよ」
「浮気者」
「あ?」
「もう完全にあの娘のことしか頭になくなってるでしょ。この間からずっとそうだったんじゃない? 私というものがありながら」
「別に俺とお前は付き合ってるわけじゃねえだろ」
「それが童貞捨てさせてやった女に対する態度かコラ」
「その話はお互い様だろうが」
「今までただでやらせてあげてた分の代金全部請求するわよ」
「払うって言っても受け取らなかったのはお前じゃねえか」
「……ああそうですか。どうせ私は呼べばいつでも来る性欲処理用の女ですよ。その他大勢の情婦の一人ですよ。ハッ」
ロゼッタは煙草を灰皿に押し付けると、ぷいと顔を背けてしまった。天気のようにころころと機嫌の変わる女である。カイラルも舌打ちをして、どっかりと寝転がり、目を閉じた。
幼馴染にして、姉のような妹のような、同僚とも言えるもの。セリアに語った二人の関係は、どれも決して嘘ではない。しかし、それが取り繕いにすぎないことは、ザトゥマとのやり取りからも知られただろう。
憎からず思い合う仲であることは確かだと思う。だがそれは、世間が想定するような年頃の男女の交友とは明らかに異なっていたし、かといって無頼漢と情婦の間柄でもなかった。気に入るとか気に入らないとか、好きだとか嫌いだとか、ありきたりな感情で言い表すのはためらわれるのだ。
かつて咲き誇る街の掃き溜めで紡がれ、あの災厄を経て大きく変わってしまった二人の絆は、まだセリアに語る段にない。あの殺人鬼の言葉を認めるようで気分が悪いが、事実は事実だ。これはカイラルがセリアに抱く感情とはまったく別の話。どれだけ重要な登場人物だろうと、セリアは乱入者にすぎない。そんな異物が簡単に入り込めるような隙間など、ここには存在しないのである。
薄く目を開けてロゼッタの方を見ると、まだ背中を向けていた。こういう時のロゼッタは要注意である。不貞腐れているようでいて、しっかりとこちらの様子をうかがっているのだ。ご機嫌取りのような真似はかえって不興を買う。彼女の性質をよく知るカイラルは、思ったままを口にした。
「手負いの獣なんだとさ、俺は」
「え?」
「セリアがそう言ってた。俺の生き方はそうだって」
深い意図があったわけではない。ただ、セリアの話を続けようとしただけだ。ロゼッタがそうしてくれたように、自分も二人の女の橋渡しをすべきだと察したのである。取り返しのつかないすれ違いが生まれぬように。そのためには、ただただ語るしかない。
ロゼッタは、きょとんとした顔になったかと思うと、
「――あはは、手負いの獣か。上手いこと言うわね」
小悪魔のような笑みを浮かべて、カイラルの上にまたがってきた。
「知ってる? 死ぬほど疲れてる時って、下半身の方はかえって元気になったりするのよ。人間が獣だった頃の名残。最後に子孫を残そうとしてそうなるんだって。さっきのあんたはまさにそうじゃない」
ダウルから同じようなことを聞いた覚えがある。生命をつなぐこととは無縁に思えるカイラルが、男女の交合について異様なまでに精強なのは、常に死を求めていることの裏返しなのだと。
「ナイトレイドを作って間もない頃なんだけどね。ファンだって人が、夜の方のお客として来たの。真面目で女に縁のなさそうな、独身のおじ様。あんまり顔色よくなくて、大丈夫かと思ったんだけど、これがもうものすごいのよ。本人も言ってたわ。こんなに男の力が出せたのは初めてだって。……それからしばらくして、道端で死体になって見つかったわ。全身に転移したガンでボロボロの状態だったって、ダウルのお爺ちゃんが言ってた。もしかしたらあの時腹上死してたかもって思うと、ゾッとしたけど……あれがあの人の、最後の力だったのよ」
気持ち悪い、と言いたかった。そんな情けない死に方をした男と一緒にされるのは我慢がならない。だが、目をつけたところは違うとはいえ、カイラルを手負いの獣と呼ぶことにはロゼッタも納得らしい。少なくとも、わずかな間にカイラルの頭を占領するだけはあると、嫉妬も込みでセリアを認めたようだ。
「なるほどねえ。あの娘、短い間にあんたのことよく見てるのね」
「あいつはお前らのことも言ってたぜ。高潔で実行力を伴った覚悟があるとか」
「うわあ、あの娘らしいけど過大評価すぎて恥ずかしいわ。……ふふ、やっぱ私、あの娘好きだなー。五人目のメンバーにもらっていい?」
「本人に聞けよ。楽器が弾けるかどうかは知らねえ」
「あんたと一緒にマネージャーになってくれてもいいのよ。裏方の仕事まで自分達でやってる余裕なくなってきてるから。二足のわらじもどこまで履けるかわかんないし。中途半端はやめて、これからどうするか考えた方がいいのかも」
「地下アイドルだからこそできることもあると思うけどな。その方がいいって奴も多いし。メジャーデビューしちまったら夜の仕事は即引退、ライブで悪ふざけもできなくなるぜ」
「お客にパンツ投げたりとか?」
「それは今でもやるなっつってんだろ」
「うん。……そうねえ」
自分に落とされているはずのロゼッタの視線は、どこか遠くを見るようだった。下着を投げるのは冗談にしても、今後の活動をどうすべきか、真剣に思い悩んでいるに違いない。思えば、彼女達の活動には旗揚げ当初から関わってきた。マネージャー紛いの仕事も、文句を垂れつつそれなりに楽しくやっていた。だが、過渡期を迎えた彼女達を、支え続ける資格が自分にあるのか。巣立ったばかりの四羽の鳥がやがて成熟する時、自分はまだ横にいるのだろうか――。
未来をぼんやり思い描いていると、ロゼッタの裸体が霞んだ。
「疲れたんでしょ、もう寝なさい」
ロゼッタは上からどくと、シーツをカイラルにかけてやり、その髪をそっとなでた。時計はとっくに零時を回っている。ロゼッタは知る由もないが、一日後にはまた新たな戦いが始まるのだ。あまりに短い休息は、この傷を癒してくれるのか。どんな顔をしてセリアに会おう。いくつもの不安を夢の中に持ち越して、カイラルの意識は落ちていく。
「ちゃんと早く起きて先に出て行きなさいよ。あの娘に見つかるとまずいでしょ」
「わかってる……」
言った時には、カイラルはもう寝息を立てていた。目まぐるしい一日は、そこで終わった。
子供のような寝顔を、ロゼッタは静かに見つめていた。